帰還
本音を言えば、望み薄なのだろうと、学院長は思った。
彼は、森に憎まれている。
森の本当の主である妖精王に、憎まれているのだ。
その抑えきれないほどの憎悪が、片手ほどの大きさの生命体から滲み出してくるのを目の当たりにした、あの日の記憶が脳裏に浮かぶ。
彼が森に取りに行ったのは、まずまちがいなく妖精の泉の水だ。
妖精の泉を守っているのは、妖精王の幻術。
たとえ地図上でそこだという場所に行っても、惑わされて迷わされてたどり着くことはできない。
妖精王が選んだ者しか、入ることはできない。
それでも向かった。
彼は、輝石病について、責任を感じている。
今では不治の病となったこの病気が、時折国民たちに現れるのは、自分たち一族のせいだと思っている。
彼自身は、何一つ悪くないというのに。
この責任感に突き動かされているのだ。
フランを連れていったのは、フランならば、妖精の領域に入れるかもしれないというわずかな希望を持ったからだろう。
妖精は、人間の中でも子供には寛容だ。
学院長は、足元ですやすやと眠っているセーラの、目元に刻まれた歳に不相応なくまを見つめる。
こんな小さな子一人、守ってやれない自分が憎い。
こんな地下室に閉じ込めて、守った気でいるだけだ。
本当なら、他の子供たちと一緒に明るい陽の下で笑っていられたはずなのに。
――コツン。
ふと、天窓から物音がした。
学院長が上を見上げると、フランがこちらを見下ろしていた。
「フラン!」
「……う……ふら?」
思わず声を上げてしまった学院長の足元で、セーラの弱々しい声がした。目を覚ましたようだ。
「ああ、ごめんなさい、セーラ。起こしてしまいました」
「せんせい、フラン、きたの?」
「ええ、帰ってきましたよ」
セーラは、思い切り起き上がって、学院長のマントがかかっていることに気付いた。気付いたが、時既に遅し。絡まってころりと転がった。
慌てているのでどんどん絡まる。
学院長が思わず頬をゆるめて、マントからセーラを救出してやったところに、ハーミットとフランがやってきた。
「セーラ! 材料、集まったぞ!」
思い切りドアを開けたフランは、いつもよりも泥だらけでかすり傷もあった。後ろには、外套がどす黒い色に汚れたハーミットが立っている。
「フラン、ハーミット!」
セーラは学院長の腕の中から飛び出して、二人に駆け寄った。
「け、けが、したの? 転んだの?」
「くっ……こここんなのケガじゃねえよ!」
フランは、鼻の先に迫ってきたセーラの顔を見て、真っ赤になってそっぽを向いた。
「ハーミットも……」
「私は大丈夫だ。治してもらったからな」
「ほう。ではおケガはなさったんですね?」
セーラの後ろから、穏やかに、どす黒い声が聞こえてきた。
「ネイサン……! 戻ったのか……早カッタナ」
「おや、いかがなさいましたか? 口調がおかしいですよ?」
「イヤ……」
「言い訳は不要です。セーラの為に動いてくださったこと、心より御礼申し上げます」
「む」
ハーミットはわずかながら驚いた様子だった。
にっこり微笑む学院長と、何かを探るように睨み返すハーミットの間で、フランが両手を挙げて大声を出した。
「薬! 薬作ろうぜ! 早く早く」
「ああ、そうだな。急ごう」
「それでは私がお手伝いいたしましょう」
学院長はそう言って、天窓の下の机をさした。
いつの間にか食糧や寝袋が片付けられて、机の上には、ハーミットの為に用意されていた道具が使いやすいように並べられていた。
「それは助かる。よろしく頼む。私語は少なめで」
「ええ、解っていますよ」
「おれも手伝う」
「私も……」
フランとセーラがそう言った。
大人二人は、忘れていたとでも言わんばかりに驚いた顔で振り向いた。
「お前は休んでいろ、フラン」
ハーミットが言うと、フランは思いっきり不満そうな顔になった。
「なんでだよっ」
「疲れただろうに」
「疲れてねえ! ハーミットこそ疲れたろ!」
「帰りの馬車でずっと眠っていただろう」
「わああああ寝てない!!」
フランとハーミットのやりとりがどんどん泥沼化していく様子を、隣で見ていたセーラがおろおろとしながら、視線で学院長に助けを求めた。
学院長は眉をハの字にして、ため息混じりに微笑んだ。
「静かに、二人とも。サリエルが頑張っていますから」
学院長が二人の間に割って入ってそう言った。
フランが、ハッとしてサリエルの方を見た隙に、学院長はしゃがんでフランと目線を合わせた。
「フラン。薬の準備も大事なのですが、貴方にもっと重要なお願いをしたいのです」
「えっ?」
「実はですね……」
学院長はそこでフランの耳元に手を当てて、なにやらひそひそとささやいた。
フランは驚いたような顔をして、恐る恐るセーラを見た。
セーラは、困った顔で小首を傾げる。
「……貴方にしか頼めません。ここはひとつ頼まれてくれませんか? 大事な大事な使命です」
「わ……わかった……!」
言うなり、フランは出口に向かった。
「セーラ、そこで座って待ってろ! 座ってるんだぞ!!」
「え?」
「よろしく、フラン」
にこにこと手を振る学院長と、ぽかんとするハーミットとセーラを尻目に、フランは猛然と外へと出て行ってしまった。
「フランはすぐ戻ってきますよ。さあセーラ。お母さんの隣に椅子をふたつ置いておきますから、座ってフランを待っていてください」
「先生、フランはどこに行ったんですか?」
「うん、ちょっとおつかいをお願いしました。大丈夫、すぐ戻ってきますよ」
「あの、先生、私もお手伝い、したいです」
学院長は、優しくセーラの頭を撫でる。
「セーラの気持ちはすごく嬉しい。是非お願いしたい。けれど、セーラにしかできない大事なお仕事があるのです。そちらをお願いしたいのですが」
「?」
「見たところ、フランはとても疲れています。森を冒険してきたのです、大人だってふらふらになるようなことですよ? なのに、お薬作りまで手伝ってくれようとしている。嬉しいけれど、先生はフランが心配です。疲れすぎて、病気になったら大変です」
「……!」
「けれど。フランはほら、先生の言うこと、あまり聞いてくれないでしょう?
そこで、セーラにお願いしたいのです。
フランが今、おやつやお茶をもらってきてくれますから、セーラが一緒にいて、ちゃんとフランがおやつを食べて、お茶を飲んで、しっかり休むように見ていてくれませんか?」
「わ、わかりました!」
「ありがとう、セーラ! 助かります! では、椅子の準備を一緒にお願いします」
「はい!」
俄然やる気を出して、セーラは椅子をずりずりとひきずって準備を始めた。
学院長はにこにこしてそれを手伝っている。
ハーミットはそっと学院長に近付いて耳打ちした。
「お前、フランにいったい何と言ったんだ?」
「ふふ、ちょっとした魔法をかけただけですよ」
――セーラは見ての通り、全然食べてくれないし、ちゃんと休んでくれないんです。このままでは病気になってしまうかもしれません。私より、お友達と一緒の方が食事が進むと思うのですが。
――フランと一緒なら、きちんと食べて、休んでくれると思うんですがねえ~。
フランもセーラも、学院長の「魔法」にかかり、ハーミットと学院長が薬を完成させる頃には、椅子の上でお腹いっぱいでぐっすり眠っていた。
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