第四章

4-1 二人は動き始める

 上下左右の感覚が消えた。宙に浮いているようで、実はしっかり立っているような気もした。耳から入っていく音も何一つなく、視界はただただ白一色。感じられているのは繋がっている手から伝わる感触だけだった。


 どれだけ時間がたったのだろうか。数か月も経っているようで、数秒しか経っていないかもしれない。徐々に体が重みを取り戻し始めた。視界も白一色の世界に色が塗りたくられていく。五感が機能を取り戻し、世界を移動したことを認識した。


「あっ!!マーちゃん!!」


 高く可愛らしい声が部屋を反響した。マーチはその声を聞き、上手く魔法世界に戻って来たことを確信する。


「ただいま、ルル」

「おかえりー!!おっ?その下の人はもしかして芯クン……、じゃなさそう」


 ナトリアル・ルルは急に現れたマーチに驚きつつも、すぐに笑顔になって飛びついた。短い髪と丸い目が、まるで小動物かのような可愛らしさを醸し出していた。そして、彼女の目線はマーチの下で横たわっていた男性に移り、首を傾げる。


「早く……どけ」


 マーチの下では成谷がうつ伏せの状態で倒れていた。そこにルルの体重までもが加わり、成谷は絞り出すようなうめき声をあげる。


「あ、ごめんごめん」


 マーチはその声でやっと成谷が下に居ることに気が付き、慌てて立ち上がった。やっと不必要な重みから解放された成谷も、遅れて立ち上がる。


「んー。やっぱり芯クンじゃない!誰!?」


 ルルは改めて成谷を足元からマジマジと確認した。彼女もまたメイングオラを知っていたが、成谷の姿は知らない。目の前に立つ男がまさかベルヘイヤの元当主だなんて考えは頭の中になかった。


「彼は成谷。ちょっと用事があって連れてくることになったの」

「成谷クンね!よろしくよろしく!でも、なんで芯クンは来なかったの?」


 ルルは純粋な疑問をマーチに投げた。芯を連れてくる予定だったのだから、それは当然だった。そう聞かれるのは分かってはいたものの、ついマーチの顔は強張ってしまう。


「芯は、その……」


 言葉が出てこなかった。どう伝えて良いものか、伝えるべきなのか、マーチは判断がつかなかった。


「体調が悪くてな。後で連れてくることになった」


 俯いてしまったマーチの横で成谷が適当に答えた。


「そうなんだ!そっかそっか!後で来るんだねえ!楽しみだねえ!」


 彼の言葉に何一つ疑念を抱かず、ルルは楽しそうな笑顔を彼に向けた。多少の罪悪感はあったものの、伝える必要は無いと成谷は判断した。それに従うようにマーチも話を合わせることにした。


「そう、そういうことなの。それで、ここはルルの部屋ね」


 マーチが辺りを見回すと、小さなベットと机、棚が並び、そこには本棚や可愛らしい人形が置かれていた。彼女の言った通り、ここはライントラフ城の中でルルに与えられている部屋だった。


「そうだよ、あっ!ミサンガ切れてる!」


 ルルは自分の左手を見た。マーチが返ってくる前までは綺麗に繋がれていたはずのミサンガが、今は切れてしまっていた。


「役目を終えたからね。上手くいって良かったわ」


 マーチもまた自分の左手を見た。そこにはルルが嵌めていた物と同様に切れたミサンガがあった。


「それじゃあ、とりあえず私と成谷は自分の部屋に行くから」

「分かった!皆にもマーちゃんが帰ってきたこと伝えておくね!」


 感情を全身で表しているかのように、ルルは小さく跳ねながら笑顔で手を振った。マーチもまた笑顔でそれに答え、彼女らは部屋を出た。


 ルルの部屋はライントラフ城の七階で、マーチの部屋は十二階にあった。廊下を歩き階段を徒歩で五階分上がっていく。この世界にエレベーターというものは存在していない。必要であれば移動は魔法で補う事が普通だった。しかし、急ぎでもない時はその魔法すら使う事はない。


 数人の兵士とすれ違った。誰もがマーチの帰還に歓喜し、成谷の存在を訝しんだ。適当にそれらをあしらい、マーチが自分の部屋のドアを開ける直前で、低く良く通る声が彼女を呼んだ。


「マーチ様、おかえりなさいませ」

「クニック!ただいま」


 マーチが目を向けた廊下の先にはヒロー・クニックが相変わらずの姿勢の正しさで立っていた。オールバックの白髪が綺麗に整えられ、七十代という年齢を忘れてしまいそうになるほどに強く存在感のある佇まいだった。


「そちらの方は?」


 クニックはすれ違った兵士と同じように、成谷へと目を向ける。


「成谷よ。色々と事情があって連れてくることになったの」

「そうでしたか」


 マーチの言葉に、クニックはそれ以上追及することはなかった。しかし、老齢の勘によるものか成谷へむける目つきは鋭く、信用はしていないことがありありと分かった。


「私たちは少し話すことがあるから。また後でね」

「かしこまりました」


 礼儀正しく腰を折るクニックを横目に、マーチと成谷は部屋の中へと入った。


 さほど大きくも無い部屋だった。両側には天井付近までの高さを持つ本棚が並び、そこには当然ぎっしりと様々な本がしまわれている。正面奥の窓際には一つの机が備え付けられ、マーチはそこに腰を下ろした。


「それ、使っていいわよ」


 マーチが指さす先には木製の椅子があった。壁際に置かれていたその椅子は来客用兼、高い位置にある本を取るために使われていた。マーチに従い、成谷も腰を下ろす。


「ここで異世界移動の研究をしたわけか。どのくらいかかったんだ?」

「二年よ」

「たった二年!?魔導級士フィルナンシだってことは知ってたが、それにしてもすげえな」

「芯とあなたが偶然来た時の手がかりがあったからね。まあ、それを拠り所にしたおかげで、私も二年前のあなたの世界に辿り着いちゃったわけだけど」


 成谷は信じられないというように目を見開き、マーチを見つめた。


「じゃあ、なんだ。マーチは俺の五年も先輩な訳か」

「三年はこっちで同じ時間経過を過ごしてたんだから、先輩だとしても二年でしょ」


 マーチは机のわきに置いていた杖を一振りした。すると、どこからともなくティーカップが二つ現れ、マーチと成谷の手元に収まった。小さな湯気が立ち上り、紅茶の香りが部屋を満たし始める。


 マーチと成谷はその匂いに誘われるように、カップに口を付けた。ごくりと二人の喉が鳴り、沈黙が生まれた。それが合図となったのか、二人の雑談は終わりを告げ、口は引き締まり、真剣な眼差しをお互いに交わした。



「それで、これからどう動く?」

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