ずっと一緒に。

おぎおぎそ

ずっと一緒に。

 君と付き合いだしてすぐの頃、君はこんなことを言った。

「一つだけルールを作ろうか」

「ルール?」

「そう。ルール」

 そう言うと、彼はいつになく真剣な表情をして。

「相手の嫌なところがあったらきちんと言うこと。隠さないで言葉にすること。行動を起こすこと」

「嫌なところ……?」

「うん。例えばデートがワンパターンでつまらないとか、もっと愛の言葉を囁いてほしいとかさ」

「そんなことも?」

「そんなことも。どんな小さいことでもいい。ちゃんと口に出してほしい」

 いい? とばかりに首を傾げる彼。

「別にいいけど……」

「よし。決まり。ルールだからちゃんと守ろうな」

 そう言って指切りをしたきり、結局そのルールが効果を発揮することはなかった。

 彼と過ごした時間は、それはそれは楽しいものだった。彼に対して不満を感じることなんて一度たりともなく、むしろ幸せを感じない瞬間の方が無いくらいだった。

 彼はいつだって私のことを第一に考えてくれた。浮気なんてもってのほか。私以外の女の子とは喋ることも無かったし、女子が参加する飲み会に行くときは事前に私に連絡までしてくれた。私がラインしたら必ず一分以内に返事をくれたし、毎月の記念日はきちんとお祝いしてくれた。

 だから。

 だから、彼がルールを行使した時、私はとても驚いた。



 その日、彼がやってきてから、私の部屋はどんどんと黒ずんでいくようだった。

「もう無理なんだよ。お前のそういうの」

「そういうのって……どういうこと……?」

「重いんだよ、お前」

 彼はそう言うと、苦虫を噛み潰したような表情で、咥えていた煙草に火をつける。

「しきりに俺の予定を気にするし、五分に一回はラインが来るし。大体、なんで一か月ごとに記念日が存在しているんだよ。おかしいだろ。そういうのって普通一年に一回なんじゃねえの?」

「でもそれは君との思い出を一つでも増やしたかったからで……」

「そういうのだよ、そういうの。そういうのがいちいち重いんだよ。君のためだの君といたいだのさ。結局それって依存してるだけじゃん。疲れるんだよ。肩が凝る」

 煙草を灰皿にゴリゴリと押し付ける。

「そんな……。そんな急に……酷いよ……」

「ルール。忘れたの? 嫌なことがあったらきちんと言うって」

 彼が溜息を吐きながら吐きだした言葉は、槍のように私の胸を衝いた。

 もうずいぶん昔のことだから、すっかり忘れていた。そういえば、そんな約束をしたかもしれない。あの時した指切りの温度が、じりじりと私を焦がしていく。

「わかった。わかったから。今までの私が嫌がられるようなことをしていたんだったら、改めるから。だから――」

「もういいって‼」

 彼は煙草を灰皿に叩きつけ、勢いよく立ち上がる。

「もういいから。そういうの」

 私を見下ろす彼の瞳には、もはやかつての愛情の色など見る影も無かった。

「ごめん。感情的になった」

 しばらくして彼が再び席に着くまで、私は一言も発することが出来なかった。セメントを流し込まれたかのように、少しの動作さえも身体がいうことを聞かなかった。

「別れよう」

 予期していた言葉が彼の口から絞り出されたのは、その後すぐのことだった。

「嫌だ」

「嫌だ、じゃなくて。俺はもうお前とはやっていけない。拒否権は無いんだよ」

 私はそんな彼の言葉に何一つ言い返すことが出来ない。淀んだ感情が心中に渦巻いて、出てくる言葉なんて結局「嫌だ」なんていう子供の駄々のようなものだ。

「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」

 低く、呻くように言葉が漏れ出ていく。

 そんな私を見た彼の瞳には若干の恐怖が浮かんでいた。

 ……やめて。私をそんな目で見ないで……。

「じゃあな。今まで世話になった」

 そう言うと彼は立ち上がる。私を捨ててどこかへ言ってしまおうとする。

「これ、合鍵。もう使わないから」

 テーブルの上にカチャリと乾いた音を響かせ、彼はキッチンの脇を抜け、玄関の方へ歩きだす。

「……待って」

 声が洩れる。私はゆらゆらと立ち上がる。

 彼が止まる気配はない。相変わらずこちらに背を向けたままだ。

 私はゆっくりと彼の方に進む。目に映るのは、彼の背中、二人で過ごした部屋。そして、シンクにたまる洗い物。

 鈍色を掴む。

 彼の背中に向き直る。何万回も腕を回した背中だ。

「待って」

 今度は先ほどよりもはっきりと声が出た。彼も一瞬動きを止める。


 刹那、鮮血が視界を支配した。

 彼の背中には鈍色の光が深く突き刺さっている。刃に残る食器用洗剤の泡がじわりじわりと桃色に色づいていった。

「な……お、お前……なん……で……」

 目を見開きながら、か細い声で彼は尋ねた。そのすきに、彼は力なくへたり込んでしまう。

 彼の問いに、私はこう答えるしかない。

「なんでって……嫌だったから。君と離れるのが嫌だったから」


「だったらこうするしかないでしょ? これで君もわかったかな? 君は私から離れられない運命なの。拒否権は無いよ」


 彼の絶望に満ちた表情の理由が、私には理解できない。どうしてそんな顔するの? これからずっと一緒にいられるのに。

「助け……て…………」

 目の覚めるような赤と生々しい臭いは、もう既に部屋全体を侵略していた。

「嫌なことがあったらきちんと言うこと。隠さないで言葉にすること。そして……」

 私の口から、ふっと笑みがこぼれる。

「行動を起こすこと。ルール。忘れたの?」

 物分かりの悪い子供を諭すように。

 私は血に濡れた彼の髪を一度、撫でた。

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ずっと一緒に。 おぎおぎそ @ogi-ogiso

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