第3話 「…はあ…」

「…はあ…」


 つい、大きく溜息をついてしまった。

 今日は全然仕事に集中できない。

 昨日のしーくんの出来事は、思い出すと…楽しかったり、ドキドキしたり…なんだけど。


 …聖が登場するまで、は。


 あの時聖が来なかったら…

 あたし、たぶん…キスしちゃってたよね…



「はあ…」


 聖が言ってた、二階堂を辞めた人物…

 それがしーくんだとすると…どうして嘘を?


 …いけない。

 仕事中は、仕事の事。



 何とか業務を終えて、外に出ると。

 もうすぐ五月だと言うのに、冷たい風が吹いていた。



「さむ…」


「咲華。」


 ふいに、後ろから呼び止められた。


「…?」


 ゆっくり振り返ると…西野さん。


「…ちょっと、時間あるか?」


「…なんでしょう…」


 最近は社内で会う事がほとんどなかったのに。

 今日は一日中隣のデスクだった。

 付き合ってる事自体知られてなかったから、あたし達に会話があってもなくても、誰も気にも留めない。



「大丈夫か?顔色悪いな。」


「…大丈夫です。」


「…ごめんな…」


「……はい?」


 西野さんはあたしの背中に手を添えると。


「俺のせいで…そんな溜息つかさせて…」


 あたしを隣接するビルとの間の暗がりに押し込んだ。


「ちょっ…何するんですか…!!」


「俺さ…やっぱ…おまえの事…やっぱ、俺…おまえじゃないと…」


「…え?え?」


 暗くてよく分からないけど、この気配は…たぶん、近付いてくる唇。


 い…いやいやいやいやいや、西野さん!!


「なっ何するんですかっ!!」


 あたし、西野さんの顎に両手を当てて、ぐいぐいと押し避ける。


「さっ咲華…なっ何で嫌がる?おまえ…俺の事、まだ好きだろ?」


「なっなな何言ってるんですかっ…あたしっ…もう、あなたの事なんてっ…」


 力と力のぶつかり合い。

 西野さんは男性だけど、デスクワークが祟ってなのか、思うほど力がない気がした。

 しかしあたしは…

 丼大盛り大食らい女なせいか、意外と力があった。


「おまっえ…今日…ずっと溜息ついてたじゃないか…俺の隣でっ…」


「あっあなたの…ための溜息じゃないっですっ…」


 ぐぐぐ。

 ぐぐぐぐ。


「やめて下さいっ!!」


 ええい!!と、思い切り力を込めて顎を左側に押し避けると。

 西野さんは、すっと体を引いた。


「えっ…!!」


 そのせいで、あたしの力の入りまくった両手が空振り状態に。

 そしてあたしの体は…西野さんの腕の中へ…


 ギュッ。


「やっ…」


「咲華…」


 西野さんの激しい息遣いに粟立ってしまった。



「離して!!」


「聞いてくれよ…俺、やっぱりおまえが好きなんだ…」


「…いい加減にして。あなた、あたしより椎名さんを選んだじゃない。」


「違う…あれは、あいつに言いくるめられて…」


 西野さん…?

 西野さんて、こんな人だった?



「離して。椎名さんのせいにするなんて、あなた最低よ。」


「最低?おまえだって、俺と付き合いながら…あの男と会ってたんだろ?」


「えっ…」


 しーくんの事を持ち出されて、息を飲んでしまった。

 あれは…芝居だなんて言ったら。

 ますます、俺の事をまだ…って言われるかもしれない。


「許してやるから…また一からやり直そう?」


 こ…

 この人、何言ってんの!?


「はな…離してっ…」


 西野さんの腕の中でもがく。

 すぐそこには人が歩いてるのに、この暗がりで、誰も気が付かない。

 通りの車の音で、あたしの声も届かない。

 ああ、明日にはここを塞いでもらうよう、ビル管理会社に苦情を出さなくちゃ…

 …なんて考える場合じゃない!!


「もう!!やめてったら!!」


 怖い。

 そう思った瞬間…


「何してるのかな。」


 突然、あたしの体が自由になった。

 誰かが西野さんの肩を掴んで引き離してくれた。


 …しーくん?


