03:悪魔or天使
(――⁉︎)
男の声だ。それも、成人したであろう、低く落ち着いた声。その声を聞いた瞬間、背中にぞくりとした感覚が走った。
が、それがはたして恐怖からだったのか、それとも別の何かからだったのか、今の愛莉にはわからない。
「出てこい。さもなくば問答無用で殺すぞ」
〈ひっ。す、すみませんでしたぁあ‼︎〉
ここまで綺麗に脅しに引っかかる女もいないだろう。すでに死んでいるというのに、彼女は一も二もなく土下座した。
〈ごめんなさい許してください殺さないでください。私何も悪いことなんてしてません。確かにちょっと出来心で母のプリンを食べたり、体育祭に行くふりして実は漫喫に行ってたり、父の育毛剤を買いに行くのが面倒で中身に水を入れて誤魔化してみたりはしましたけど……けど! それで殺されるなんてあんまりだっ!〉
「…………は?」
〈ひっ。す、すみません口答えすみません! でもどうか見逃してくださいっ〉
ひたすら謝った。自分でも何を謝っているのかわからないほど、とりあえず命乞いをした。その命がもうないことも忘れて。
車に轢かれたときよりも、断然今のほうが恐怖である。おそらく男だろう――土下座しているので顔を見ていない――人物から発せられる威圧が、愛莉を必要以上に怖がらせる。
なぜなら、普通に平凡に生きてきた愛莉は、今まで殺気というものを向けられたことがないからだ。
その恐怖のせいで、愛莉は重要な矛盾にまだ気づかない。
「おまえ、ただの浮遊霊か? どういうことだ? ここに他に誰かいなかったか」
〈え? ええっと……?〉
「だから、ここに生きた人間はいなかったかと訊いている」
〈生きた人間? 私以外の?〉
「おまえは死んでるだろう、すでに」
〈あ、そうだった。私死んで……え、死んで⁉︎〉
驚いたのは、もちろん自分の死ではなく。
〈あなた、私が視えるの⁉︎〉
ようやく愛莉はその事実に気づいた。霊になったはずの自分を、初めて認識してくれた。
ということは。
〈てん…………じゃない本物の悪魔きたぁぁあ‼︎〉
「はあ⁉︎」
天使が来てくれたのかと思って顔を上げた先。
眼光鋭く自分を見下ろす男に、愛莉の本能がこいつは天使じゃないと警告した。闇色の髪に、青とも紫ともとれるような美しいタンザナイトの瞳。さらには筋の通った高い鼻と形のいい薄い唇。一見しただけで整った顔の男だとわかる。背も高い。はっきりと浮き出ている喉仏には大人の色気を感じた。
が、それら全てを台無しにするほど、男の眉間には深いしわが寄っていた。それもう彫刻として彫られちゃったんですかと初対面の愛莉が思うほど、くっきりはっきりと、だ。
そんな眼差しを向けられれば、平凡な愛莉は、男の正体を悪魔一択に絞るほかない。
〈悪魔は勘弁ですーっ〉
「おい、ちょっと待っ――――くそ、逃げられた」
恐怖が限界を超えた愛莉は、そのまま壁をすり抜け外へと逃げる。初めからそうしていればよかったのに、今のこの行動すら、彼女は考えてやったことではない。
「団長、いましたか?」
「いや、こっちは空振りだ。そっちは?」
このあと自分がとんでもない事件に巻き込まれるとは、このときの愛莉は砂粒ほども思っていなかったのである。
後先考えずがむしゃらに逃げていた愛莉は、空が橙色に染まり始めた頃、ようやく我に返った。
そして思う。
〈ここどこ⁉︎〉
上を見ても下を見ても、右を見ても左を見ても。見覚えのない景色が広がる。
さっきは建物ばかりだったのが、今ではずっと野原が続いている。後ろを振り返れば小さな灯りがいくつか見えた。家から漏れているものだろう。たぶん、愛莉はさっきまでそこにいた。
それがいつのまにか建物の輪郭さえ危ういほど離れたところにまで来てしまって、愛莉は無意識に腕をさする。
だんだんと陽は傾き、あっという間に夜が来た。
静かだ。動物の声だけがどこからともなく聞こえてくる。風が吹き、木々がざわめく。
誰も、いない。
愛莉は唐突に実感した。
(あ、私、独りなんだ)
知らない場所に、独りぼっち。しかも天国か地獄かもわからない場所で。
夜はだめだ。なぜか感傷的になってしまう。
(そうだよ、私、死んじゃったんだもんね。そりゃ、独りにもなるよね。……お母さんとお父さんにも、もう会えないんだよね)
普通の家庭だった。普通に笑い合って、喧嘩して、仲直りして。あの日もいつもどおり、行ってきますと家を出た。
(なのに、死んじゃったんだ私。二人よりも先に)
なんて親不孝者だろう。日頃から「母よ、人はいつ死ぬかわからないんだから、今を楽しまなきゃ損なんだよ!」なんて中二病くさいことを言っていたけれど、まさか本当に若くして死ぬとは思ってもいなかった。
きっと母も思っていなかっただろう。頭の弱い娘なのかな、とでも思われていたに違いない。もしかすると、そんなことばっかり言ってるからこんなことになったんだ、と今頃怒られていたりもするかもしれない。仏壇に向かって。
そう思った途端、愛莉は急に寂しくなった。恋しくなった。
(会いたい。お母さんとお父さんに、もう一度……っ)
会いたいのに、自分の身体は透けている。こんな自分に、母も父も気づいてはくれないだろう。だって自分は幽霊になってしまったのだから。
さっきだって誰も気づいてはくれなかった。それがまるで、世界から存在を消されてしまったかのように思えてきて。
(や、だ)
このままでは、透ける自分さえも見えなくなり、本当に自分という存在が消えてしまうのではと恐ろしくなる。
(やだ、誰か、誰かいないの)
誰か、自分に気づいてくれる人は。
間違いなく自分はここに存在しているのだと、肯定してくれる人は。
そのとき愛莉の頭に浮かんだのは、母でもなく、父でもなく。
今日初めて顔を合わせた、悪魔のように怖い顔をした男だった。
(そうだ、あの人なら!)
勢いよく振り返る。街の灯りがうっすらと輝き、さっきは何も思わなかったその光が、まるで絶望の中の希望に見えた。
愛莉は急き立てられるようにそこへ向かって飛んでいく。さっきは男から逃げたというのに、今度は男を探しているなんて、全くおかしな話である。愛莉自身がそう思う。
けれど、自分という存在が消える恐怖に比べれば、他は瑣末なことに思えた。
飛んで、飛んで。
行きはあっという間に見知らぬ場所に着いたのに、帰りは飛んでも飛んでもあの灯りに近づけない。
霊なんだから息苦しいはずもないのに、なんだか呼吸が苦しいと感じる。喉に粘ついたものが引っかかっている気がして、余計に苦しかった。
飛んで、飛んで。
やっと、街の灯りの中に辿り着く。
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