第8話 「おかえり。」

「おかえり。」


 鍵を開けようとしたら、ドアが開いた。

 あたしは少しマヌケな顔をしたかもしれない。


「な…なんで分かったの?」


「何が?」


「今、鍵を開けようかと…」


 しーくんはふっと優しい顔をして。


「帰りに寄るってメールくれたから、そろそろかなってベランダから見てた。」


「…あはは…やだな。走ってるの、見られちゃったか。」


 しーくんは、あたしの前髪を指で触って。


「嬉しかった。」


 荷物を持ってくれた。


 昨日は…お風呂に入ったりしたから、グレーのハーフパンツ姿なんて見たけど。

 今まで、ずっとスーツ姿しか見てなかった。

 今日は、もう仕事が入らないのかな?

 ラフな部屋着。

 …何着てもカッコいいなんて…



「帰ってるって連絡くれれば良かったのに。」


「驚かせたくて。」


 部屋に入ると、昨日の今日なのに…何だか荷物が増えてる。


「…一気に生活感が…」


「サッカが来てくれるなら、居心地良くしたいし。」


 窓際に観葉植物。

 寝室の壁に、小さな絵。

 キッチンのカウンターには…花も。



「あ、そうだ…。」


 振り向くと、至近距離にしーくん。

 ドキドキしながら。


「…これ、ありがとう。」


 胸元に手を当てて言うと。


「…似合ってる。」


 しーくんが、あたしの背中に手を回しながら言った。


 …抱きしめられると…いつも夢見てるような気分になる。

 幸せだな…


「洗濯までしてくれて、ありがと。」


 チュッて、キスされて。


「あ…勝手にごめんね。迷惑じゃなかった?」


「全然。助かるよ。」


 もう一度、チュッ。


 うわああ…

 もう、あたしここに住みたい…



「晩御飯、何?」


「しーくん、好き嫌いある?」


「ない。」


「良かった。」


「嘘。ある。」


「え?何が嫌い?」


「…カッコ悪いかなと思って言えなかったんだけどさ…」


「うん?」


「本当は、すごい偏食。」


「……意外。」


「嫌いになる?」


「まさか。」


 額を合わせて、笑った。

 何だか…こういう面を見せてくれるのも、すごく嬉しい。


「…家に帰って食べなくて大丈夫?」


 耳元で、囁かれる。


「週に三日ぐらい、家で食べれば…」


「…じゃあ、週四日は来れるって事だね?」


 優しい、しーくん。


「…あとね…」


「ん?」


「…門限…本当は、10時なの。」


「……嘘ついてた?」


「…うん。ごめん。」


 しーくんは両手であたしの頬を挟んで。


「本当の事を言ってもいいって思ってくれたんだ?」


 唇が、触れるか触れないかの距離で言った。


「…う…ん…」


「…好きだよ。」


「…あたしも…」


 キスをして…

 もう、そのまま止まらなくて…

 あたしとしーくんはもつれるように、ベッドに倒れ込んだ。

 夕べとは少し違う…

 優しいだけじゃなくて、熱くて激しい…セックスだった。




「じゃ、また明日。」


「おやすみなさい。」


 結局…

 手早く晩御飯を作って。

 ほとんど裸みたいな状態で、それを食べて…

 しーくんは、またあたしを抱いた。


 あたしが時間を気にしてないと言うか…

 気に掛けれないほどの状態にさせられてたのに。

 しーくんは冷静に。


「シャワー浴びる時間あるよ。一緒に行こうか。」


 って…

 一緒に、お風呂へ。


 …ああ。

 ダメだ。

 思い出すと変な顔になっちゃう。


 そして、車で送ってくれた。

 時間は、9時50分。

 あと10分あるな…って思ったけど。


「俺の理性、全然余裕がないらしい。」


 って、しーくんは笑った。


 門限が10時と分かっても、昨日お泊りだったし。

 いきなり、ギリギリに帰したくなかったのに。って。

 …優しいな。


 …なんて言うか…

 もう、あたし…ヤバいかも。

 目が合うだけで、抱かれたいって思ってしまってる。



「ただいま。」


 玄関でそう言うと。


「おかえり。」


 母さんが、迎えに出てくれた。


「…父さん、いる?」


「ううん。事務所に泊まりだって。」


「良かった…」


「楽しかった?」


「うん…ありがと、母さん。」


「また行けるといいね。」


「うん…それで…」


「何?」


 大部屋に歩きながら、二人でコソコソ話してると。


「遅かったな。」


 華音が譜面を開いて唸ってた。


「うん…ただいま。」


 あたしは母さんとキッチンに行くと。


「…時々、彼の家でご飯作って食べて帰りたいんだけど…」


 小声で言った。


「まあ、素敵。いいじゃない。」


「大丈夫かな…」


「今までも外食してから帰ってたじゃない。大丈夫でしょ。」


「でも…彼の家で食べたら…門限ギリギリとかになっちゃうかもだし…」


「あ~…そうよね。うーん…」


「咲華。」


 母さんとコソコソ話してると、華音が大声であたしを呼んだ。


「えっ、なっ何…?」


「携帯鳴ってる。」


 ソファーに置いたバッグの中で。

