第6話 「…これ。」

「…これ。」


 久しぶりに、仕事が終わってからしーくんと会った。

 最近はしーくんの仕事も忙しかったようで、メールのやりとりだけの日が続いていた。

 何食べる?って聞きながらも…足は『あずき』に向かってた。


 そこで、いつもの席に座ったところで…しーくんが差し出したのは…


「…鍵?」


「はい。」


「…何の?」


「…俺の部屋の。」


「……」


 あたしはきっと…ハトが豆鉄砲を食らった顔だ。

 だって…

 しーくんて…


「…二階堂の別館…?」


 だよね?


「いいえ、今…ちょっと出てるんです。」


「出てる?」


「ええ。一人暮らししてます。」


 ふいに、聖が言ってた事を思い出す。


 しーくん…

 やっぱり、二階堂を辞めた…?



「…仕事…大丈夫なの?」


「はい。仕事のために出てるって感じなので。」


「そうなの?」


「ええ。今の現場がどうにか落ち着いたら、また二階堂に戻ります。」


「…そっか…」



 今日は、あたしがかつ丼で、しーくんはスタミナ丼。

 二人で来てるけど…おかみさんは黙って大盛りを持ってきてくれた。

 お礼を言って、いただきます、をする。



「仕事で借りてる部屋の鍵なんて…もらっていいの?」


「大丈夫ですよ。仕事で使うわけじゃなくて、単なる寝床確保みたいなものですから。」


「ふうん…」


「…でも、サクさんが来てくれるようになったら…あっちに帰るのが嫌になりそうですね。」


「……」


「あ…すみません。めちゃくちゃ私情挟んでますね。」


「う…ううん…」


 ああ、もう。

 どうしよう。

 ニヤけちゃうよー。


「…今日、来てみますか?」


「え…?」


「ここから、近いんです。」


「……」


 ドキドキドキドキドキドキ…


 実は…

 男の人の部屋って、入ったことがない。

 西野さんと付き合ってる時、彼は実家暮らしだからって…あたしを家には呼ばなかった。

 会うのは、いつも外。

 …そういう雰囲気になったら…ホテルに入ってたけど…

 それも、すごく稀だった。


 あたしは、一線を超えたら結婚なのかな。って、漠然と思ってて。

 だから、西野さんの事…しーくんほど想えてなかったけど…

 寝たから、結婚する。

 ぐらいに思ってたかもしれない。


 今思えば、あたしの男性経験や交際への免疫のなさ…

 これが結婚への道を遅らせてる気もするし…

 まあ…性格の問題も…



「嫌ならいいんです。」


 ハッとして顔を上げる。

 そ、そうだ…

 誘われてるんだった!!


