第七十八話 弁護士無き裁判

 妹の口から出た週末の間は絶対に会う事がない……そう思っていた名前に呆気に取られるが……呼べて振り返った女性の顔は間違いなく天音の顔で……。


「え? あれ?もしかして夢香ちゃん? それに夢次君も……どうしたのこんな所で」

「お泊りですよ~もしかして天音さんのうちもですか?」

「え、ええ……うちはこのホテルちょくちょく使うのよ。ちょっとしたコネがあって割り引いて貰えるから」


 コーヒー牛乳を手に振り返った天音は湯上りの火照った浴衣姿で、乾ききっていない髪がやたらと色っぽく……同じ風呂上りでも昨日目撃したタンクトップに短パンの姿とはまた違った色っぽさを醸し出していて……いや、昨日のが劣るワケでは断じてないのだが、何というか昨日が動であれば今日の浴衣は静の色気と言えば良いのか……。

 そんな天音と夢香が一緒に笑いあっている姿は非常に微笑ましい光景だが…………俺はその微笑ましい光景を直視する事が出来ない。


 ヤベーよ俺、マジでヤベーよ……夢香じゃなくても自分でも自分に引く……。

 今俺は“あれは天音だ”という前情報が一切ない、認識していない状況だったにもかかわらず、後ろ姿だけで反応してしまった。

 つまり夢香いわく……本能的に天音のみに欲情してしまった……という事に……。


「むおおおおお!?」

「ちょ、ちょっと夢次君? おーい、どうしたの?」

「しばらくそっとしてあげて下さい。自分が好物しか食べないタイプの動物だった事に折り合いが付いていないだけですから……」



 親父の推測通り、俺はこの連休中にある決意を固めるつもりでいた。

 その為に喜ばしい事ではあったが、最近は昼夜問わずにいつも一緒にいた天音と数日間距離を置いて考える時間が出来た事は都合が良いと思っていた。


 ……ここ最近、俺は自分でも少々天音に馴れ馴れしくし過ぎている。

 それは幼少期、疎遠状態になる前の状態に戻ったと言えば聞こえはいいけど、俺たちはもうすでに年ごろの男女……幼い日には何でもない“手をつなぐ”だけの行為ですら違った意味を持つ事くらい理解しているのだ……互いに。

 だが俺の心の大部分を占めているのは、そんな幸福な状況をただ享受しようとしているという凄く……ズルい気持ちだった。

 幼馴染の仲良しに戻ったから、一緒に登下校しても、一緒に休日を過ごしても、夜窓越しに話しても、手をつないでも、非現実的な『夢の本』の影響下で……キスしてしまっても…………天音が嫌がっていないなら、このままでも良いんじゃないか……と。


『いや、それはやっぱりダメだろ……』


 男女七歳にして席をどうじゅうせず……とまで言うつもりはないけど、俺たちの年齢になって幼い頃と同じような感覚で、こんな関係を続けてはいけない。

 俺の心のクソ真面目な、ありきたりな天使の部分が声高に言うのだ『不埒な行いはケジメを付けてからにしろ』と。

 悪魔の部分が同調する……『うん、それならあと腐れなくエッチな事がし放題だな』と。

 …………ん? なんだ? どっちも同じ事を言ってないか??

