僕の正体を突き止めろ 1


 犬がわたしのお腹を揺さぶるせいで目が覚めた。

 この部屋には時計が無い。今何時だろ。

「なーに? エサ? 散歩? トイレ?」

 クウウウー……と鳴くばかりで何を言いたいのかよく分からない。

 とりあえずトイレシートを敷いたダンボール箱に犬を入れて、エサ皿に水を汲みに行く。

 洗面台の鏡にはまだ見慣れない娘の顔が映り込む。

 特撮特有のメイクのおかげでキツい造作の顔に見えるけど、思ったより若い――というか幼いようにも思う。


 犬に水とエサをやってからシャワーを浴びに引き返す。

 これでようやくメイクを落とせる。昨日入浴用品と一緒にクレンジングオイルも買ったし。

 着たきり雀だったリクルートスーツを脱衣カゴ代わりのダンボール箱に放り込んで、汗を吸って湿ったブラウスを脱ぎ去る。

 そこで手が止まった。

「え? 無い?」

 そこにあるはずのものが無かった。

 下着ではない。

 起伏だ。見下ろすわたしの胸元には、起伏が無かった。

 実に平坦フラットなボディだ。

 胸に手を当てる。下に滑らせると抵抗なく腹をさすった。

「…………」

 落ち着け。深呼吸だ。

 スゥー、ハァー、スゥー、ハァー、スゥー――、

「ホアアアアアァァッ!!」

 おっぱいが無い。昨日一日この身体で活動していてちっとも気づかなかった。

 いや、よく見ろ。目を凝らせ。膨らみはあるはずだ。

 うん……うん……。

 若さとキレイな顔面を手に入れた対価がこれか……。

 別に他人に自慢するほど持ってたわけじゃないけど、人並みにはあった。アラサーともなるとそれなりに肉がつくのだ。色んなところに……。

「けっこうショックだ」

 再生怪人になったことに並ぶ衝撃がある。

 病気が原因で乳房を切除し、そのことに精神的苦痛を感じる女性がいることは知っている。

 それは四肢や手指を失う苦痛に近しいものだと想像していた。

 だが元々あったものが無くなる……この心理的負担は想像と全然違う。

 自分というひとつの塊に、ポッカリ穴が空いてしまう感じだ。

 パーソナルな領分の一部を永久に失うことなんだ。


 気持ちを静めるためにもシャワーを浴びる。

 頭からお湯をかぶりながら、両手で身体をなぞる。

 これは『わたし』の身体じゃない。本当の『わたし』の身体は……、

「トラックに撥ねられて、グシャグシャになってるはずなんだよなぁ……」

 あの全身打撲。生きてるんだか死んでるんだかも分からない。

 今は絶対にこの肉体のほうがいい。たとえ自分のものじゃないとしても。


 そういえばこの身体になってから、普段使わない女言葉が無意識に出てくるときがある。

 雄一くんと話してたときはずっとそんなだった。

 わたしが自分で『鹿取キユコ』というキャラを作ってる感覚はある。

 でもそれだけじゃない。意識してキャラを使い分けてはいないんだから。

 あれは……あの喋り方は、わたしの中の『鹿取キユコ』の言葉なのか?

 それとも……脚本に書かれたセリフを喋らされてるだけなのかも。

 千葉と話したときは途中からやめられたし、意識すれば『わたし』の言葉で話せるとは思う。

「他人任せにして楽をすると脚本に流されるってことか。厄介だなぁ」

 流された先にハッピーエンドが待ってるとは思えない。


 洗面台に向かって完全にメイクを落とす。

 すっきりした美人だけど、やっぱりちょっと幼い顔つきをしている。

 鹿取キユコさんが何歳なのかは知らないけれど、この女優さんはまだ高校生くらいなんじゃないかな。

「バーに匿われてるのに、うっかり飲酒もできないな……」

 チョーカーを外した首も見てみる。

 コインの挿入口は、ミミズ腫れみたいに膨れていて、ちょうど小さな唇のように首筋に線を引いている。

 指で広げてみると、ピンク色の肉が覗いた。頸動脈が通っているはずなのに肉の断面らしきものしか見えない。不思議だ。



 部屋で髪を乾かしていると入り口のドアがノックされた。

 すりガラスの窓に男の人影が透けている。

「バーディー、起きているか」

 ドアを開けてマスターを出迎える。

「おはよう」

「湯上がりか。まあいい。客が来ている」

 マスターの親指が背後を示す。

 身を乗り出して覗き込むと、雑居ビルの裏手に、落ち着いた背広姿の壮年の男性と――、

「アバドンがいる」

「理由は知らんがシカバネ博士が連れてきた」

 ああ、隣のおじさんは博士か。白衣着てないし、変な骸骨の眼帯つけてないからちょっと分かんなかった。

「メイクするからちょっと待って」

「店に通しておく。遅くなるなよ」

「博士が出来上がる前には済ますよ」

「昼間から酒を出すつもりは無いんだがな……」

 マスターは苦笑を残して引き返していった。


 メイクは悪役っぽく目尻にラインを書いて済ませた。

 眉毛は整ってるし、まつ毛は長いし、美人の顔はどこをどうイジればいいのか分からない。

 だいたい元のメイクがどうだったかも思い出せないし。

 超人ライザーシリーズを作っているスタジオは、そもそも時代劇を作ってきた老舗であるため、メイクの手法も時代劇のノウハウが伝わってきたと言われている。メイクが独特なのはそのせいとも言われているが真相は知らない。


