2-7 side 倉図芯 疑問

 ここ数日の間、帰りのSHRが終わると芯は真っ先に教室を出る。休憩時間も同様だった。黒崎に声を掛けられる前に姿を消す事で、なんとか絡まれることが無いようにしていた。


「はい。じゃあ、さようなら。気を付けて帰れよ」


 担任が帰りの号令をかけると、芯はすぐに教室を出る。階段を降り、下駄箱に着くと上履きから外履きへと履き替えた。進む歩みの速度は次第と上がっていった。校門が視界に映り込み、その角にはきっと成谷が待ってくれているだろうと予測できた。


しかし、それを遮るように彼の行く手を阻む男がいた。


「最近なんか付き合い悪いんじゃねえの?」


 黒崎は両手をポケットに突っ込んだまま、威圧的な態度を取る。浜井もその隣でにやにやと口角を上げていた。


「ちょっとこいよ」


 芯の右腕は黒崎に掴まれる。その力はそう簡単に振りほどけるほど優しくはなく、なにより実際の腕に込められた力以上に、芯の精神は掴まれていた。あっという間に恐怖心が彼を支配し、踏み止まろうとする足の力は抜けていく。


 引きずられるようにして芯はひと気の無い場所へと連れていかれる。その自転車置き場奥の廃材置き場は、今までも何度か来たことのある場所だった。もちろん、芯一人でではなく、黒崎たちと一緒ではあったが。


「さてと。お前さ、最近いっつも直ぐいなくなるよな。ちょっと話しでもしたいと思ってよ」


 黒崎は放り投げるように芯の右腕を離した。芯は足がもつれ、危うく尻餅をつきそうになったが、咄嗟に右足を大きく後ろに伸ばし、なんとか踏ん張ることが出来た。


「それでよ、なんで俺らのこと避けてんだよ」


 黒崎は芯を睨み付ける。芯は一瞬だけ合った目をすぐにそらしてしまう。目線は落ち、言葉は出てこない。こういう事をするからだろう。怒りの感情は彼の中で反響するだけで、外への出口は開けられないままだった。


「毎回黙ったままだよなあ」


 浜井は黒崎の横で口角を上げながら見下す。


「本当に」


 黒崎は腕を伸ばし、芯の襟首をつかんだ。彼が腕に力を込めると、芯の体にかかる重力は少しだけ軽くなる。浮かび上がらないまでも、踵は地面から離れた。


「なんとか言ったらどうなんだよ。なあ!」


 景色が揺れ、芯の背中はコンクリートの壁に叩きつけられる。肺の動きが一瞬止まり、胸を襲う痛みが空気の供給を停止させる。


 掴まれた襟首は未だ力がこもっており、芯の首をギリギリと締め上げる。


「別に、お前の話を聞きたかったわけじゃねえんだよな。でも俺らに話さないって啖呵切ったわりに、避けてるよな。こそこそしやがってよ」


 芯には抵抗する力も意思も無く、黒崎が何を言おうがいつも通りにただただ時間が過ぎるのを待つことしかしなかった。ただこの瞬間の苦痛に耐えることにだけに集中していた。


「ちっ」


 目線すら合わせない芯に、黒崎は憤りを隠しもせず右腕を振り上げる。思わず芯は目をつぶり、視界の情報を遮断した。直後には予想通り、左頬に大きな衝撃と痛みが走る。芯はたたらを踏み、尻餅を付いた。


 芯の視界の端から急に人影が現れた。その人はあっという間に黒崎に近づき、握りしめた拳を振り切った。黒崎はなんとかボディバランスを保ち、地面に手を付くことは無かったが、二、三歩後ずさりする。


「クズ相手にヒーローでも気取ってんのか成谷ぁ!」


 黒崎は成谷との距離を一歩で縮め、左足を大きく踏み出す。腰をひねり右腕を大きく振り回した。しかし、成谷はその動きをしっかりと目でとらえ軌道を予測する。少しだけ上体を後ろに逸らし、攻撃を回避した。引き伸ばしたゴムの様に、体を前方へとはじけさせると同時に、左腕を下から黒崎の顎に向けて振り上げる。


 空振りに終わった黒崎自身の右腕が死角となり、彼はどの軌道から成谷の拳が迫ってくるのかを認識できない。咄嗟の判断で空を切った右こぶしを成谷の顔面に向けて逆走させた。


 二つの腕が交差した。鈍い音が辺りに響く。それぞれの攻撃は思惑通りに相手の顔面を捉えた。景色が揺れ、焦点が定まらない。痛みは鋭く脳の全体を支配していく。それでも、視界の中から相手の姿は外さない。


 先手必勝。黒崎と成谷は全く同じことを考えていた。視界が定まらない中で、相手の方向に大きく踏み出す。腰をねじり、足の親指に力を入れた。お互いが引いた腕を振り下ろそうとした瞬間に、大きな怒声が響いた。