 まあ良いか……どっちでも結論は同じなんだから。


 ケジメも無しに『幼馴染』というある種の特権を傘に天音と今のような関係に甘んじるワケには行かない……けれども、出来る事なら今のような関係を続けて行きたい。

 そうなれば、俺がするべき事は一つしか無かった。


 連休明けに、俺は天音に告白する。

 それは今の関係を壊しかねない恐怖、だがしなくてはいけないケジメである事は俺自身が一番理解していた。

 ……俺は幼馴染、神崎天音が好きだ。

 それはもう自分でも呆れる事にガキの頃から全く変わる事のない想い。

 隣の家に同い年の可愛い女の子がいると知った日から、その女の子が『一緒に遊ぼう』と俺の手を引いてくれたあの日から……いつまでもいつまでも抱き続けた重い想い……。

 優しく天音が許容してくれていたからこそ今の関係に落ち着けているけど、悪くすれば俺は実に16年に及ぶストーカーをしていたとみなされても仕方が無いと思う。


 俺はそんな長年の想いにも決着をつけるべく、覚悟を決めるつもりでいたのだが……よりによって出会うはずがないと思い込んでいた最終目的あまねが浴衣姿で突然目の前に現れたのだ。


「ねえ夢次君どうかしちゃったの? 顔が真っ赤だけど……」


 俺の奇行を心配してくれたのか天音が自然と俺の隣に腰を下ろして訪ねて来る。

 しかし、その顔は真に俺の事を心配してくれていると言うのに俺の口から思わず漏れたのは……目の前の光景に対する交じりっけのないそのままの『本音』だった。


「綺麗だ…………」

「え?」

「……あ」


 その瞬間、俺の言葉を聞いた途端に目を大きく見開いて顔を真っ赤に染めて行く天音を見て自分が今口走ってしまった言葉にようやく気が付いた。

 な、何を口走ってんだ俺!? いやマジで風呂上りで浴衣の天音はこの上なく綺麗である事は間違いないんだけど!?


「あああああ!? いや、その……何というか、今のはその思わず……!」

「へ!? ああ、そうなの!? そりゃあ大変ね!!」


 慌てて何かを言いつくろおうとしても出した言葉は飲み込めない……俺は自分でも何言ってんのか分からない感じで慌てるが、天音も天音でビックリしたように良く分からない言葉をアワアワと繰り返している。

 そんな俺たちのやり取りを夢香はほんのり顔を赤らめながらニヨニヨと見ていて……俺と目が合った瞬間に親指をグッと突き出した。

 ……何だあの『やるじゃん!!』とでも言いたげな表情は?


「じゃあお兄ちゃん、私は先にお部屋に戻ってるからごゆっくり……。天音さん、兄をどうかよろしくお願いしますね~」

「え? ええ、はい宜しくお願いされます?」


                ・

                ・

                ・


 自らの欲望に悶える兄を心配するように隣にちょこんと腰を下ろす天音……の体温を感じてさらに硬直する。

 どちらの顔も真っ赤に染まっていて……関係のない通行人ですら温かい瞳で『若いって良いね~』とでも言わんばかりの表情になる。

 そんな実に背中の痒くなるような光景を見つつ、夢香は人知れず装着していたインカムに向かって語り掛ける。


「ハロー、こちらシスター。現在ターゲットは対象との偶然的な接触に成功。油断してた分対象の浴衣の色気にメロメロです、どうぞ~」


 まるでスパイアクションのような緊張感のある表情と口調ではあるものの、内容はかなりふざけていた。

 そして呼応してインカムから女性の声が返ってくる。


『こちらフォックス、どうやらこちらの誘導は成功のようだな……突然の風呂上りを目にしてヤツが平静でいられるハズがないからな』

「その通りです。接触したターゲットは今まさに顔を背けようとしているにも関わらず、絶えずチラチラと対象のプロポーションを観察しています……あ! 今完全に臀部からの脚線美に目を奪われました!!」


 フォックスと名乗った女性に夢香は自らの目で見た正確な情報を流していく。

 そんな連携を繰り返す中、インカムからは別の女性の声が聞こえて来た。


『ご苦労シスターにフォックス……休暇中だと言うのに呼び出してすまない。こちらホテルマン……イベントの準備は既に完了している。貴殿らの奮闘を願うばかりだ』

『ラジャ~!』

「オーケーですせんぱ……いやホテルマン」


 そんな会話がなされて通信は終了……夢香は人知れずにインカムの電源を切り、未だに顔を真っ赤にする兄を見てニヤリと笑う。

 インカムでの通信なんてそれっぽい事をしているのだが、そんな会話をしてる相手は全員が売店付近、つまりは目と鼻の先にいる辺りにゴッコ感が半端ないのだが……それでも夢香を含めた仲間たちの心は一つであった。