 新しいブラウスに袖を通し、またあのスーツを着た。

 裏口から店に入り、調理場を通って店内に向かうと、マスターの正面にカウンターを挟んでシカバネ博士が座っていた。枯れた色のベストにループタイを合わせて、眼帯も医療用のふつうのデザインだ。その後ろにアバドンが控えている。

「おはよう。博士、アバドン」

 アバドンのほうは特段の反応を示さない。シカバネ博士は小さく首をひねった。

「もう昼も過ぎているのだがね」

 そうだ。マスターが店にいるってことは、自宅から出勤して夜に向けて仕込みを始めるってことだ。

 わたしどんだけ寝てたんだ。そりゃあ犬にも起こされるわけだ。

「そ、それで、わたしに何の用事があったの?」

 寝こけていたことはとぼけておいて、博士の隣の席に着く。

「うむ。再生前の素体を回収した折に、君の持ち物もいくつか回収していたのでな。それを渡しに来たのだよ」

 素体……って死体のことだよね。

 博士がカウンターに並べた品を手に取ってみる。

「これがわたしの遺品かぁ」

「君が目覚めたときから遺失物になったがね」

 大した物は無い。財布や手帳なんかの普段から持ち歩いてる物に見える。


 手帳にはこれといった予定も書き込まれていない。

 ゴミの回収日だとか銀行や役所に行く日だとかをメモってるだけだ。

 四月を待たずに死んだならそんなもんか。

 ただ余白のページに気になるものを見つけた。

 白いページの真ん中に、丸で囲って、ただ一言――、

 ――東京ポップコーン作戦――と。

「だ、ダッサいネーミング……」

 昭和の特撮にありそうな妙にふんわりしたワードセンスの作戦名だ。

「なんだ?」

 不思議そうにこちらを見るマスターにメモ帳を見開いて突き出す。

「ここに書いてあるんだけど『東京ポップコーン作戦』って聞き覚えない?」

「知るか、そんなもの」

「私も初耳だな。それしか書いてないのかね?」

「うん。まあどうせライザーに阻止された作戦なんでしょう」

 じゃなきゃ死んでないし。


 次いで、財布の中身を確認する。これでもわたしはお金には目ざといほうだ。

 だが目を引いたのは現ナマちゃんではなかった。

「あ、カードがたくさん」

 財布の中から出るわ出るわ。ポイントカードがどっさり入っていた。

 書いている名前も確かに『鹿取キユコわたし』のものだ。

 生前はきっと、お会計のたびに言われる「ポイントカードはお持ちですか? よければお作りいたします」が断りきれなかったんだろうなぁ。

 その一枚をマスターが手に取る。

「これがおまえさんの本当の名前か。鹿取――」

「“バーディー”でいいよ。そっちのほうがいいよ」

 『わたし』の名前ではないんだから。


 本物の鹿取キユコさんが流されやすい性格なのか、ポイントを貯めるのが好きだったのかは分からないけれど、大事なのはカードに書いてある内容だ。

「これ、住所が載ってる」

「ここへ帰るつもりかね?」

「帰る、っていうのかな。とりあえず訪ねてみるよ。わたしがどんな奴なのか知りたいから」

「欠落した記憶を埋めることが出来れば、胸のつかえもいくらか取れるだろう」

「つっかえる胸くらいあるわい!!」

 突然叫び声を上げたわたしの様子に、マスターが不可解そうに眉をひそめる。

「何を怒っているんだ?」

「なんにも怒ってませんし! お腹空いてカリカリしてるだけですし!」

 自分の胸のことを思い出してうっかり叫んだなんて言えない。


「腹が減ってるなら何か作るが」

 マスターがカウンターへ尋ねる。

「何が出来るの?」

「専門店から仕入れた本場スペインのチョリソーを炒めたもの」

「他は?」

「専門店から仕入れた本場メキシコのチョリソーを炒めたもの」

「それ何が違うの!?」

「メキシコ風は辛い。ビールベースのカクテルにはこっちが売れる」

「それをもらおうか。飲み物は任せる」

 注文したのはシカバネ博士だ。

「結局昼間っから飲むんじゃんか。おつまみだけじゃお腹膨れないよ」

「パンを焼いてやる。チョリソーを焼いた後のフライパンにバターを注ぎ足して薄切りにしたフランスパンを焼くとな、美味いぞ」

 空きっ腹が子犬の鳴き声みたいに情けなく唸った。

「チーズも足して。飲み物はノンアルのソフトドリンクでね」

 はいよ、と応えてマスターはこちらに背を向けて調理場に向かった。

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