2-3 side 倉図芯 本当のような嘘の話

「じゃあ、ショートホームルームを始めます」


 担任の樫月の言葉で教室内の口数は少なくなった。これでまた面倒くさい学校生活の一日が終わると皆の気持ちが浮足立っている空気が流れていた。


 芯は右肘を支点に掌で顎を支え、昨日の見渡の言葉を考えていた。


 喧嘩……なのだろうか。いや、僕が一方的にユメちゃんを突き放しただけだ。僕を信じてくれていた唯一の人を裏切った。そんなつもりではなくても、結果的にそうなってしまった。


 芯は公園でのユメの表情を思い出す。白峯神社で見せていた笑顔とは結び付かないような錆びついた表情だった。彼は胸の奥が締め上げられるような苦しみを容易に味わうことができた。


 周りの人たちが席を立つ音で芯は我に返った。いつの間にか教室の中から先生は消えており、放課後という生徒が自由になれる時間になっていた。


 芯もまた同様に席を立ち、教室を後にしようとする。すると、いつも通り黒崎が声をかけてきた。


「おーい、くず。ちょっとこっち来いよ」


 そう言われれば、芯はもう彼に従うしかなかった。


 黒崎が連れてきた先は学校のプールだった。どこからか鍵を入手したらしく、誰もいない静かな場所に芯と黒崎、浜井、砂田の四人だけが足を踏み入れた。


「何してんだよお。早く飛び込めって!」


 浜井が気色の悪い丸顔をゆがませながら声を上げる。黒崎もまた似たような笑みを浮かべながら横に立っていた。


 芯はじっとプールサイドから足元の水面を見つめていた。手にぐっと力を込めながら、その矛先を後ろの二人に向けられないことにフラストレーションが溜まる。


(なんだよ……。何が楽しいんだ)


「ほら、このくらい余裕だろ?水面に立てたりするんじゃねえの?国を救ったこともある人ならさ」


 芯の背中を軽く小突き、黒崎は行動をせかす。


 足元に視線を落としたままで芯はじっと動かないでいた。飛び込みたくない気持ちがありながら、逃げ出す勇気も今は持ち合わせていなかった。足がズボンの中で微かに震えているのを感じる。誰か助けてくれと周りに目を向ける。しかし、学校のプールから見える景色はコンクリートの塀と遠目に見えるグラウンドのみ。夏とは違う季節にプールに注意を向ける人は皆無だった。また、他の場所とは隔絶されているこの空間にいるのは彼ら四人のみで、それ以外が入ってくる気配も感じられなかった。


 視界に入ってくるのは静かな水面、日に照らされたプールサイド、そして影に隠れたベンチ。その上では砂田が寝転がりどこか遠くを見ていた。黒崎らについてプールに来たにも関わらず、芯を虐めることには関与しないかのように、一人静かに過ごしていた。


(なにしてんだろう)


 そんなただ純粋な疑問が芯の頭をめぐり始める。今までも砂田は遠目に見ているばかりだったような気がした。


 唐突に背中に衝撃が走る。自然と体は前へと倒れ、足を踏ん張る場所が消える。とっさに出せる足もないまま、景色が急に上昇していく。次の瞬間には、体が感じる温度が下がり、口の中には空気の代わりに水が入り込んできた。


「アハハハハハ!汚ねえなあ!!」


 芯が息を吸い込もうと水面から顔を出すと、黒崎と浜井は彼を指さしながら腹を抱えていた。芯はぐっと歯噛みをしたまま、動けずにいる。


「良いエンターテイメントだったわ。じゃあもうさっさと帰ろうぜ」


 ひとしきり笑い終えると、黒崎は背を翻し、出口へと向かう。それに続いて浜井もまた水の中で佇む芯に背を向けた。


「おーい砂田、帰るぞー」

「おう」


 黒崎と浜井は砂田が反応したのを確認すると先にドアの先へと姿を消した。


砂田はゆっくりと身を起こし、黒崎が先に出たドアへと向かい、その手前で立ち止まる。そこでやっと、プールの中で立つ芯へと目を向けた。


「お前、何してんの?」


 芯はつい顔を上げ、砂田と目を合わせた。ほんの少しの間が空いた後、砂田はドアを開けこの空間から外に出ていく。その背中を彼はただ茫然と見ていた。


 何をしているんだ、僕は。


 砂田が言った言葉は芯の中で主張した。それは、砂田がそんな言葉を放つ立場なのかという疑問すら隅に追いやってしまうほどに、強く反響していく。


 足を浮かし、空気を肺に入れると芯の体重は浮力に敗北する。太陽の光が彼の目を襲い、芯は静かに目をつぶった。瞼の裏は青白く光り、視界を封鎖しているだけで眼球は仕事をしているのだと彼は実感する。風は穏やかに水面を撫でるとともに、芯の温度を少しずつ取り除いていった。