 あたしの携帯のバイブが何かに当たって、賑やかな音がしてる。


「あ、ごめん。」


 …ネックレスが入ってた箱に当たってたのか。

 着信…誰だろ。


「…もしもし。」


 電話に出ると…


『…咲華?』


「…え…」


 この声…


「…西野さん?」


『悪い…今、少しだけいいか?』


 着信の表示、電話番号だった。


「携帯、変えたんですか?」


『…色々あって…』


「…なんでしょう…」


『今、周りに誰かいるか?』


「はい。」


『ちょっと…一人になってくれないか…』


「……」


 あたしはバッグを持って、母さんと華音に首をすくめながら、自分の部屋に入る。


「何のご用件でしょう。」


『…会社に、誰か…知らない奴が訪ねて来なかったか?』


「え?」


『俺の事を探りに、誰か…』


「……」


 それって…

 不正の事?

 真島さん…?


「…いえ、誰も…来てないですけど。」


『…そうか…』


「って、西野さん、出張先からですか?」


『…ああ。』


「この番号、課長はご存知なんですか?」


『誰にも言わないで欲しい。』


「…え?」


『頼む。俺から連絡があったって…誰にも言わないでくれ。』


「……」


『もう…おまえしか…頼れないんだ…』


 どういう事だろう…

 でも、こういうの…困る。


「…そう言われても、あたし…困ります。」


『…そうか…そうだよな…』


 西野さんの声は、なんだか弱りきってて。


『…ごめんな…』


 消え入りそうな声で、そう言ったのが…

 彼の最期の言葉となった。


 * * *


「えっ!?」


「その話、本当なの!?」


「さっきニュースで…」


「身元確認が…」


「出張先はどうなってる!!」


 会社に行くと、フロアは騒然としていた。

 あたしが席につこうとすると。

 同期の浜崎さんが。


「桐生院さん、大変。」


 青い顔をして、あたしに言った。


「何…?」


「西野さんが、自殺したって。」


「………え?」


 あたしが呆然としてると、内線が。


「…もしもし…」


『あ、真島です。』


「……」


『ちょっと、屋上で会えますか?あ、携帯持って来て下さい。』


「…分かりました。」


 あたしは受話器を置くと、騒然とするフロアを抜けて、屋上へと上がった。


「…真島さん。」


 あたしが声をかけると、真島さんは。


「携帯貸して。」


 あたしの手から、奪うように携帯を取った。


「…夕べ、西野さんから電話がありました。」


「…みたいだね。」


「え?」


「この番号でしょ。」


「…はい。」


 真島さんは自分の携帯を取り出して何かを繋げると、あたしの携帯にそれを繋げて操作し始めた。


「…何を?」


「今日、警察が来ます。」


「…え?」


「何を聞かれても、知らないと答えて下さい。」


「え…え?」


「電話もなかった。何も聞かなかった。」


「…でも、あたししか頼る人がいないって…」


「巻き込まれたいんですか?」


「…え…」


「彼がしていたのは、会社の不正とかそういう事じゃなく…もっと大きな組織が絡んだ事件です。」


「……」


「何も関与してないんでしょ?」


「…してないです。」


「なら、シラを切って下さい。」


「……分かりました…。」


 頭の中が…

 おかしな感じだった。

 西野さんが亡くなったなんて…

 それも、何かの事件に関わってたなんて…

 西野さんは、あたしに何か頼もうとしてた?


『…ごめんな…』


 西野さんの最期の言葉が…


「…桐生院さん…」


「…ごめんなさい…」


 言葉に詰まった。

 別れ方は…あんな風だったけど。

 一度は付き合った人。

 こんな…こんな事になるなんて…


「…同情しない方がいいですよ。」


 あたしの気持ちとは裏腹に、真島さんは冷たい声。


「西野は、あなたを巻き込むつもりだったんですから。」


「…え…」


「実際、椎名さんは巻き込まれた。それで会社に居られなくなった。」


「ど…どういう事ですか…?」


「…マンション、見に行ったでしょ。」


「…はい…」


「見に行った物件全部、事件に絡んでる組織が使ってる物でした。」


「……」


 …だけど…

 結局、あたしは巻き込まれなかった。

 西野さんは、本当にそんな気があったのかな…


「…とにかく、警察が来ても何も話さないように。」


「……分かりました…」


 携帯を返してもらって、あたしはフロアに降りる。

 すると、もうそこでは朝礼が始まっていて。

 みんなで黙祷をした。


 それからは…

 めまぐるしい一日だった。

 真島さんの言う通り、警察が来て。

 同じフロア全員が、話をする事になった。


 あたしは背の高い『富樫』という人から話を聞かれて。

 少し涙ぐむと、教育係の方が亡くなられたのですから、ショックですね。と言われた。

 それで少し…気が軽くなった。


 …西野さん。

 何か辛かったのね…

 あの時も…

 ビルの暗がりに、あたしを連れ込んだ時も…

 もう、何かが始まってたのね…?



