冬霞の章

記憶の中の『彼女』

 素直になれなくて、ごめん。

 今まで守ってあげられなくて、ごめん。

 会いに行くのが怖くて逃げていて、ごめん。


 謝罪の言葉しか言うことができない。むしろ、謝罪の言葉すら言う資格はないのかもしれない。


 あの時から、俺は許されないことばかりしているから。






 十二月のある晴れた冬の日。実家のある千代見市に隣接する大都市、柚葵(ゆうき)市。

 佐々木康太は柚城(ゆずぎ)大学の研究生として過ごしており、その日も朝から実験に明け暮れていた。

「佐々木君」

 昼過ぎ、来年の春に定年を迎える優木教授が十センチほどの厚さがありそうな紙束をもって、康太のところにやってきた。

「何ですか」

 康太の声には返答もせず、ただ教授は実験をしている康太の隣に紙束を置くと、これ明日までにまとめといてね、と言って去っていった。時間がさし迫っている実験ではなかったので、手にしていたビーカーとピペットを安定した場所に置くと、その紙束を取り、ぼんやりと読み上げた。

 それはある研究会への招待で、どうやら教授は康太に青年の部でのディスカッションに参加してほしいようだった。研究会の概要が書かれた紙の後ろにはその研究会に関わる資料や、プレゼンのための資料らしき英語で書かれた論文が何本か添えられていた。つい先日、海外の学会から帰って来たばかりだというのに、また研究会か、と思わず嫌な気分になってしまった。

「うわぁ、先輩大変そうですねぇ」

 横から後輩の岩淵が覗き込んで、自分は巻き込まれたくないという顔をありありとしながらそう言ってきた。岩淵の言っていることはその通りで、康太は乾いた笑みを浮かべた。彼は学部三年。まだこの研究室に配属されたばかりだが、早くも大学院への進学を宣言しているので、彼も後々は巻き込まれることになるだろう。耳にはいくつものピアスをつけており、性格や口調も相まってチャラそうに見えるが、優木教授曰く『学年でただ一人、総合成績S判定を受けている』というくらい、成績は良いという。確かに、研究室配属されてからもかなり勉強しており、うかうかとしていると康太でさえ抜かされそうになるのを感じている。

 その後、先ほどまで行っていた実験を手早く終わらせると、その資料の作成に取り掛かった。

 思うように資料の作成が進まず、日がすでに地平線に落ちたことに気付いた康太は、これは徹夜するしかないと、ため息をつきながら下宿先のアパートへ戻った。その道すがら、見上げた空は雲で覆われて、何も見ることができなかった。

 作り置いてあった夕食を食べて入浴し、先ほどの続きの作業に取り掛かろうとしたとき、すでに夜の十時を回っていた。

 結局、作業が終わった時にはすでに朝日が差し込んでおり、自分が一睡もしていないことを思い知らされた。

 本当は自分でお弁当を作りたかったが、今日は特別講義のために九時までには別のキャンパスに行かねばならない。すでに朝の七時半。一時間かかる道のりであり、仕方なく通り道のコンビニで缶コーヒーと朝食用のサンドイッチを一つ、昼食用に総菜パン数個を買い、研究室に向かった。

 教授の部屋についたが、部屋の主はまだ来ていなかったので、透明ファイルごと資料を書類ポストに入れておいた。

 そして、用事が終わったので、研究室を後にしようとした康太に、おはようございますと柔らかな声がかけられた。その声に振り向くと、研究室では紅一点で、学部四年生の大東が康太に向かってお辞儀した。

 彼女は肩甲骨くらいまでの長さの黒色の髪を持ち、いつもの朝は束ねていないのだが、今日は朝から珍しく一つに束ねていた。

 普段、実験している最中は束ねていることが気にならないが、今日は違うところでその姿の彼女を見かけたせいか、なぜかかつての『彼女』を思い出した。しかし、すぐさま康太は『彼女』とは違うと思い直した。顔立ちだって全然違う。記憶の中にある『彼女』はもっと可愛かった。

 大東に手を振り、その場を離れた。

 校門の近くで腕時計を確認すると、乗ろうと思っていたバスの発車まで五分しかなかった。慌ててバス停に向かい、なんとか滑り込みで乗車した。降りるバス停は終点なので、寝ていても問題ないと判断し、バスに乗っている間に少しだけ睡眠をとることにした。



 すると、なぜか『彼女』のことを思い出した。

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