 夢次にとっては有難迷惑な事に……。


「さあ我らの術中から逃げられると思わない事だお兄ちゃん……」


                 *


 話は数日前にさかのぼる。

 学校が終わった放課後、神崎・神楽・神威の三女神はいつもの某ファストフード店でだべっていた。

 何でもないような会話で盛り上がるのは何時もの事ではあるのだが、最近の彼女たち……と言うか神楽・神威の注目する話題はもっぱら恋バナ。

 そして当然の如くターゲットにされるのは最近何かと幼馴染とのアレコレが多い天音になってしまうのは自然な事ではあった。

 しかし本日はその辺を揶揄いつつ情報を引き出そうと追及されるいつもの流れにはならず……話を振られた天音は顔どころか全身を真っ赤にして湯気を立てていた。


「何か最近……私ヤバイかも……」

「は? 何がよ」


 新作のシェイクを啜りながらコッソリとテーブル下にいる子狐にナゲットを一つ分けてあげながら神楽は聞き返し、神威はポテトを纏めて口いっぱいに頬張り天音の話を黙って待っている。

 そんな親友たちに向かって天音は顔を下に向けたまま、最近の自分の行動をポツポツと語り始めた。


「最近ね……無意識に夢次君との距離が近いの……」

「それは……天音さんにとって別に良い事なのではないですか? 前に疎遠状態だった時には“昔みたいに仲良くできれば”と悩んでいたじゃないですか」


 神威の見解は最もで、つい数か月前まで天音は疎遠になってしまった幼馴染と何とか仲直り出来ないかを悩んでいて、実際に二人に相談する事もあった。

 仲直りが成って最近一緒にいる事が増えた今の状態に悩みがあるとは到底思えないモノであったのだが、しかし天音は首を振る。


「違うのよ。それが言ってた通りに昔みたいな仲良し、お友達感覚に戻るだけならそんなに悩む事無かったんだけど……」


 そこまで言うと天音は更に顔を赤くして、指をコネコネと回し始める。


「何かもう……あの時とは違うって言うのは分かってるの。どっちももう高校生なんだし昔みたいに一緒に遊んだり、手をつないだりするのも一つ一つに違う意味が出来ちゃうって事は……」

「「…………」」


「なのに……そんな事を分かっているのに……昔以上の接し方をしようとしている自分がいるの……ここ最近……」


 そんな天音の発言に、次第に神楽と神威の二人も顔が赤くなって行く。

 二人には天音が言っている言葉が外野であるからこそ、冷静に見る事が出来る……ゆえに親友の最近の状態に背中がムズムズする気分だった。


「カムちょん、これは本人が分かってないパターンだと考えて良いのか?」

「そのようですね……これはいけません、この案件はハッキリさせる必要があると考えて宜しいでしょうか神楽さん」

「そうだね、ハッキリさせようか……」


 そこで言葉を切った神楽と神威は突然テーブルをはさみ、天音の真正面の位置へと席を移して姿勢を正して座った。


「? 何してんの二人とも??」

「あまっち…………言いにくいようだから、質問形式で聞いても良いか?」


 二人の行動の意味が分からない天音の質問を無視して神楽は“無いはずの眼鏡”を押し上げる動作をする。

 まるで……面接官でもするかのように……。

 しかし数々の質問を繰り返した結果、神楽は面接官ではなく裁判長と化し、槌の代わりにストローでカップをコンと叩いた。


「判決を言い渡す……被告人神崎天音、有罪!!」

「は、はあ!? い、いきなり何を言い出すのよ!?」


神楽が唐突に突きつけた理不尽な判決に声を荒げる天音だが、隣の神威は検事のポジションのつもりらしく……淡々と罪状を読み上げる。


「裁判長、被告には“特定男子お誘い罪”が適応されるかと思われます。先ほどの尋問の結果、手を繋ぐ際に体を密着させていたり、普段は他者、特に男子には見せない薄手の部屋着で訪問した事からも明らかであります」

