別離の決意と過去《下》

 そして、しばらくして彼にはもう一つ耐えなければならないことができてしまった。

 そう、優華の噂も広がっていったのだ。だが、住田の目の前では彼女を擁護することもできない。そうすれば、必ず彼女も標的にされてしまうだろう。だからこそ、彼は静観するしかなかった。

 初年度は自分が被害にあう以外には何事もなく終わった。

 住田たちからの暴行や下僕扱いは毎日のように続き、授業後はほとんど彼らのアジトで過ごしていた。

 校内で康太が静かに見守っていた優華も住田たちの黒い噂には気づいているようだったので、定期考査などの学力が問われるものに対してかなり手を抜いているようだった。もちろん、すでに『寺子屋』には通っていないので、憶測でしかないが、クラスの女子たちの噂を聞けば聞くほど、優華が手を抜いているのは明らかだった。どれだけ頑張っても平均点しか取れない康太とは違い、優華はわざと手を抜いている。そんなことができる器用さが羨ましかったが、それ以上に彼女の苦労がとても途轍もないものだろうと想像できた。


 しかし、二年生に上がった夏休み前の定期考査。彼女の苦労を上回る悲劇が彼女を襲った。


『ねぇ、こいつ五十五点も取っているよ』

 清楚系に見えるが実際はかなり質が悪い不良、井田彩名がそう大声で叫んだ瞬間から、優華の周囲は一転した。今まで手を抜いて失敗したことはなかった彼女が、住田自身の失敗で『自身の存在消失』を失敗してしまったのだ。

 ほとんどの科目で住田に勝ってしまった彼女には、いじめという結果が待っていた。


 もちろん、彼女に全く非はない。むしろ、今までも半分いじめのようなものだった。

 結局、一週間もたたないうちに、見るからにボロボロになった彼女が康太の目の前いた。


 彼女に手を差し伸べたい。

 彼女を救いたい。


 だが、康太にはどちらもできなかった。どちらも自分には無力だと感じていた。しかも、彼女へのいじめが始まって以来、“センパイ”たちが職員室へ何度も訪れるのを見てしまい、優華のいじめを教員へ言っても無駄だと気づいてしまった。

 夏休み前のある日、康太は『寺子屋』に向かっていた。意識して向かったのではなく、気付いたら、という風だった。この日は『寺子屋』開校日ではなく、離れは閉まっていたので、母屋に向かうと優華が出てきた。ぱっと見でもやつれている彼女は痛々しく、抱きしめたかったが、なぜかできなかった。

 彼女は突然訪れた康太に驚きながらも、離れに案内してくれた。

『助けて』

 その言葉を最初に言われたとき、康太は自分が解決する、と言ってしまった。だが、教員に言うこともできない。現状を聞いた康太は本当にどうしようもないのかと考えていたが、最初で最後の手段が残っていることに気付いた。だが、それもうまくいくか分からなかった。


 最初で最後の手段、それは父親に相談することだった。

 夜、父親に学校の実情含めて相談した。もちろん、自分の事は隠して。案の定、父親は難色を示した。父親も康太の幼馴染である優華のことは覚えていて、個人的には助けたいと言った。だが、組織の一員としては、介入はできるにはできるだろうが、上役や加害者の親が黙っていないだろうな、という見解を示した。そんな父親の言葉を優華に伝えるわけにはいかなかった。

 結局、打開策が見当たらないまま夏休みを迎え、優華に接触することもままならない状態で九月を迎えた。

 人の噂も七十五日まで、とあるように、しばらくしたら彼女は開放されるのではないかと期待していたが、それは幻想だった。優華へのいじめはエスカレートしていき、ついに優華が学校を休むまでになってしまった。


 あの時、声を上げていたなら。


 そう思い始めるようになったのもその頃だった。

 だが、時間は巻き戻らない。立ち止まることもなかった。


 十月十日。

 その日は康太の誕生日だった。だが、非常に気分は憂鬱だった。

 楓先生から電話で少し前に相談を受けていたが、自分ではどうすることもできないことがもどかしかったのだ。


 そして、その気分に拍車がかかったのは、その日、登校して間もない時だった。

『おい、仁科が大事そうに持っているあの金の栞を壊してこい』

 そう住田は授業前に言ってきた。もちろん、壊すふりさえすればいいかと思ったが、直後に見せられた二枚の写真を見せられて、逃げられなくなった。

『お前のとおちゃんと母ちゃんだろう?』

 彼らは自分の両親の職業を探り当てたらしい。下衆な笑みを見せながら住田は脅した。康太の行動によっては“センパイ”が、両親に何か危害を加えると。

 散々迷ったが、彼は最も愚かな行動をとってしまった。

 昼休み、校舎の裏で優華を見つけ、駆け寄ってきた彼女の手から本を奪って、それを引き裂いた。

 本に挟んであった栞が落ちた。

 優華も拾おうとしたが、それよりも早く康太はそれを拾い上げた。一度、優華の方を見てしまった。彼女は康太の変貌に怯えているようだった。だが、気にすることなく康太は栞を曲げ、さらに思い切り踏みつけた。自分を助けてくれない優華の絶望した表情が見えたが、康太の足は止まらなかった。その金の栞はかつて自分が誕生日プレゼントとしてあげたものだということを思い出しても、結果は同じだった。

 康太はすぐその場を立ち去ったが、あの栞がどうなったのか気になり、授業後にあの場所へ向かった。人気のない場所にそれは落ちていた。折れ曲がった栞を拾い上げ、鞄の中にそっとしまい込んだ。

 その後、フラフラと家に戻り、両親とも会わず、自室に引きこもった。ベッドの中でも今日の出来事がずっとリフレインして、寝付けなかった。

 翌日の朝、昨日自分がしてしまった愚かな行動を思い出し、起き上がれなかった。母親に学校を休むと連絡してもらい、しばらく自室のベッドの上で目を閉じていた。何時間か経った後、電話が鳴った。最初は居留守を決めようと思ったが、何か嫌な予感がしたので、電話に出た。

 その予感は当たっていた。電話をかけてきたのは優華の母親の百合で、優華が自殺未遂を起こしたと告げられた。その知らせを聞いた時、理由も問われていないまま康太は優華に関わる全てを話した。罵られることを覚悟で話したが、百合さんはただ黙って聞いていた。

『これ以上は優華に会わせられないわね』

 最後に百合さんが言った言葉は思ったより、彼の胸に突き刺さった。だが、素直に受け入れることしかできなかった。

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