「おま…誰だ!!」


 西野さんは、その誰かにぐいぐいと引っ張られて通りに出されて。

 地面に転がされると、西野さんのそばにしゃがみ込んだその人に何かを言われているようだった。

 そして、あたしの方を見る事もなく…慌てたように走り去って行った。



「……」


 立ち上がったその人は…しーくんではなかった。

 見た事のない…若い男性。

 少しパーマがかった短い髪の毛。

 色が白くて、きゃしゃな人。



「あ…ありがとう…ございました…」


「大丈夫でしたか?」


「はい…」


 その人は、落ちてたあたしのバッグを拾って。


「どうぞ。」


 渡してくれた。


「…どうも…」


「では。」


「あ、あの…」


「はい?」


「お名前を…」


 あたしの問いかけに、その人は涼しく微笑んで。


「名乗るほどの事はしていませんので。」


 そう言って、歩いて行ってしまった。


 * * *



「き…昨日は…すまない…」


 翌朝、億劫な気持ちで会社に行くと。

 いつもは朝礼の寸前に悠々とやって来る西野さんが、あたしよりも早く出社していた。


「……」


 つい、身構えてしまうと…


「本当に…申し訳ない。どうかしてた。もう二度と、あんな真似はしない。」


 あたしに深々と頭を下げて、逃げるようにどこかに消えた。


「……」


 何なの。

 何だか気持ち悪くて、手を洗いたくなった。

 一瞬のうちに、昨日の事を思い出して、手の平に汗をかいてしまったようだ。


 トイレに行って、手を洗ってると…



「ねえ、知ってる?椎名さん、辞めるんですって。」


「えっ、なんで?」


 寿退社よ。

 心の中でつぶやきながら、鏡を覗き込む。


 ああ…目の下、クマができてる。

 夕べ、あまり眠れなかった…


「それがハッキリしないんだって。一身上の都合って。」


「……」


 会話してる人達に、少しだけ視線を向ける。

 …確か、椎名さんと同じフロアで働いてる人達…



「何かあったのかしら。」


「昨日のお昼、いい男と歩いてたって噂よ?寿退社じゃないの?」


「いい男ー?社内の人間かしら。」


「違うみたい。背が高くて、黒いスーツ着てたって。」


 ドクン。


 心臓が、激しく打った気がした。

 背が高くて黒いスーツ…

 そんな人、どこにだっている…って思いながらも…

 もしかして、しーくん…?なんて…


 …バカね。

 しーくんが、椎名さんに何の用があるって言うの?


 ああ…今日は頭痛もする。

 早めに薬を飲んで、仕事頑張らなくちゃ…



 トイレから出て、廊下を歩いてると…


「え…」


 前方に、昨日の男の人…!!


「あ、あの…」


 小走りにその人に近付いて。


「あの、すみません…」


 声をかけたけど…


「…?」


 その人は、首を傾げてあたしを見た。


「昨日は、どうもありがとうございました。」


 お辞儀をしながら、その人の首にかかっているIDカードを見ると…

 え?うちの社員?


 …真島ましま直樹なおき


「人違いじゃないですか?」


「…え?」


 顔を上げて、目が合った。

 人違いじゃないかと言われたけど…どう見ても、昨日の人だ。

 色白で、パーマがかった黒髪。


「でも…確かに昨日…あたしを助けて下さいました…よね?」


 あたしがそう言うと。


「助けた?何か困ってたんですか?」


 その人は…涼しい笑顔。


 …間違いない。

 昨日の人だ。


「…ここの方…だったんですね。」


「えーと…桐生院きりゅういんさん。」


 真島さんは、あたしのIDを見て名前を確認すると。


「よく分からないけど、これも何かの縁でしょうね。僕は7階のフロアにいます。真島といいます。よろしくお願いします。」


 にこっ。


 白いシャツの袖口からのぞいた手首は、とてもきゃしゃで。

 男性だけど…とても中性的な魅力のある人だと思った。


「あ…よろしくお願いします…」


 真島さんは、相変わらず涼しい笑顔で。


「じゃあ、失礼します。」


 廊下を歩いて行った。


 …人違い?

 ううん…

 絶対昨日の人だ…

 だけど、どうして?


 …人違い…


 うーん…

 確かに…そう言われると、もう少し目がきつかったような気も…


 ううん。

 昨日の人だ。


 何も確信が持てるわけじゃないけど、あたしの当てにならない勘はそう働いた。

 …あたしにバレたくないって事?


