海に行きたい

 まだほんのりと温かいパンを食む。午前の授業が終わり、昼休みを迎えた校舎には、足取りの軽い生徒たちのさわぐ声が響いている。

ベティはそんな喧騒から少し距離をおき、中庭をぐるっと囲む廊下で昼食をとっていた。そのすぐ隣には、親友のスリジエが綺麗に足を揃えて座っている。二人で広いベンチに売店で買ったパンの袋やら教材やらをひろげ、さざなみのような昼休みをすごしていた。

「ねえ、この絵って何で描いてあるの?」

サンドイッチを食べ終え、先に口を開いたのはスリジエだった。ベティたちが座っている向かいの壁には、視界いっぱいに広がる大きな絵が飾られていた。パンの粉のついた唇をなめ、ベティは絵に目をやる。

「…えのぐ?」

「いや、それはわかるけれど」

「詳しく言うなら、油絵の具かな」

ちょっと得意げに言ったものの、正直言ってそれ以上のことはわからなかった。更なる問いがくるのでは、とベティは身構えたが、スリジエの様子を見るかぎりどうやら杞憂だったらしい。

 描かれているのは海岸だ。朝日に照らされた輝く海と、その波の間をゆく帆船が奥に描かれている。大きなサイズのキャンバスを広く使って描かれた絵は雄大で、ベティはその雄大さになぜか、わずかな郷愁を覚えていた。

 ただ、管理状態が悪いせいなのか色がくすんでいるように見える。その色が作者の意図ならいいのだが、錆びた額や隅のひびわれを見る限り、そういう訳でもないようだ。

「私の故郷であんまり絵を見る機会ってなかったの。油彩なんて、こっちに来てから初めて見たわ」

「このへんはほとんど油絵な気がするなあ、あたしが詳しくないからそう見えるのかもしんねーけど」

「あと、海を見たのもこっちにきてから」

「スーちゃん、海行ったことあるの?あたしもまだ行ってないのに」

「あぁ、いえ、そうじゃなくて。絵で見ただけよ。実際に行ったことはないわ」

スリジエは手元を見ながら訂正した。先程までサンドイッチが入っていた紙袋が膝の上で丁寧に折り畳まれている。折ったところを開いたかと思うと、こんどは違う形に折って元にもどす。

「折り紙」と呼ばれるそれを、ベティはスリジエに教えてもらうまで知らなかった。何度か試したことはあるが、そのどれもがスリジエの折る繊細なそれには届かなかった。本人いわく"癖"らしく、彼女は適当な紙が手元にあるとすぐに折り始める。何を作るわけでもないのに手が動いてしまうのだ、と苦笑した彼女を思い出す。

茶色い紙の上を滑る細い指は、日々の掃除で荒れているのか、薄皮がめくれてしまっていた。

「…知ってる?こういう絵って、絵の具に魔物の鱗とかが使われてて、魔法しかければ反応するらしいぞ」

 てきぱきと動く彼女の指を見ていてふと思い出した。ここの先生から聞いた話だ。魔物からとれる素材は武器だけでなく、様々なものに活用されているとか。真偽を確かめるにはちょうどいいな…と思った頃にはもう、ベティは立ち上がり、右手は魔法を使うためのバングルへと伸びていた。

「いいの?学校の絵なのに」

「昼休みなのにこのへん全然人通らないだろ?もっと人に見てもらえるように、あたしが素敵にしてやろうと思って」

最初こそ怪訝そうな顔をしていたスリジエだったが、ベティが鼻をならしてそう言うと、「素敵な言い訳ね」と薄い唇をゆるめて笑い、それ以上止めようとはしなかった。

 わざとらしく咳払いをして大きな絵の前に躍り出る。ベティは絵の前にバングルをつけた手を前につきだし、緩急をつけて円を描いた。魔法を使うための予備動作だ。バングルに飾りつけられた小さな青い石が灯火のようにゆらゆらと輝き出すと、ベティの手首にじんわりとした温もりが広がり出す。

「うわぁ…」

 思わず声が漏れる。くすんだ色をしていた波が、まるで本物の朝日に照らされているかのように輝きだしたのだ。

最初は悪い冗談のつもりだったのに、想像以上の出来になったその絵にベティは目を奪われた。

「髪、ほどけかけてる」

するり、とスリジエの指の感触を感じて我にかえる。ベティの髪留めは特殊なもので、魔法の効果を高める代わりに、魔法を使うと変質し、どうしても緩んでしまうのだ。スリジエから髪留めを受け取り、もう一度高く結び直す。

「…もしかしてあたし、ほんとに素敵にしちゃった?」

「もしかしたら、こうすることを前提に描かれた絵だったりしてね」

そうかもしれない。朝日に照らされている海は、うねるように輝き、本当に波打っているように見えた。偶然そうなったとは到底思えなかった。これが作者の意図した姿だったのだ、とベティはバングルに手を添え息を飲んだ。と同時に、古代の謎を解き明かした考古学者のような気分になり、自然と口角が上がってゆく。

「海ね…いつか行ってみたいわ」

中庭の方から差す昼時の暖かな光が絵の具の海に反射して、スリジエの頬をゆらゆらと照らした。まるで海の側にいるかのようだった。そんな彼女にどこか既視感を覚えて。


『――父さんの生まれたところってどんなところ?』

『海のそばにある田舎町だよ。家を出てすぐ海が見えるんだ。』

『海?きれい?』

『特別綺麗な訳じゃないが…俺は好きだったな。リサ・・も気に入るかもしれない。』

『…行ってみたいなあ』

『いつか連れていってあげるよ。』

『やくそく?ゆび切りしてくれる?』

『ああ、約束だ。ほら――――』


 胸の奥に細い針が刺さるような、そんな痛み。思わず、上がっていた口角が小さくひきつる。心の奥に、思い出さないようしまっておいた記憶が、波にさらわれてあらわになる。父親と交わした小指の感触を思い出したところで、ベティは小さく息を吸った。

「一緒に行こう。きっとこの絵よりずっと綺麗だろうからさ!」

広い廊下にベティの声がこだまする。剥がれそうになった笑顔を咄嗟に張り付ける。吸った分よりずっと多く吐きだした胸は苦しかった。

「ベティ。」

もう一度息を吸おうとして、名前を呼ばれた。

「いつか、行こうね」

 その声は陽の光のように温かく、心地よくて。なぜだろう、なんでもない、いつも通りの声色なのに。こわばるベティの手をスリジエの手が優しく包み込んでくれていた。薄皮のめくれたその指の感触を忘れないように、ベティはその手を強く握り返した。

 遠くから聞こえる生徒たちの騒ぐ声が小さくなってゆく。もうすぐ、昼休みが終わる。

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