第7話 「おかえりなさい。」

「おかえりなさい。」


 鍵の音がしたからと思って、玄関まで迎えに出ると。


「…あ。」


 ドアを開けたしーくんが、少しマヌケな顔をした。


「…ああ、ただいま帰りました。」


「……」


 なんだろ。

 ちょっと…違和感…



 夕べ、メールで『泊まりに行けそう』って送ったら。

『楽しみにしてます^^』って。

 めったにない笑顔のマークなんてあったのに。


 今…しーくん…

 あたしが来るの、忘れてたみたいな…


 …仕方ないよ。

 忙しい人なんだもん。

 それなのに、あたしに付き合ってお昼や夕方、時間を空けたりしてくれてるし。



「食事作ったんだけど、食べれそう?」


「あ…はい。いただきます。」


 …元気ないな…

 普通に…笑顔なんだけど。

 何となく、今日は何もかもに違和感。



 それから、テーブルに料理を並べて。

 二人でいただきますをしたけど…しーくんの食があまり進まなくて。


「…口に合わなかった?」


 残った物を違うお皿にまとめて、冷蔵庫に入れる。


「すみません。ちょっと疲れてしまって。」


「…そっか。」


 あたしはそのまま洗い物をして。

 しーくんはその間、書類らしき物を読んでた。


「…じゃ、今夜は帰るね。」


「え?」


 エプロンを外しながらそう言うと。


「どうして…」


 しーくんは立ち上がって、あたしの手を取った。


「…あたしが居る事で、無理して欲しくないから。」


「無理なんてしてませんよ。むしろサクさんの方が気を使ってしまうなら…今夜はやめておきましょうか…?」


「……」


「……」


 ガッカリな気持ちと…

 ホッとした気持ちと。

 どっちが強いかな。



「うん。帰るね。」


 しーくんの目を見ながらそう言うと。


「…そっちを選ぶとは思いませんでした…」


 ガッカリした声。


「ふふっ。予想外を選べて、ちょっと勝った気分。」


「…本当に帰るんですか?」


「うん。またいつか。」


「……」


 しーくんの手を離して、バッグを持とうとすると。


「…やっぱりダメ。」


 後ろから抱きしめられた。


「帰らないで下さい…」


「…疲れてるなら、ちゃんと休んで欲しいの。」


「あなたに癒されたい。」


 向き直されて、キス。

 もうそれは…それに向かってでしかなくて…


「し…」


「黙って…」


 キスをしながら…服を脱がされる。


 何か…何かあったの?

