第百四話 最悪の誤り

「だああ~酷い目にあった」


 俺は外に飛び出してとにかく空気の正常な所を求めて走り、町の中でも何となく植物の多そうな……公園っぽいところまで辿りついた。

 ああ空気が美味い……。

 妙な感じだけど不快感で言えば消毒薬よりもガソリンよりも、極端な話便所の悪臭でさえあの臭いに比べればマシかもしれない。

 それほどまでにあの臭いは強烈で不快だった。

 イメージ的に行き過ぎた化粧品と香水の臭いを百倍くらいに強烈にした……そんな感覚何だけど、吐き気を催すほどとなるとちょっと経験が無い。

 今の俺は憑依体の『水人形』だと言うのに……今更ながら痛覚以外の感覚が正常なのが余計な気になってしまう。

 しかし何だったのだろうか、あの『竜炎亭』で発生した耐え難い悪臭は……。


「あの店に赤毛の女の人が入ってきてから急にだったな……しかしあんな悪臭をたった一人で発生させれるワケねーしな~。近所のおばちゃんたちの寄り合いでの臭いでもまだましな方だったし……」

「…………見つけたわよ……“・・・・・・・・”」

「!?」


 突然耳元で聞こえたおぞましい不協和音に俺はゾワっと全身に鳥肌が立ち、慌てて飛びのいた。

 誰もいなかったし、誰も追いかけて何か来なかったはずなのに……それは突然に俺の背後に“いた”のだ。

 あまりの事に俺はビビり、声を震わせて睨み返す……いや睨めたかは分からない……。

 虚勢を張っているのは自分でも分かっているけど、それほどまでの恐怖を感じた。


「う、うわあああ!? アンタはさっきの…………え?」


 そこにいたのはさっき店に入って来た女性……店から俺は結構走って来たと言うのに目の前の女性は息一つ乱すことなく、気配すら立てずに俺の背後にいたのだ。

 俺は本能的に思った『敵だ!』と……。

 しかし飛びのいた俺の足は地面と接することなく、立位を保つ事も出来ずに膝を付いてしまう。


「な、なんだ一体!? め、眩暈がする……それにさっきよりも強烈な吐き気が……」



 今の自分の状態が信じられない……この体は水人形の憑依体、感覚を共有していても本体じゃ無い。

 にもかかわらず俺はアッサリと行動不能にされてしまった。


「ふん……明らかに素人の動き……戦闘には向いていないようね『金色の獣使い』のお仲間は……」

「あ、あんた……はさっきの……いつの間に背後に……う……うええええ!?」


 遂に俺は耐え難い不快感に耐え切れずに嘔吐してしまう。

 間違いなく目の前の女は町の人間じゃなく、話に聞いていた『不死病の森』のエルダーリッチの仲間、もしくは部下なのだろう。

 くそ……何て事だ……俺は一瞬にして行動不能にされてしまった不甲斐なさは当然だけど、相手の手際の良さと策略に驚愕していた。


「ま、マジかよ……食堂から強烈な悪臭で追い出して人の少ないところに誘導して、更に強烈な不協和音で三半規管を麻痺させられるとは……」

「…………」

「何てヤツだ……ここに至るまで全く力業が無い……感覚的な不快感のみで敵を翻弄するなんて……」


 周りを見渡しても人っ子一人いない……俺はまんまと敵の策略に乗ってしまのだろう。

 俺は驚愕と戦慄を感じながらも、こんな状況であると言うのに目の前の女性を強敵と認識する。

 しかしさぞかし自分の術中にハメてご満悦、見た目に似合った嗜虐的な瞳でうずくまる俺の事を見下していると思ったのだが……。

 何故かその顔はまるで仁王像の如き憤怒の表情で俺の事を睨みつけていた。


「え? え? え?」

「…………まあいいわ。私も己に驕りがあった事は認めましょう……どうやら私ではどう足掻いても貴方を魅了する事は出来ないようね」

「魅了? 一体何の……」

「始祖の誇りとして同意なしに無理やりってのは主義に反するけど……そうも言ってられなそう……ねええええええ!!」


 次の瞬間、目の前の赤毛の女性の目が紅く光り輝き口元から牙が禍々しく覗く。

 そして呼応するように短髪だった赤い髪が生き物のようにザワザワ伸び始めて、広げた両手の爪までもが仰々しく伸びる。

 そして最後には背中から蝙蝠に酷似した翼が生え出す……。

 その異形の姿に俺は驚きを隠せなかった。

 この世界に来てから獣人やらエルフやら亜人と言われる種族を目にして来たけど、ここまでは驚かなった。


「ま、まさか……吸血鬼ヴァンパイア!?」


                 *


 吸血鬼ヴァンパイアと言うのはアンデッドという幅広い種の中でも取り分けプライドが高い事で有名である。

 それは上位であればある程高くなり、頂点である『始祖』であればそれこそ王族の如き気位の高さを持つとすら言われる。

 だからなのか、吸血鬼は眷属を増やし自らの糧とする吸血の行為に一種のこだわりを持つ事がある。

 それは自分からではなく“相手から自分の身を捧げさせる”と言うもの……。

 身体能力で人間を上回るのは当然の事、無理やり吸血を行うのは自分よりも魅力も力も劣る下位の眷属の所業と言わんばかりに。

 この傾向は自らの『魅力』と『魔力』に自信がある者であればあるほど強くなる。


 だから当然、呪術王ゾル・ビデムにより『始祖』として生み出されたフィジーが己が美貌と力に絶対の自信を持っていたのは必然だった。

 そう、持っていたのだ……今の今までは……。


 大勢の人間を魅了状態にする『吸血鬼のフェロモン』が効かなかった例は今までもあったが、それは高い魔力を秘めた高位の聖職者だったりして、そんな輩でも苦悶の表情を浮かべつつも『く……そんな誘惑に惑わされる私ではない……』などと必死に抵抗する姿を見せてくれたものだ。

