妖精の泉


 アルバートが振り向くと、そこには、リナリアとよく似た、エメラルドの髪の、やはり小さな少女がふわふわと浮いていた。

 蝶のような透明な四枚羽根は、わずかにエメラルドのようにきらめいている。


「人間め。どうせよからぬことのために森まで来たのであろう。妹がどうしてもと言うから、母上がお前に情けをかけてやったのだ。回復したのであれば、一刻も早く立ち去れ」


「君は?」


「お姉さま!」


 リナリアが慌てた様子で声を上げた。


「お姉さま? リナリアの姉上か? 私はアルバート。妹君に命を救われたと知り、謝意を伝えていた」


 にこやかに答えるアルバートを見て、リナリアの姉は激昂した。


「うるさい! そんなことはもう知っている! 貴様の巨体から出る声は、我々には騒音でしかない! 聞きたくもないが、耳に入ってきて不愉快だ!」


「そ、騒音?」


 アルバートはきょとんとして、じっとリナリアの姉を見て、リナリアを見て、自分を見た。

 自分の身体と彼女らの大きさを比べて、彼女の言う「騒音」という言葉に納得した。


 アルバートはすうっと息を吸って、そうっとそうっと、囁くような声を出した。


「これは気付かなかった。私は失礼なことばかりしていた。許してほしい、リナリア」


「わあああ、いいの! いいの~」


 アルバートは立ち上がろうとして、足元がふらつくことに気付いた。

 うまく足に力が入らない。

 顔を両手で覆って、ぶんぶんと頭を振っていたリナリアだったが、アルバートのその様子に気付くと、姉のほうへと向き直った。


「お姉さま。この方、まだちゃんと回復してないわ。泉の水を飲ませてあげたいの! そうしたら元気になるわ。そうしたらすぐ、森に帰っていただくわ。ね? いいでしょう? お願い!」


 リナリアが祈るようなしぐさで頼むと、姉は困ったような顔をして、大きくため息をついた。


「ここで見ているからな。早く飲ませてまいれ」


「あ、ありがとう、お姉さま!」


 リナリアは手を合わせて嬉しそうな声を上げると、アルバートの鼻先に飛んで行った。


「着いてきて! 泉のお水、あなたの手で飲んだら、十分元気になるはずだから!」

「泉とは……?」


 泉……妖精……。

 アルバートは内心どきどきしていた。

 彼女がさっきから繰り返し言っている「泉」とは、妖精の泉のことではあるまいか。

 自分が、探しに来たもの。

 両親の命を、救うかもしれないもの。


 リナリアが空間に手のひらをかざす。

 何もない空間が、水に小石を投げ入れたがごとく波紋を描いて揺らめいたと思ったら、その先の景色が一変した。


「どうぞ!」


 明るい声で手招くリナリアに近付くと、今まで見えていた花畑は消え、大きな樹が眼前に広がっていた。

 アルバートが、今まで見たことのない、大きな、大きな樹だった。

 幹はもう、太いという表現ではとても足りない。巨大と言うよりない。

 アルバートは、古い文献でこの樹のことを読んだことがあった。


 妖精たちの里――妖精たちの住処であり、力の源とされる、神樹トレント。


 そしてその根元には――


「これが泉よ! 手ですくって飲んでみて!」


 こんこんと湧いている泉があった。


「こ、これが、泉?」

「そうよ! さあ飲んで!」


「これは、どうして、この水は溢れないんだ?」


「えっ? ええっと、えっとねえ、なんだっけ? 私たちの――」

「リナリア! よけいな話はするな!」

「ひえっ! ごめんなさい、姉さま」


 アルバートの質問に答えようとして、背後から叱られたリナリアは、びくっとして、そっとアルバートの耳元に近付いた。


「ごめんね、お姉さま、本当は優しい人なのよ? ちょっとまじめすぎるだけで」


 アルバートは目を見開いてから、ふっと微笑んで、囁き声をさらにひそめて、そっとリナリアに答えた。


「気にしていない。私の弟も、まじめすぎる堅物だ」


 二人はお互いにみつめって、にっこりと微笑みあった。


「さ、ぐぐいっと飲んで!」


 アルバートは、そっと泉に両手を沈める。冷たくて気持ちよかった。

 泉の水は、それでも溢れなかった。

 どきどきしながら手にすくって、見つめてみる。

 隙間からぽたぽたとこぼれる水滴も、手の中の水も、きらきら光って美しい。

 アルバートはそっと口をつける。

 光を飲み込むような錯覚をおぼえながら、ゆっくりあじわって、ゆっくり飲んでみる。


 すると、力の入らなかった足どころか、全身に力がみなぎるような感覚で、今までにないくらい、身体が軽く感じた。


「これはすごい。まるで羽根が生えたようだ」


「ふふ! そうでしょ? 人間さんたちは、万能薬だなんて言ったのよ!」


「これは、これはやはり、妖精の泉なんだな」


「ええ。そうよ」


 楽しそうに話す二人の後ろで、リナリアの姉がアルバートの言葉に反応していた。


「リナリア。聞いてくれ。私は、タブリス王国の王子なんだ」


「おっ王子様?」


「ああ。実は、私の両親が輝石病という不治の病にかかってしまった。私は二人の命を救いたい。父王も、母も、まだこの国に必要な存在だ」


「まあ、病気? それは大変!」


「私が調べたところによると、この泉の水なら、両親を救えるかもしれないんだ。それで、私はこの泉の水を求めて、森にやってきた」


「へっ? そうだったの?」



「リナリア――聞いたろう。これが人間だ」



 急に、姉が二人の間に割って入った。

 怒りに燃えるエメラルドグリーンの瞳が、ぎろりとアルバートを睨みつける。


「人間は、私利私欲のためにこの妖精の里を汚しにやってくる。輝石病だと? 輝石病を治したいだと? 我々妖精を馬鹿にしているのか!」


「な、なんの話だ……私は、両親を救おうとして」


「それが何だ。お前たち人間の王の一族が、邪魔者を消すためにかけた呪いであろうが! しかも、我々妖精の命を犠牲にして!!」


「何……なんだって? どういうことだ? 教えてくれ!」


「うるさい! 即刻立ち去れ!」


 怒り狂った叫び声と同時に、アルバートは雷に打たれたような轟音に耳をふさがれた。

 あまりの音に驚いて、つい目をきつく閉じてしまう。

 直後、足元の感覚がなくなり、目を開くと同時に、土の地面にしりもちをついた。


「な……何が……?」


 そこは、元いた森の中だった。


 泉も、リナリアも、怒り狂っていたリナリアの姉も、どこにもいない。


「そんな……!」


 アルバートは、自分が妖精の里から追い出されたのだと直感した。


「リナリア! 頼む! もう一度応えてくれ! お願いだ!」


 アルバートは必死に叫んだが、森はしんと静まり返って、もう何も起こらなかった。

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