 聞きたい気がした。

 それほど、しーくんに違和感を覚えた。

 抱きかかえられて、ベッドに降ろされる。

 あんなに、考えただけでドキドキしてたのに…

 今は…何だか違う。


「…サク…」


 …何なのかな…

 この…ざわざわした感じ…

 しーくんの事、好きなのに。


「や…」


 あたしは…


「やっぱり、帰る。」


「……」


「…ごめんなさい。」


 しーくんを押し避けて、ベッドから降りる。

 服を着てバッグを持つと、あたしは逃げるように部屋を出た。



 …嫌われちゃったかな…


 外に出て歩き始めて、そう思ったけど…

 何となく…気付いた。

 しーくんは…

 あたしの事、好きなんかじゃない。

 どうしてだろ。

 今夜…それをヒシヒシと感じてしまった。


 …感じたくなかったけど…

 もっと深入りする前に、分かって良かったのかもしれない…。




「待って。」


「えっ。」


 突然手を取られて、驚いて振り返る。

 そこには、息を切らしたしーくんがいた。

 必死で考え事をしていたせいか…全然気が付かなかった。

 …追いかけられてる事に。


「……」


「……」


「…どうして?」


「え?」


「俺が疲れてるからってだけ?」


「……」


 しーくん…

 敬語じゃない。


「一緒にいたい。」


 ギュッと抱きしめられて…

 走って来たしーくんの心臓の音が、いつもより早いなと思って聞いた。


「あたしね…」


「うん…」


「本当のあなたが…分からないって思って…」


「本当の俺?」


「…意味わかんないよね。ごめん…」


「…本当の俺なんて、俺にも分からない。」


「……」


「ずっと誰かの影であるしかない俺には…何が本当で何が嘘なのかなんて…」


 ああ…

 しーくんは、ずっと葛藤してるんだ…

 自分の居場所が、そこでいいのかどうか。



 つい、本当のしーくんが分からない…なんて言ってしまったけど。

 あたしだって、自分の事なんて不確かだ。

 殻を壊したい気持ちはあるのに、今更って思う自分がいたり。

 このままぬるま湯に浸かったみたいな人生で、いいのかなって。



「…ごめん、送ってく。」


 しーくんがあたしから離れながら言った。


「……」


 どうする?あたし…


「…帰ろ?」


 しーくんの手を握りながら言うと。


「…え?」


「しーくんの部屋、帰ろ。」


「……」


 しーくんは、優しい笑顔になった。


「わがまま言ってごめん。」


「ううん…あたしこそ…余計疲れさせちゃって。」



 マンションに帰りついて。

 お風呂どうぞって言われた。

 疲れてるしーくんから、お先に。って言うと。

 じゃあ…って、しーくんが入ってくれた。

 …一緒に入ろうなんて言われたら、どうしようかと思ったけど。


 ホッ。


 …優しいけど…

 やっぱり、あたしを好きなのとは違うと思った。

 だけど、もうあたし自身…

 引き返せない気がした。


 母さんにも言ったけど…

 しーくんの事、泣きたいぐらい好きだ。

 騙されてるとしても…

 いいやって思ってしまうほど。



 テレビをつけると、北陸で大量の麻薬が発見されたニュース。

 密売ルートの捜索が続けられています。という言葉と共に、たくさんのトランクが映った。

 それから、天気予報。

 …明日もいいお天気みたい。



「お先に。」


「きゃっ。」


 後にしーくんが立ったのを気付かずに、声をかけられて驚いてしまった。


「そんなにおもしろいニュースだった?」


 しーくんはクスクス笑ってる。


「う…ううん…麻薬のニュースと天気予報…」


「かなり見入ってたみたいだけど。」


「あはは…あ…じゃ、お風呂お借りします。」


「うん。」


 ドキドキした。

 しーくん、下はグレーのハーフパンツだったけど…

 上は裸。

 タオルで頭を拭きながら…

 塗れた髪の毛が、色っぽかった。


 ああ…

 残像だけでも数日は顔が赤くなりそうだーっ!!



 …このまま、上手く付き合っていけたら…

 しーくんも、いつかはあたしを好きになってくれるかも…。

 そうだよ。

 あたしの頑張り次第かもよ?