 席につくと、周りからいろんな話声や、すすり泣く声が聞こえた。

 …どうであれ…

 西野さんは、ここでは信頼されてる人だった。

 …西野さん…


 楽に…なれた…?



 * * *


「……」


 今日は何となくみんな仕事にならなくて。

 部長と課長は、西野さんの家に行ったみたいで。

 残された面々は、本当かどうか分からない噂話に、花を咲かせている。


 こんな時だからこそ、自分の仕事はきちんとしようと思った。

 あたしは、西野さんに育てられた。

 こんな形になってしまったけど…

 教えてもらった事をちゃんとするのが、せめてもの弔いな気がした。



 ########


 スカートのポケットで、携帯が震えた。

 会社にいる時に着信なんて…珍しい。

 あたしは携帯を手に、周りを見渡してから外に出る。


 エレベーターホールのそばにある中庭に出て、電話に出ると…


『もしもし、サッカ?』


 その声は、いつもより少しトーンが低かった。


「…うん。」


『今、大丈夫?』


「うん。」


『…会社、大変なんじゃないかと思って。』


「…んー…」


 ニュース、見たのかな…


『…仕事、定時で終わる?』


「うん…」


『じゃあ、外で待ってる。』


「…え?」


『今日は一緒にいよう。』


「……」


 嬉しかった。

 必死で仕事をしてはいるものの、頭の中は空っぽで。

 時間が経つにつれて、気持がヒンヤリしてしまって。

 あたし…何してるんだろうって…



『待ってるから。』


「……ありがと…」


 電話を切ってフロアに戻ると。

 お通夜も葬儀も、身内だけで、との事で。

 最後のお別れも出来ないなんて…と、みんなやりきれない気持ちを口にした。


 あたしと一緒に西野さんに育ててもらった同期の枝野さんは、朝からずっと泣き続けていて。

 仕方ないよ。

 あんなに面倒見てもらってたんだから。

 と、慰めてもらっている。


 …しっかりして。

 あたし。



 何とか定時までに自分の仕事はこなした。

 黙々と机に向かってたあたしを、よくこんな時に…と囁く声がチラホラ聞こえたけど。

 関係ない。

 誰かがいなくなっても、時間は止まらないんだ。



 エレベーターで下まで降りて。

 ビルの外に出ると…


「サッカ。」


 ふいに腕を取られて、少しよろけた。


「あ…」


「大丈夫か?」


「……」


 そうだった…。

 待ってるって、言ってくれてたのに…忘れてた。


「…辛かったな。」


 しーくんはあたしの手をギュッと握って、ゆっくり…手を引いて歩いてくれた。

 その熱で…少しずつ、あたしの冷えた気持ちが解かされていくようだった。


 仕事について色んな事を教えてくれた人。

 気が付いたら、恋人になってた。

 いつも笑ってて、頼りがいのある人だと思って。

 この人と結婚するのかなって漠然と思ってたけど。

 その頃のあたしは、とても平凡ではあっても、幸せだった。



 しーくんは部屋に戻ると、ずっとソファーであたしを抱きしめてくれてた。

 頭を撫でながら『大丈夫だよ』って繰り返し言ってくれた。


 西野さんは、もう、あたししか頼る人がいないって言った。

 だけど、あたしはそれを拒絶した。

 …あたしのせいで、そうなったんじゃないとしても…

 あたしが拒んだ事は、彼にとってその道を選ばせるキッカケになったんだろうか。


「…家に電話できる?」


 しーくんが、耳元で言った。


「…帰るよ?」


「いや、俺が話すから。」


「え…?」


「帰ったら、家族に気を使わせまいとして、無理するだろ?」


「……」


 嬉しかった。

 だけど…今日は泊まっちゃいけない気がした。

 しーくんに罪はないけど…

 一人で、西野さんを想ってあげたいと思った。

 それは、愛とかではなくて…

 感謝と…謝罪の気持ちだ。



「ありがとう…嬉しいけど、今日は帰る…」


「……」


「門限まで、いていい?」


「…もちろん。」


 しーくんはあたしをギュッと抱きしめると。


「サッカ…」


 切なそうな声で言った。


「もっと…俺を頼って。」


「……」


「全部、受け止めるから。」


「…ありがとう。」


 しーくんの胸に顔を埋めて。

 あたしは、少しだけ眠った。



 …疲れた。

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