 それを『悪臭』と断じられたのだから彼女のプライドは相当傷つけられていた。


 ならばとフィジーが敢行したのは自分の魅了の中でも最高峰、件の聖職者でさえ陥落させた『宵闇の歌声』。

 耳元で甘美にささやかれた言葉にどんな聖人であろうと陥落し、自らの命を捧げる奴隷としてきた魅了魔法だった。

 背後から忍び寄り、理想的な形で耳元から魔力の込められた歌声を聞かせたフィジーはこれならば、と確信していた。

 最早この男は自分に魅了された操り人形と化したと…………しかし男は魅了されてはいなかった。

 敵対者としては動けなくなっているのだから結果オーライのはずなのに、夢次が漏らした声にフィジーは思考停止に陥る。


「ま、マジかよ……食堂から強烈な悪臭で追い出して人の少ないところに誘導して、更に強烈な不協和音で三半規管を麻痺させられるとは……」

「…………」

「何てヤツだ……ここに至るまで全く力業が無い……感覚的な不快感のみで敵を翻弄するなんて……」

『ふ、ふ、不協和音!? 何者でも甘美な夢に堕とした歌声を……』


 その言葉は彼女の女として、そして吸血鬼としてのプライドを木っ端微塵に打ち砕いた。

 目の前の男は何の虚実も表情に浮かべてはおらず、むしろ恐怖と共に自分を行動不能に陥らせた強敵に対する畏敬の念すら感じられ…………それが彼女の神経を更に逆なでする。

 

 そんなつもりは欠片も無かったのに……目の前の男は自分の全く意図していない事に勝手にピンチに陥っているのだから……。


「…………まあいいわ。私も己に驕りがあった事は認めましょう……どうやら私ではどう足掻いても貴方を魅了する事は出来ないようね」

「魅了? 一体何の……」


 そして夢次のこの発言……この男には自分を女性として“性的に”捉える事が無い事を悟ったフィジーはこの時点で自らの矜持よりも主の命を優先させる事にした。


「始祖の誇りとして同意なしに無理やりってのは主義に反するけど……そうも言ってられなそう……ねええええええ!!」


 吸血鬼としての力を一気に開放したフィジーの体は戦闘に特化したモノへと変貌していく……。

 どうせ夢次は強烈な体調不良で動けず、まともに戦闘するにしても力を開放しなくても圧倒できる自信はあったのだが、フィジーとしては魅了出来ないなら極限まで恐怖を与えてから、という一種の八つ当たりの気分もあった。


「ま、まさか……吸血鬼ヴァンパイア!?」


 そしてその目論見は当たった様で、驚愕する夢次の姿に少しだけ溜飲が下がる気分のフィジーは開放した力をいかんなく発揮し、瞬時に彼の背後に回っていた。

 さっきのように気配を感じさせずに背後に立ったのとは違う、純粋に速さのみで背後を取った。

 しかもフィジーのあまりの速度に夢次は全く動きを追い切れておらず、彼が気が付いたその時には……すでに禍々しく鋭い吸血鬼の牙は彼の首筋に深々と突き立っていた。


「は……え?」


 吸血鬼に吸血されると言うのは肉体を支配され眷属へとなる、すなわち新たな吸血鬼にされてしまうという事になる。

 それはアンデッドになるという事で、牙を突き立てられた時点で人間にとっては最早死は不可避……致命傷を負った事になる。

 にもかかわらず“まるで何も感じていない”ような間抜けな声を漏らす男にフィジーは内心ほくそ笑む。

 

『変な所でプライドを傷つけられたけど、所詮はこの程度よね……大した力も無い人間ごときは…………!?』


 しかしフィジーは自らの糧、生命の象徴である血液を口にしたつもりだったのに、妙な事に気が付いた。

 味がしないのだ……自らの魔力を満たす甘美な味はせず、全身を巡る得も言われぬ快感も無くただただ無味無臭……。

 

「……え? 血じゃない……これは水? あ? アアアアアアア!?」


 その瞬間フィジーの全身から沸騰するように『赤黒い』蒸気が上がり始める。

 何が起こったのか分からないフィジーだったのだが、全身が燃えるように熱くなり立っていられなくなる。

 吸血鬼となってから感じた事が無かった強烈な苦痛に彼女はその場で転げまわった。


「アアアアアア熱い熱い熱い熱い!? 何!? 一体何なのこれ!? 私に何を飲ませたんだ貴様ああああああああ!!」

「……え? はあ? 一体何が何やら」

「アアアアアアアアア!?」


 夢次は完全に目の前の状況に付いていけてなかった。

 現状凡人の学生である彼にはフィジーの動きも何も見えていなかったので、彼にとっては『なんか目の前にいた怪物がいきなり背後で転げまわっている』ようにしか見えないのだから。

 そしてフィジーが口にしてしまったモノも夢次には分からない。

 憑依体『水人形』、今の彼はそれに意識だけ乗り移らせた状態なのだが、その水人形を用意した人物が問題だったのだ。

 闇の眷属である『吸血鬼』が『女神』の用意した水を口にしてしまったのだ。

 聖水など遥かに凌駕してしまう『神水』を……。




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