 騙されてもいいとか、そんな事を考えてたクセに。

 あたしはお風呂の中で、すっかりいい気分になっていた。


 西野さんとの事があって、傷付くのが怖くなった。

 だから自分から伏線を張ってしまうのかもしれない。

 ダメになったって、仕方ないよ。みたいな感じで。

 あたしがこんな気持ちでいちゃ、しーくんだって…どこかあたしを疑ってしまうかもしれない。


 うん。

 もっと好きになろう。

 しーくんの事も…自分の事も。



 お風呂から上がると、しーくんはソファーで目を閉じてた。

 …ちゃんとベッドで寝るって言ってたのに。


「……」


 どうしよう。

 タオルケットを持って来ようか。

 それとも、起こしてベッドに…


「きゃっ!!」


 腕を掴まれて引き寄せられて。

 あたしはしーくんの膝に座る羽目に。


「ね…寝てるのかと…」


「まさか。」


 そのまま抱きしめられて…キス。

 だんだんキスが深まっていって…


「…サッカ…いい匂い…」


 しーくんが、あたしの首筋にキスしながら言った。

 …サクになったり、サッカになったりしてる。

 ふふっ…

 どっちでも…嬉しい。


「…あっち行っていい?」


「うん…」


 しーくんは軽くあたしを抱えると、ゆっくりとベッドに。



 何度もキスをして…

 しーくんは、すごく優しくあたしを抱いた。

 あまり経験のないあたしは、恥ずかしいけど…どうしていいか分からなくて。

 西野さんの時のそれと、随分違ってるような気がして。


「あっ…」


 声を我慢すると。


「サッカ…いいから、声出して。」


 しーくんは、あたしの耳を噛みながら言った。

 もう、どうなってもいい。

 そんな気がした。


 しーくんが好き。

 …愛してる。

 もう…


 止められない。


 * * *


「……」


 翌朝目覚めると…


 隣に、しーくんはいなかった。


「……」


 ゆっくりベッドから起き上がって、リビングを見ると…


 書き置きがあった。




 おはよう。

 仕事に行って来ます。

 冷蔵庫に入ってたサンドイッチ、お昼にいただくよ。

 ありがとう。


 目覚めて、隣に咲華がいて、すごく嬉しかったし癒された。


 ささやかだけど、初めて泊まりに来てくれた記念に。

 ずっと身に着けてくれたら嬉しいです。


 遅刻しないようにね。


 志麻



「……」


 書き置きの横に、青い紙で包装された細長い物が。

 それをゆっくり開けると…


「…かわいい…」


 花のついたネックレス。

 これぐらいなら、会社にもして行ける。

 …嬉しいな。



 しーくん、こんな字書くんだ。

 きれいな字…

 ランチ用に作っておいたサンドイッチ、気付いてくれて良かった。


 志麻…

 ふふっ…


 あたしは書き置きを手帳に挟んで。

 …ちょっと時間も早いし…洗濯しておこうかな。

 朝食を取る間に、洗濯かごの中にあった物や、シーツを洗った。

 帰りに寄って、取り込んでしまえばいいよね。



「電気、よし。戸締り、よし。」


 一応しーくんにはメールを打った。

 洗濯物を干してるから、帰りに寄る事。

 帰りに寄るから、お泊り荷物は置かせてもらってる事。

 もし、時間が合えば…一緒に夕飯を食べましょう…って事。

 ネックレス…すごく嬉しい。

 肌身離さずつける。って事。


 ああ、もう歯止めが利かない。

 あたしはきっと、毎日でも…

 しーくんのために何かをしたくて、部屋にやって来てしまう。


「…重たくならないよう、気をつけなきゃ。」


 小声でそう言いながら、会社に向けて歩き出す。



 マンションを出て数分。


「おはよーございます。」


 隣に、真島さん。


「あ、おはようございます。」


「家、この辺?」


「え……」


 さらっとかわせばいいのに。

 あたしは、赤くなった。


「…はい。彼氏んとこね?」


 真島さんは首をすくめた。


「ところで、その後何かありましたか?」


「…例の件ですか?」


「そ。」


「特に怪しい所は…」


「…お願いがあるんだけど。」


「え?」


「携帯、見せてもらえませんか?」


「…あたしの?」


「そ。」


「……」


 立ち止まってしまうと。

 真島さんも同じように立ち止まった。


「彼からのメールや写メ、残してます?」


「……」


 そう言えば…あたし、西野さんと別れてすぐ、しーくんと始まったから…

 そういうのを削除するとか…

 そんな頭、なかった。


「たぶん…残したままだと…」


「見ても差し支えないですか?」


「はい…」


 別に、メールで愛をささやかれたわけでもなく。

 写メも…出張先の食事とか…

 そんなささやかな物ばかりだった気がする。


 真島さんはあたしの携帯を手にすると、何か検索をかけているようだった。

 …そんな機能があるなんて。


「…何もないですね。」


「え?」


「彼からのデータ。一つも残ってないです。」


「……」


 あ…あれ?

 あたし、消したのかな…


「最近、誰かに携帯を触られましたか?」


「え…」


 そういえば…

 しーくんに…


「でも、番号交換をしただけです。」


「ふーん…」


「……」


「…ま、いいや。はい。これ、どうも。」


「……」


 携帯を返されて、あたしはそれをマジマジと眺める。


「…あ、お茶がかかって…濡れちゃいました。そのせいとか?」


 ふと、あずきでの出来事を思い出して言うと。


「一人のデータだけが?」


 真島さんは唇を尖らせて言った。

 う…確かに…


「まあ、いいですよ。一つヤマは越えたので。」


「え?何か…分かったんですか?」


 あたしの問いかけに。


「協力してもらっておいて悪いのですが、これ以上は秘密です。」


 真島さんは口の前に人差し指を立てて。

 可愛い笑顔を見せた。

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