「う…うん…近いなら…行ってみようかな。」


 あたしの言葉に、しーくんは笑顔。


「俺がいない時も、来て休んでくださっていいですから。」


「…ありがと…」


 テーブルに置かれた鍵を手にして。

 あたしはたぶん…すごく嬉しそうな顔をしたと思う。


「…相変わらず敬語だけど…」


「あ。ほんとですね…」


「メールでは、だいぶ無くなってたのに。」


「す…すみません…どうも顔を見て話すと…」


 しーくんは本当に申し訳なさそうに、肩をすくめた。


「今日は、これで許す。」


 鍵を見せながら言うと。


「じゃあ、早く敬語をなくすか…もっと豪華なプレゼントを用意しておくか…で…だな。」


 取ってつけたような『だな』に、あたしは大笑いして。

 しーくんは、照れたように前髪をかきあげた。



 …幸せだ。

 誰かを好きになるって…

 本当、幸せだ…。





「どうぞ。」


 玄関のドアを大きく開けられて、あたしはゆっくりと中に入る。


「お邪魔します…」


 単なる寝床。と聞いたけど…

 なんて贅沢な。な、2LDK…

 これって…


「家族向きだって言われたんです。」


「う…うん…そうだよね…」


 単なる寝床…だからなのか。

 物はあまりなくて、とてもシンプルな部屋の内容。

 リビングに、ソファーとローテーブル。

 壁にかかってるテレビ。

 他の部屋は…仕事用と寝室かな?と思って、見ない事にした。


 けど。


「こっちも見ますか?」


 しーくんは、自ら他の部屋のドアを開けてくれた。


「……」


 チラッ。

 …何もない。

 ちなみに…ベッドもない。


「ほぼリビングで生活してるんですよ。」


 ドアを閉めながら、しーくんが言った。


「え?寝るのも?」


「はい。ソファーで。」


 ソファー…確かに大きいけど…


「お布団で寝たくない?」


「あまり寝る事に執着がないんで、寝れればどこでもいいんです。」


「……」


 仕事柄そうなのかもしれないけど…

 えー。

 って思ってしまった。


 あたしは…食べるのも寝るのも大好きだ。

 …25にもなって、趣味が食べる事と寝る事なんて言うのは恥ずかしいけど、本当にそんな感じ。

 どうしたらいい睡眠がとれるか…なんて。

 何度ベッドの位置や枕を変えた事か…


「…泊まりに来てくれるなら、ちゃんとベッドを買いますよ?」


 後ろから抱きしめられて、耳元でそう言われて…

 あたしは…


「あ…と…泊まりに…?」


 困った。

 あたし…

 修学旅行以外で外泊なんて…

 したことがない。



「で…でも、今の現場が終わったら…」


「…ここに住めるように、交渉してみる事も可能です。」


「……」


「一緒に、見に行ってもらえますか?」


「え…?」


「ベッド。」


「……」


 い…いやだ…

 嬉しすぎる…


「…うん…」


 しーくんの腕に手を添えて頷くと。


「…良かった…」


 しーくんはあたしの体を振り向かせて…抱きしめた。


 あー…

 もう。

 何度こんな事されても…慣れない。

 なんで、こんなにカッコいい人が…あたし?

 美人だとか可愛いとか…

 そういう事は言われても、あたしの中身は空っぽ。

 学校に行って、勉強して、就職して、言われるがままに資格を取って…

 特に秀でた何かもないし…

 気の利いた言葉も言えないし…


 …大食らいだし…



「…ワイン飲みますか?」


「え?」


「美味しいワインがあるんです。」


「…うん。いただきます。」


 ソファーに座って待ってると、しーくんはグラスを二つとワインを持って来た。


「あずきでビールを飲んだ時も思ったけど、お酒強いの?」


 注いでくれてるしーくんに問いかける。

 多少陽気にはなったけど、顔には全然出てなかったしーくん。

 瓶ビール…何本飲んでたっけ…


「それはサクさんもでしょ。ぐいぐい飲んでましたよね。」


「えっ。」


 あたし…そんなに飲んでたかな。

 確かに…うちではお風呂上りに一人で飲んだり…する事も…ある…

 以前はお茶ばかり飲んでたのに…

 ここ二年ぐらい…ビールを飲むことが増えた。


「大丈夫です。お酒を楽しまれる女性、好きですよ。」


「あ…はは…」


 グラスを合わせて、乾杯をした。

 他愛もない話が、とても楽しかった。

 このまま、ここに居たいなあ…なんて、思ってしまうぐらい。



 気が付いたら、ワイン一本空けてて。

 しーくんが…あたしの肩を抱き寄せて…


「…ダメですね…部屋に来てもらうと、帰したくなくなる…」


 耳元で、夢みたいな言葉を言ってくれてる。


「…サクさん…」


 髪の毛を撫でられて…優しいキス。

 そんな事言われたら、あたしだって帰りたくなくなるよ…

 キスがだんだん深くなっていって…

 しーくんの唇が…あたしの首筋に。


 …え?

 これって…


「あ…あの…」


「…ダメですか?」


「え…」


「俺は、あなたが欲しいです。」


「……」


 胸がギュッとなった。

 こんなあたしを…?

 だけど…


「……」


 つい、無言になってしまった。

 まだどこかで…あたし、しーくんの事…信用してないのかな…


 どうしてあたし?って。

 …西野さんの時には、思わなかった事。


「…すみません…急ぎ過ぎですね。」


 ふいに、しーくんがそう言って髪の毛をかきあげながら…離れた。


「あ…あの…」


「いいんです。」


「……」


 あたしが困った顔をしてると。

 しーくんは小さく笑って。


「ベッドを買ってから。」


 あたしの頬に、キスをした。



 * * *


「どれがお好みですか?」


 本当に…やって来てしまった。

 ベッドを…買いに。

 しーくんはあたしの隣で、ニコニコしながらあたしを見てる。


「…しーくんは、こだわりとか…」


「俺はどこでも寝れる奴ですから。」


「そ…そうだった…」


「サクさんが好きな物にして下さい。」


「えっ…でも…」


「お願いします。」


「……」


 それって…

 一生使う…って…事?

 に、取れる…よね?