 モヤモヤするけど、どうしようもない。

 あたしはしわの入りそうな眉間を指で伸ばして。


「さ。仕事仕事。」


 颯爽と廊下を歩いた。



 * * *



「こんばんは。」


 声をかけられて顔を上げると。


「しーくん…」


 一週間ぶりのしーくんが、そこにいた。


 行き着けの定食屋さん。

 あたしが親子丼を食べてる最中に、しーくんはやって来た。

 …もちろん、大盛り。



「あら、待ち合わせだったのかい?」


 おかみさんがお水を出しながら問いかけると。


「いいえ、たまたまです。」


 しーくんはそう言って…あたしと同じものをオーダーした。


「……」


「この前は、失礼しました。」


「…え?」


「弟さんに、叱られましたか?」


「……」


 弟。

 ああ…きよしの事…


「ううん…」


「そうですか。良かった。」


 しーくんはあたしの向かい側に座ると。


「…あの事、俺は本気で言いましたから。」


 小声で、そう言った。


「あの事?」


「…あなたと、真剣にお付き合いしたいと思ってます。」


「……」


 胸が、ギュッとなった。

 だけど…どこか不安で…


「あたし…」


「はーい、親子丼大盛りー。」


 あたしが話しかけた途端、しーくんの親子丼が届いて。


「……ふっ。」


 顔を見合わせて、笑ってしまった。


「前回のかつ丼も美味しかったけど、これも美味しそうですね。」


 しーくんは割りばしを割って、いただきますのポーズをした。


 …わざわざ話すことじゃないか…

 西野さんに…まだ好きだって言われたけど、翌朝には謝られたって。

 …そうだよね。

 まるで、あたし…モテてます自慢みたいだよ…

 うん。

 これは言うまい。


 それより…


「あの…」


「はい。」


「あたし達、連絡先も知らない…よね?」


 あたしの問いかけに、しーくんは持ったお箸を丁寧に置いて。


「それは、俺と連絡を取りたいと思ってくださってると受け取っていいですか?」


 姿勢を正して…そう言った。


「え……」


 あたしはたくさん瞬きをして、そして当然のように赤くなったと思う。


 あたしが連絡先を気にしたのは…

 もやもやする事がたくさんあるから。

 俺と恋愛を…って言ってくれた事、以外で。

 なのに…しーくん。

 ちゃんと恋愛の事として、受け取ってる…

 …ちょっと罪悪感。


 今、純粋に嬉しかったよね…あたし。

 しーくんが、言ってくれた事。



「…う…うん…」


 小さく答えると。


「…はあ~…」


 しーくんは左手を胸に当てて。


「良かった…要らないって言われたら、どうしようと思ってたんです。」


 本当に緊張が解けたような溜息と共に…そう言った。


「そ…そんなわけないじゃない。あたしこそ…この一週間…色々もやもやしちゃって…」


「どうしてですか?」


「だって…あんな別れ方した後だし…連絡も…どうやって取ればいいのかなって…」


「…不安な気持ちにさせてしまって、すみませんでした。」


「……」


 仕事…どうなってるんだろう。


「…本家に電話して、携帯を聞こうかなって悩んだぐらい。」


 思い切って言ってみる。

 もし…辞めてるなら、それは困りますって言うのかな…?