「何をやってる!!」


 響いた声は黒崎と成谷の耳に届いた。その声に反応するかのように二人の動きはピタリと止まる。拳を振り上げた状態のままで、首だけを声の主へと向けた。


虎高とらだかかよ」

「先生を付けろ、黒崎」


 仁王立ちの状態で虎高は腰に手を当てていた。身長は高く、ガタイも良いことから生徒からは怖い先生だという認識がある。虎高から注意を受ければ素直に従う生徒が大半だった。


「それで何をしているんだ?」


 しかし、黒崎はその大半の生徒には当てはまらず、しっかりと虎高の目を見据える。


「ただの喧嘩だよ。虎高もしたことあるだろ?」

「その経験から言っているんだ。喧嘩は止めろ。とういうより……」


 虎高は黒崎から目線を外した。後ろに緊張して強張っている浜井を一瞥した後、尻餅を付いている芯を目でとらえる。


「本当にただの喧嘩か?」


 彼は再び黒崎を見た。鋭く力強い眼を向ける。


「そうだよ」


 発言は撤回せず、黒崎はもう一度言い切った。


「どうなんだ、倉図」


 急に質問が自分に飛び、芯は驚いた顔を虎高に向ける。虎高は真っ直ぐに芯の目を見ていた。虎高だけではない、黒崎も浜井も成谷も、芯が口を開くのに注目していた。この場の決定権が今、自分にあるのだと彼は実感する。


(ここで自分が一言、苛められていると言えば、虎高先生は問題に上げてくれる。先生自体が目撃者で、自分が証言したなら言い訳のしようがない。一言だけ、言えばいいんだ)


 上唇と下唇は強固に接着していた。それでも芯は歯を食いしばり、なんとかこじ開ける。


「あの……」


 震える喉に痛みを覚えてしまう。自分の意思を声に出す事は、こんなにも辛いものだと芯は感じる。


「虎高先生」


 芯が口を開いた瞬間、虎高の後ろから声が響いた。芯に注目していた誰もが、首を曲げ声の主に顔を向ける。


「喧嘩に決まっているじゃないですか。そこの成谷は芯の友達で、ちょっと俺たちともめちゃっただけです」


 整った顔立ちに少しの笑みを浮かべた砂田がそこにはいた。細身の体形を綺麗に直立させ、目の前の虎高と相対していた。


「そうだろう、倉図?」


 砂田は鋭い目を芯に移す。その目に見据えられ、芯は言おうとした声を抑え込んだ。彼の思惑を理解してしまったからだった。


(ここで、苛められていたと言えばどうなるだろうか。黒崎は虎高先生に怒られるだろう。そしたら、成谷は?僕がいくらかばったとしても、他校の生徒が暴力沙汰を起こした事実は消えない。彼もまた自分の高校で問題として挙げられる可能性がある。それを防ぐには、成谷を僕の問題に巻き込まないためには)


「ただの……喧嘩です」


 芯はうつむき、小さな声を出した。視界の端で砂田が微かな笑みを浮かべたのが見えた。虎高は不可解な表情をしながらも、しかし、それ以上に追及しなかった。


「……そうか。あまり問題起こすなよ。君も他校の生徒だろう?おとなしく帰りなさい」


 そういうと、虎高は踵を返し歩いて行った。


「ちっ、なんか冷めたな。帰ろうぜ」


 黒崎は芯と成谷に目もくれず、その場から姿を消した。それに続いて砂田と浜井もまた帰っていった。


「大丈夫か」


 成谷は芯に手を差し出した。彼の手をとり、芯は立ち上がる。


「ごめん」

「なんで謝るんだよ。気使ってくれたんだろ」


 芯がただの喧嘩だと言い張った意味を成谷は察していた。砂田が去っていた後を目で追うが、すでに彼の姿はどこにも見えず、まるで最初から誰もいなかったかのような静かな音が流れていた。


「神社いくか」


 成谷は先に立って歩きだす。芯もまたそれに続いた。前を行く彼の背中を眺め、ふと思ってしまう。


(どうして成谷は来てくれたのだろう。きっと待ってくれていた校門から、黒崎が連れていく所を見たのだろう。でも疑問に思うのはそういうことじゃない。どうして毎日のように待ってくれているのか。まだ知り合って間もないじゃないか)


 答えの見つからない問いは芯の頭の中でいつまでも回り続ける。考えれば考えるほど疑問の種は全て不安に変わっていく。それを止めるすべを、方法を、彼は持っていなかった。


「どうした?」


 いつまでも横に並んでこない芯に疑問を持った成谷が振り返った。その顔には違和感などなく、ただただ純粋に不思議な表情を浮かべていた。それがなぜか芯に安心感を与えた。疑問が解けたわけではなかったが、それでも、彼の横に並ぶほどに速度を上げることができた。


「なんでもない」

「そうか?」


 二人の間には他愛も無い話声が飛び交う。近くの木で鳴いていた小さな鳥がまるで嫉妬しているかのように聞こえた。

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