「こ…このベッド、すごいね…大きい…」


 とりあえず、一番近くにあったベッドに座ってみる。

 これは…ちょっとスプリングの音が気になるな…


「…他のも、見てみるね。」


「はい。もちろんです。」


 気が付いたら…

 あたしは、あれもこれもと。

 お店にあるベッド、ほとんどに座ったり寝たりして、寝心地を確かめた。

 しーくんの身長や、寝転んだ時の体の沈み方。

 腰への負担なんかもチェックして。


「業者の人みたいですね。」


 しーくんに笑われた。

 …だって…

 それでなくても、危険な仕事をしてる。

 どんなに短時間でも、ちゃんと疲れが取れる睡眠を取って欲しい。


 結局…すごく贅沢なんだけど…


「…本当にあれで良かったの?」


 帰り道、手を繋いで歩きながら問いかける。


「いいですよ。サクさんが選んでくれたんですから、俺はできるだけ毎日あれで寝ます。」


「…良かった。」


 本当は、シングルがいいんじゃないかと思ったけど…

 しーくんが選んだのは、ダブルベッドだった。

 部屋いっぱいにならないかなと思ったけど、寝室には他に何も置く予定はないってしーくんが言うから…

 即、購入。

 明日には届けられるらしい。


「お昼の配達で大丈夫だったの?」


「ええ。明日は近くなので。運んでもらったら、また現場に戻りますよ。」


「そっか。無事に運んでもらえるといいね。」


「大きい物ですからね…入らなかったーって、リビングに置いたりして。」


「えっ?」


「嘘ですよ。ちゃんと計って調べてますから。」


 しーくんはクスクス笑いながら、あたしの指を玩ぶ。


「…明日、仕事終わったら、先に帰ってて下さい。」


「え?」


「俺の部屋に。」


「……」


 先に帰ってて…なんて…

 同棲してるみたい…


「うん…」


「なるべく早く、帰りますから。」


「…分かった。」


「…泊まりは、ダメですか?」


「……」


 親に…なんて言えばいいのかな。


 彼氏の家に泊まるから。

 …父さんが乗り込んでくるわ。


 友達の家に…

 …友達って誰だって話よね…


 会社の飲み会で遅くなるから、ホテルに泊まる…

 …遅くなってもいいから迎えに行く…って、父さん言うよね…


 口実に使えそうなものが、何一つない。


 ハッ…


 もしかして、父さん今週は誰かのレコーディングで不在って…


「あの…帰って…スケジュール見てからでもいい?」


 父さんの。


「ああ…すみません。気がはやっちゃって…」


「ううん。あたしも…できれば…そうしたいし…」


「…では、スケジュール確認したら、連絡ください。」


「うん。」


 今日は、残念ながら外でお別れ。

 いつものように、うちの近くまで送ってくれた。

 しーくんはあたしの腰に手を回して軽く抱き寄せると。


「じゃ…明日。」


 耳元で…ぞくぞくするような声でそう言って。

 軽く、キスをした。


「…明日…ね。」


 あたしは何度か振り返りながら、いつものように手を振る。

 しーくんも、同じように…してくれてたけど。

 最後の一度は、携帯を取り出して…誰かと話してるようだった。


 …それだけの事なのに。

 なぜか…


 すごく、気になった…。



 * * *



「…母さん。」


 晩御飯の後。

 あたしは…思い切って、母さんに打ち明ける事にした。


「ん?」


「ちょっと…いい?」


「何?」


 カレンダーを見ると、今夜から父さんは事務所に入り浸る予定。

 華音は連日スタジオ。

 聖は…何も書いてないから、予定なし。

 大部屋には、聖とおばあちゃま。


 あたしは母さんの手を引いて、あたしの部屋に入った。


「どうしたの?」


「座って。」


 母さんはベッドに座ると。


「何かあったの?」


 眉間にしわを寄せた。


 …こんな顔しても可愛い…


「あのね…」


「うん。」


「明日…泊まりに行きたいの。」


「どこへ?」


「……えっと…」


「彼氏の家?」


 真顔で言われて、あたしは息を飲む。


「き…気付いてた…?」


「そりゃあね。千里じゃないけど、咲華きれいになったし…前より、お肌とかも気にするし。」


「……分かりやすいね…あたし。」


「で、彼氏はどんな人?」


「…一つ年下…」


「へえ…意外な感じ。」


 母さんは『ちょっと待ってて』なんて言いながら部屋を出て。

 数分すると、お茶と茶菓子を持参で戻って来た。


「…え?」


「だって、楽しいじゃない。恋の話なんて。」


「……うん。」


 母さんて、本当…娘のあたしが言うのもおかしいけど。

 可愛いなあ。

 父さんがメロメロなわけだよ…



「で、咲華はその人の事、本当に好きなの?」


「うん…もう…泣きたいぐらい好き…」


 口に出すと恥ずかしいけど。

 でも、本当なんだなって気がする。


「結婚考えたり?」


「…あたしは、意識してるかも…」


「そっか…」


「母さんがあたしの歳の時には、もう三人の子持ちだったんでしょ?」


「あはは。そう言えばそうね。」


「母さん見てると、憧れちゃうんだ…大好きな人と結婚して、子供産むって事に。」


「……」


 母さんは、ガラスのお皿に置いてたチョコを一かけら。


「はい。」


 あたしの口に入れた。


「あはは…何?」


「明日、もし千里が何か聞いたら上手く言っておくから。」


「…え?」


「初お泊り、頑張んなさい。」


「…いいの?」


「いいわよ。ちゃんと料理をして、楽しい夜を過ごして来なさい。」


「ありがとう~お母さん。」


 母さんに抱きついてそう言うと。


「いつか紹介してね?咲華の彼氏。」


 母さんは嬉しそうな顔でそう言って。

 あたしの髪の毛を撫でてくれた。

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