1-11 side ファルシルアン・マーチ 溶け込んでいく

 ごそごそとした、どこか遠慮がちな物音でマーチは目を開けた。体の節々に痛みが走る。どうやらテーブルに突っ伏して寝てしまっていたようだった。顔を上げ、辺りを見回してここが佐知の家だと理解するのに、多少の時間が彼女には必要だった。


「あ、起きた?」


 洗面所から出てきた佐知はスーツを着込み、後ろ髪を縛っていた。昨日見た彼女の緩やかな雰囲気とは違い、締まったハリのある様子を醸し出していた。


「おはようございます、佐知さん。その恰好、どうしたんですか?」

「今から仕事に行くのよ。まーちゃんはゆっくりしてていいわよ。朝ごはんしっかり食べてね」


 仕事と聞いてマーチが思い浮かべるのはどうしても敵対国との戦闘だった。しかし、この世界でそんなことは無いとすぐに思い直す。


「それじゃあ、行ってくるから。帰りは六時頃になると思う。外に行くときは鍵をかけていってね」

「は、はい。いってらっしゃい」


 佐知は手提げカバンを持ち、颯爽と玄関を出ていった。扉が締まる音とともに部屋の中に静寂が訪れる。壁掛け時計の鳴らす音が妙に大きく、一人取り残された気分をマーチは味わった。


 テーブルには佐知が用意してくれていた朝ごはんがあった。サンドイッチと簡単なサラダ。マーチはそれを手に取り口の中に放り込んだ。爽やかな朝の味が広がる。頭の中に残っていた昨日の酔いが嘘のように晴れ渡った。


「さて……と」


 食事を終えるとマーチは腰に手を当て、部屋を見回した。泊めてくれたお礼に掃除でもしようと考えたが、すでに部屋は片付いており、昨日飲んだ缶や食べ物もゴミにまとめられていた。


「本格的にやるしかないか」


 魔法世界において、掃除はやはり基本的に魔法が使われていた。自分の手を動かして逐一綺麗にしていくよりも遥かに時間がかからないためだった。佐知の部屋はさほど広くなく、十畳程度しかなかったが、それでも手でやると思った以上に時間がかかった。一通りの埃を取り、水拭きを終えて時計を見るとすでに十二時を回っていた。


「不便……」


 ソファーに体を預けながらマーチは体にかかる疲労を感じていた。天井を見上げ、これからのことを考える。


(シンはどこにいるのだろう。彼の世界移動の糸を辿ってきたわけだから、この近くにはいると思うのだけど。ひとまずは、散策かな)


 マーチは腰をあげ、外に出ることにした。佐知に言われた通りに玄関の鍵を閉め、青空の下へと体を出す。太陽は元気に煌々と輝いていた。夏前の気温は比較的過ごしやすく、頬を撫でる風が心地よかった。


 あてもなく辺りを散歩する。お昼すぎという時間帯のせいか、すれ違う人々は年配の方が比較的多かった。シンらしき人を見かけることなく時間は過ぎていったが、落胆することはなかった。


 マーチが開発した呪文、【シュワルニカ・ターニドリ】は、シンが魔法世界にやってきた際の糸を辿って移動する呪文だった。そのために、マーチが着地した場所はシンの居る近辺だという確信があった。


 まあ、時間の問題でしょう。そう短絡的に考えながら、マーチはシンの居る世界を見て回った。気候だけでなく、町の雰囲気も暖かく、誰もが幸せそうに見えた。穏やかに流れる川、風に揺れる葉、楽しそうな話し声、全てがマーチには新鮮に思えた。シンが私の世界に来た時は、どう思ったのだろう。今でこそ、戦いが少なくなったものの彼がやってきた当初は、ベルヘイラとの戦の最中だった。ここのような安穏な空気はなかった。


 マーチは立ち止まり改めて周りを見渡す。何度見ても、どれだけ見ても空気は変わらず、心地がよかった。彼女は少しだけこの世界に嫉妬し、憧れを抱き、目標にしようと心に決めた。


 夕方というにはまだ日は高かった。それでも時刻は五時を過ぎ、マーチは佐知の家へと戻ってきた。途中、スーパーで買ってきた食材を取り出しキッチンに立つ。


「さてと、作りますか」


 マーチに料理の経験は少なからずあった。しかし、それは当然魔法世界での話で、魔法を使わずに包丁を手に食材を一から調理するのは初めてだった。原理や理屈、調理法は頭に入っていてもそれを実践するとなると、そう上手くは行かない。