「うむ間違いないな」

「ふ、ふえ!?」


 突然の追及に目を丸くする天音だったが、検察官(神威)の追及はそれだけでは終わってくれない……眼鏡をクイっと上げると不敵な笑みを浮かべた。


「裁判長、更に被告には余罪の疑いがあります。先ほど被告人は“無意識に”と発言致しましたが、尋問の結果意図的であったと検察側は推察いたします。これは普段はあまり出さない生足を特定の状況では露出する服装であった事からも明らかで……」

「ふ~む、これは偽証罪の疑いが……」

「そ、そんな事ないもん! 裁判長、私は自分が着たい服を着ていただけで……」


 友人たちの追及に真っ赤になったその場のノリで天音もついつい神楽を裁判長呼びしてしまう。

 しかし友人たちは態度を変えず、天音を見据える。

 それは弁護士のいない……被告人の弁護が期待されない余りに不当な裁判であった。


「では質問を変えましょうか……被告人神崎天音、貴女は幼馴染である天地夢次の事をヘタレであると考えますか?」

「……は?」


 唐突な、まるで夢次の事をバカにするような質問に、意図が分からない天音の口から思わず不機嫌な声が漏れた。


「あの男はいざとなったら頼りにならず、それこそ女子に対して二人きりでは尻込みして何も出来ない惰弱な男子であると……思いますか?」

「まあ長年に渡り疎遠な関係を修復出来なかった男の子ですからね。いざと言う時にはビビって何も出来なくても不思議は……」

「そんな事ないもん!!」


 天音は思わずテーブルを叩いて立ち上がった。

 確かに夢次はパッと見で頼りになる男子には見えない。

 しかし天音は夢次の誰よりも、どんな男子よりも頼りになる事を良く知っているし、何よりも『夢の中で』今まで自分が“されてきた”事を考えればビビって何も出来ないなんて事はあり得なかった。

 だから天音は思わずムキになってしまった……不覚にも。


「彼は誠実なだけ!! そんな状況でもその気にさえなれば……」

「「その気になれば?」」

「…………あ」


 それは誘導と言うには余りにあからさま……だと言うのに色々と頭に血が上っていた天音には冷静に判断が出来なかったようでアッサリと引っかかってしまった。

 

「つまり被告人、貴女は幼馴染天地夢次を無意識ではなく意図的にその気にさせようと画策していた事を認めるという事ですね……」

「ひゃう!? そ、そんな事……私はそんな……誘惑をしていただなんて……」

「一端“その気”にさせてしまえば大変な事になる……その事を理解した上で件の行為を繰り返していた……それは無意識とは言えません……明らかに意図的であります!」

「あひ……うう……」


 自分では無意識と思い込もうとしていた本音を親友二人に暴かれた天音は、顔面から火が噴き出しそうな程に真っ赤に染めて声にならない声を上げる。


「裁判長、被告人は我々が想定した以上にエッチであると判断して宜しいでしょうか? 当初の見解では付き合いたての男女を想定していたのですが、被告人の行動を鑑みると……余りにディープであります」

「うむ、間違いないだろう。私もまさかこんな結婚後に旦那を誘惑する奥様レベルで被告人が誘惑を繰り返していたとは思わなかったからな!」


 自分の行動を思い返して……自分が最近夢次に合う時、いつも彼が好みそうな恰好を意識していた天音は二人の指摘に何も言い返す事が出来ず、頭から湯気を立ててテーブルに突っ伏してしまった。


「…………私がやりました……もう許して……」

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