第2話 出逢い

 今朝方届いた速達は何を意味するのだろう。

 私は中身を見る事も無く、そのままふらふらと家を出た。

 後はあても無くさ迷うだけ……。いまさら何も出来はしない。

 結局、私は彼女から逃げてきただけなのだろう……。

 その声は空しく私の身体をよぎり、絶えず虚無を運んでくる。

 それは私の足を一時、はやらせ、そしてまた、その足を頑なに止めた。

「そもそも、間に合う筈も無い……。」

 彼女は虫の息なのだから、留守番電話からの父の声では生きているのがやっとの状態なのだから。

「今からでは死に目には会えはしないだろうから……。」

 私は急がした足を止めると空を忘ぜんと眺めて呟いた。

 後は時間のかかる電車の中で、物言わなくなった彼女の幻影に恐れおののくだけだろう。

 ゆっくりと歩こう。

 この感情がゆっくりと薄れていくその時まで。

 私は足が向くまま訪れた公園のベンチに腰を下ろした。

 もう今は何時なのだろう。

 空を見ると若葉の隙間から幾本もの柔らかな陽射しが真上から優しく包み込むように陽だまりを作っていた。

 辺りには子供連れの親が幾人も笑顔を振り撒きながら歩いているのが見える。

 そこで、お母さんが手を振っている。

 あれは、お父さんが良くしてくれた高い高い。

 そこで、躓いて泣いている子供。

 その子を、あやす母親。

「ああ、世界は変らない。命が消えてしまう事など誰一人、知らないみたいだ。まるで永遠がそこにあるかのように……。」

 普段の私ならこんな世界を見て微笑ましくも思っただろう。

 明るく無邪気に笑うことも出来ただろう。

 だが、この安らいだ世界の影で私の義母は死の縁にいる。

「この現実を冷静に思える私の心は凍ったのだろうか……。既に死んだのだろうか……。」

 少なくとも私が人でなしである事は確かの筈だ。

 そう引きつった笑顔が少し狂喜じみて、少しだけ自分が恐い。

「今、目の前に鏡があればお前は目を逸らすだろう。鏡を嫌うお前は醜い化け物だ。世界を有りの侭に裁く鏡の前では化けの皮が剥がれて見えるのだ。そんな恐ろしいモノがお前の中に巣くっている。それは知らず知らず心の中におのれが育てた化け物さ。けれど恐れてはいけないよ。いうなればお前自身から生まれた精神の子供だからね」

 そんな妄想を漠然と唇から唄うように汲み出すと余計に空しさが私のまわりを囲んでいった。

 もう行こうか……。

私は片道切符をポケットからだすと暫らくの間、見つめていた。

 それは一週間前の日付が刻印してあった。

 俯いた目の前を先程とは違う家族の影が揺らめくように通り過ぎていく。彼らは本当に永遠を信じているのだろう。

 そうでなければあのような笑顔を見ることは出来ない。

 幾人かの影が通り過ぎると目の前で動かない長い影があるのを私は見つけた。

 俯いた顔を急に上げると、少し酔ったように頭がぐらつく、私の目の前には一角の老紳士が長い影を足元に寄せていた。

 老紳士と言い表したのは私の錯覚ではない。

 アンチーク調の古びた洋服と帽子。

 それらを優雅に着こなしている。

 そのようなものは映画でしか見た事もない。

 けれど古めかしい服装にもかかわらず老紳士は妙に似合っている。似合い過ぎて、何代か近い時に、異人の血でも入っているのかと思えるほど顔の彫が深い。その優しげな瞳は一心に私を見つめている。白く豊かな口髭は大正時代の華族のようだ。

 彼は私に近づいてくると妙な事を話し出した。

「お嬢さん。貴方には行かなくてはならないところがあるのでしょう?」

 私は、目の前まで進み出た彼の優しい瞳を下から空を仰ぐように見つめると斜めに首を微かに振った。

 すると老紳士は少しだけ哀れんだ瞳を私に向けながら

「では、私を駅まで連れて行ってほしいのです。暫らくこの辺りに来てはいなかったので古い時代しか知りません。」

 そこまでいうと、ふと老紳士は昔を懐かしんだのか目を細めるように瞑って「このように時の流れた街は良くわからないのです。」と、祈るように呟いた。

 私は、また俯くと指だけ動かすして駅の方角を指した。

 すると老紳士は一層悲しそうな瞳をして

「良いのですか? これは最期の機会です。これを逃したら、貴方は死ぬまで後悔します。それでも良いのですか?汽車が出てしまったらもう手後れですよ……。」

 私は、老紳士の妙な言葉に眉をひそめると顔を上げた。

 だが、先程の老紳士の優しい瞳はなく、赤い斜めの空が浮かんでいるだけだった。

 私は立ち上がると左右を見渡して、老紳士を探した。

 なぜそんな風に思えたのかは良く分からない。

 でも私は不思議と冷静だった。

 もしかしたら、彼はまぼろしかもしれない……。

 そのように頭の片隅では論理的に物事を考えていたからだった。

 けれど私の思考は直感がすべてを決定したように占めていたのも事実だった。

 彼という存在が私の気持ちを動かしたのだ。

 気付くと私は走り出していた。




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