 出来る限り服を絞るが、それでも気持ち悪さは取り除けなかった。芯は諦め、濡れたままで帰路に着く。靴の中でグシャグシャと小さな音が鳴っていた。通りを歩く人々の視線をいくつか感じたが、声をかけてくる人は居ない。すれ違って距離が出来ればそれまでだった。


 四車線の道路をひっきりなしに車が通過する。芯は歩きながら何を考えるでもなく、行き交う車を眺めていた。


 行きかう車の隙間、反対側の歩道が目に映る。そこを歩く一人の女性を芯は目にした。



 ……マーチ!?



遠くからでも分かる可愛らしい雰囲気を漂わせていた。歩を進めるたびに小さく揺れる肩くらいまでの黒髪。その色だけには違和感を覚えたが、女性の後ろ姿と、彼の記憶の中にある女性が重なった。


 芯の目は彼女にくぎ付けになる。見失わない様に、じっとみつめたまま道路の向こう側に渡ろうと歩き出す。夕方という頃合いのせいもあり何度も人にぶつかってしまったが、そんなことは気にしていられなかった。横断歩道を見つけ、信号が青になるや否や、彼は駆け出した。先ほどまで彼女がいたはずの場所に辿り着き、注意深く辺りを見回す。しかし、その姿は見つけられなかった。


 ……いや、ここに居るわけがないよな。


 芯は空を見上げ、マーチに思いを馳せる。彼女も向こうの世界で空を見ているだろうか。同じ空ではないけれど、上を見ているのだろうか。


 芯は大きく息を吸い込み、酸素を供給する。体のあらゆる部位がそうして力を取り入れる。彼は静かに、強く拳を握った。幻覚のようなマーチの姿に、必要な強さを鼓舞された。


 僕は何をしたいんだ。







 芯は白峯神社へと足を踏み入れた。少し前までは毎日来ていた場所。空いた期間は二週間程度だったが、彼にとってはかなり久しぶりに感じた。


 すると芯の耳に聞き覚えのある鳴き声が届く。いつのまにか足元にはモモがいた。前までと同じように、早く来いというような目を向け直ぐに背を向ける。それについて行く形で芯もまた歩を進める。


 神社の縁側には一人の女の子が静かに座っていた。彼女はうつらうつらとしており、首が揺れていた。その姿は自然に溶け込み、どこか触れるのを躊躇してしまうかのような雰囲気を纏っていた。木々のさえずりを彼女が操っているのかのように感じ、芯は息を飲む。


にゃー


 モモは自慢の脚力で縁側へと飛び乗り、ユメの隣で優しく鳴いた。彼女ははっと目を覚まし、手をモモへと伸ばす。手のひらに心地よさを感じたままで、目を上げた。


「遅いよ、芯お兄ちゃん」


 ユメは以前と何一つ変わらないにこやかな表情を向けた。


「……なんで、居るの?」


 芯は彼女の笑顔に縛られ、直立不動のままで質問をする。


「話を聞きにきたんだよ」

「あれは、嘘だって言っただろう」

「うん。聞いたよ」


 ユメは芯の傍まで歩き、手を取った。




「だから、嘘の話を聞きに来たの」




 芯の耳に届いたその言葉は彼の気分を暖色に染めた。風が緩やかに吹き、周りの木々が音を鳴らす。それは彼らの仲直りを祝福する音色のようにも聞こえた。


「なんで芯お兄ちゃん濡れてるの?」

「通り雨だよ」

「ふーん。まあ、いいや。早く続き続き!」


 楽しそうに会話を始める芯とユメの横で、モモは気持ちよさそうに目をつむっていた。

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