「ああ…そういう手段もありますが、連絡先は教えてもらえないですよ。」


「そ…そっか…それもそうよね。」


 秘密機関だもんね…

 そんなに簡単に教えてもらえるわけないか…

 今の返事じゃわかんないな…。


 なぜだろう。

 ストレートに、聖が泉ちゃんに聞いたんだけど…って聞けばいいのかもしれないけど…

 むしろ、泉ちゃんがそんな事を聖に話してたって事の方が…話しちゃいけない事のような気がする。



「サクさん。」


 あたしが少し考え込んだ顔をしていたであろうにも関わらず。

 しーくんは少しだけ嬉しそうな顔で。


「番号、お聞きしていいですか?」


 …優しい声。


「あ…はい…」


 バッグから携帯を取り出す。


「あ、ここで番号言われると、誰に聞かれるか分からないので…見せていただいていいですか?」


「え?あ、うん…」


 気が利くな…

 確かに、カウンターが近いこの席では…番号を言ったら聞かれるかもしれない。


 あたし、手を伸ばしてしーくんに携帯を渡…


「あ。」


「きゃっ!!ご…ごめんなさい!!」


 渡した。と思った途端、あたしの携帯が湯呑に当たって、しーくんにお茶がかかってしまった。


「熱くない!?大丈夫!?」


 あたしの声に、おかみさんが出てきてくれて。


「ああ、タオル使ってちょうだい。」


「すみません…ごめんね。大丈夫?」


「大丈夫ですよ。自分で拭きますから。」


「でも、火傷とか…」


「さほど熱くなかったですから。気にしないで下さい。俺の方こそ…サクさん、携帯が少し濡れてしまいましたけど…」


 しーくんはあたしからタオルを受け取ると、まずは…自分よりあたしの携帯を拭いた。


「そんなの…」


「大事なデータが消えると大変ですから。」


「……」


 ああ。

 なんて優しいんだろう。

 あたしが立ったまま、何もできない自分にしょんぼりしてると。


「…サクさん、新しいお茶をもらってもらえますか?」


 しーくんは、相変わらず優しい笑顔。


「は…はい。」


 あたしは言われた通り、おかみさんにお茶を頼んで…それを自分で持って席に着いた。

 その時には、もうしーくんもシャツの袖口やズボンを拭き終えてて。

 あたしの着席と共に。


「では、いただきます。」


 すごく…嬉しそうに、手を合わせた。





「あ、すみません。」


 お店を出てすぐ、しーくんがあたしに謝って。


「え?」


「これ…うっかり持って帰ってしまう所でした。」


 ポケットからあたしの携帯を取り出した。


「あ…あたしも忘れてた。」


 笑いながらそれを受け取って、バッグに。


「俺の番号、入れておきましたから。」


「いつの間に…慣れてるのね。」


「普通ですよ。」


「…ありがとう…」


「こちらこそです。」


 外に出ると、辺りは暗くて。

 前回みたいにビールを飲んで長居したわけじゃないけど…

 今日も、そこそこ…親子丼だけにしては長居になった。


 しーくんは時計を見てる。

 …このまま帰るの、なんだか嫌だな…


「サクさん。」


「はい?」


「良かったら、少し歩きませんか?」


 まるであたしの心が読んだかのように。

 しーくんはそう言って、あたしの顔を覗き込んだ。


「…うん。」


 …嬉しい。


 しーくんがさりげなく手を引いてくれて…あたしはそれだけでのぼせ上ってしまう。

 あれだけもやもやしてたのに…

 もう、それもない。



「この辺、詳しいの?」


「この街で知らない道はありませんよ。」


「すごい。」


「この先に、夜景がきれいな場所があるんです。」


 ゆっくり歩きながら、しーくんの言うスポットにたどり着くと…


「わ…」


 目下に広がる、小さな灯り。


「そんなに上ってないよね?」


「ええ。こっちは街の裏側みたいな場所ですから。」


「街の裏側…」


「表通りと違って、小さな建物ばかりです。」


 確かに…ビルのような建物はなくて。

 だけど小さな灯りが行儀よく並んでるようにも見える。


「派手じゃないけど、静かに生きてる感じが…とても好きなんです。」


「……」


 あたしは…何となく、しーくんが自分の事を言ってるような気がした。


 二階堂にいると、本家の人間以外は表に立たない。

 いつも影だ。

 確か…陸兄が、そんな話をしているのを聞いた事がある。



「…あたしは…この街、好きだな。」


 風が吹いて、あたしの髪の毛がなびいた。


「……」


「大きな輝きじゃなくても、精一杯光れば…こうやってそれを見て元気付けられる人もいるんだよね。」


 …何だろ。

 こんな風に夜景を見た事なんてなかった。

 しーくんに感謝だな…


「…えっ?」


 驚いて小さな声を上げてしまった。

 力強い腕に抱きしめられて…途端に胸がさわがしくなった。


 どう…どういよう…

 この、やり場のない両手…


 あたしは彷徨ってる両手の行き場に少しだけ悩んで。

 …しーくんの背中に…落ち着かせた。


「…サクさんは…素敵な人ですね。」


「…え?」


「…キスしていいですか?」


 体が離れて。

 しーくんがあたしの頬に手をかけた。


「……」


 聞くの?

 あたしはきっと、そんな顔をしてる。


「…家の近くだと、みっともないと言われるので。」


 クスッ。

 しーくんが笑った。


「あ…ごめんね…」


「いいえ。ここなら…いいですか?」


「……」


 ああ…どうしよう。

 キス…したい…けど…


「…え…っと…」


「?」


「あの…」


「なんでしょう。」


「…こういうの言ったら、いい歳して。って…引かれるかもしれないけど…」


「…?」


 しーくんは首を傾げて、あたしの言葉を待ってる。


「…親子丼…の味…かなあ…なんて…」


「……」


「……ごめん。」


「……」


「…しーくんと…初めてのキスだし…って…」


「ふっ…」


 それまで無言だったしーくんは、突然肩を揺らして笑い始めて。


「二人とも食べてますからね…そりゃあ…親子丼の味かもしれませんね…ふふっ…」


 おもむろに、ポケットから何か取り出すと…自分の口に入れた。


「…?」


「今日、もらったものがポケットにありました。」


「…何?」


 しーくんは相変わらず笑いながら…何かを口の中で転がしてる。


 …飴?


 そして…


「はい。」


「え…」


 いきなり…唇が来た。


「……」


 あ…やだ…優しいキス…


「あ…」


 ゆっくりと…飴が、あたしの口の中に。


「……」


 …なんだろ…この飴…

 すごく美味しい…

 飴と…しーくんの唇と…


「…返して…」


 少しだけ唇が離れた瞬間、そう言われて…

 しーくん、あたしの頭をぐっと引き寄せて…

 また…今度は、深い…深いキス…


 ああ…どうしよう…

 足が…ガクガクする…

 しーくんの胸に当ててる手が…震えてる気がする…

 こんなキス、初めて…


 長い長いキスの後…しーくんは、あたしをギュッと抱きしめて。


「…どんな味でしたか?」


 耳元で、そう言った。


 あたしはしーくんの胸の中、夢見心地で。


「……甘かった…。」


 小さく答えた。

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