 包丁を持ち、ニンジンに向けて体重を乗せる。ダンッ、という大きな音とともにニンジンの片割れが吹っ飛んでいった。


「なんて、めんどうくさいの……」



 調理工程がほぼ終わり、後は煮込むだけとなった頃には彼女の指は所々切れてしまっていた。両手の絆創膏の数は五つに及ぶ。マーチはやっと一息つくことが出来た。


「しかしまあ、冷静に考えればこの材料費も佐知さん持ちなのよね。……あぁ、余計な事してるかなあ」


 マーチは頭を抱え、一人キッチンでうずくまる。感謝の意を示したいという思いと、その方法すらもその相手に頼ってしまっていることに自己嫌悪を覚えてしまう。


「あっ。というか、そもそも今日も私泊まって良いのかな?勝手に家に戻ってきてしまってるけど。いや、でも鍵を渡されていたし、今日はいいんじゃ……。うーん」


 そんな自己問答を繰り返している内に、部屋の中をいい匂いが満たし始めていた。まるでそれにつられたかのようにして、玄関のドアが開く。


「ただいまー。あれ、凄くいい匂い。カレー?」

「おかえりなさい。はい、あの折角なんで作ったんですけど……。余計なお世話だったらすみません」

「何言ってるのよ。帰宅して食事が出来ていることが余計なお世話な訳ないじゃない。ありがとう、まーちゃん」


 佐知は嬉しそうにしながら部屋着に着替えた。洗面所にいき、さっと化粧を落として戻ってくる。薄化粧のせいか、そこまで見た目に変化はなく、強いて言えば雰囲気に柔らかみが増した。


「さて、早速食べましょう、食べましょう」


 出来立てのカレーを二枚のお皿についでいく。部屋中に食欲をそそる匂いが充満していた。二人は昨日と同じように向かい合って座る。


「いただきます」


 佐知は丁寧に手を合わせた後、スプーンを手に取った。カレーを救い、口に入れようとするところで、ふと動きが止まる。視線は目の前のマーチへと注がれていた。


「どうしたの?」


 マーチは座ったままでスプーンにも手を付けていなかった。視線を手元に落としたままで、おずおずと声を出す。


「あの、私、当たり前のようにここに居るけど良いのかなって。このご飯だってお金は佐知さんのだし」


 佐知は身を乗り出し、スプーンをマーチの口に突っ込んだ。


「うぐっ」

「どう?美味しい?」

「お、おいしいです」

「どれどれ」


 佐知はもう一度スプーンでカレーを救い、今度こそ自分の口の中へと動かす。


「んんー!本当!おいしい!」


 マーチはポカンと口を開けたまま、頬を綻ばせる彼女を見た。


「今は美味しい食事の時間よ。余計な事を考えるのは後で良いでしょう?空腹はいつだって思考の邪魔よ」


 そう言うと、佐知はどんどん食べ進めていく。それにつられるようにして、マーチも目の前のカレーへと手を伸ばす。ほのかに利いた辛味と野菜の甘味が合わさり、自然と口角が上がった。


 先ほどの会話のせいか、それともただ単に空腹だったせいか、二人とも会話も少なく目の前のカレーをあっという間に平らげた。


「御馳走様でした」


 二人は大きく息を吐いた。膨れ上がったお腹によって、気分は落ち着き、頭の中が満足感で支配される。


「それで?ここに居ていいかどうかだったっけ?」

「……はい。正直に言ってもらっていいんです」

「居ていいわよ」


 佐知は躊躇うことなく即答した。思わずマーチは彼女の顔を見る。


「……本当に言っていますか。昨日会ったばかりなのに気を使わなくてもいいんです」

「まーちゃんこそ、気を使わなくてもいいのよ。この家には私一人しか住んでいないし、私が良いって言ったら良いのよ」


 佐知は笑った。その表情は非常に穏やかで、マーチは惹き込まれる。彼女の言葉は本心なのだと感じた。


「どうして、そこまでしてくれるんですか?」

「んー」


 言葉を選んでいるのか、佐知は天井を見上げ、少しの間沈黙していた。顔を前に戻すと、口を開く。


「なんとなくよ」


 理由になっていない理由。それでも、マーチは嬉しかった。嘘のない言葉だったから。『なんとなく』そんなアンバランスな感情で自分を受け入れてくれる佐知を、無理に理由をこじつけようとしない佐知を信じる事が出来た。


「ふふっ」


 マーチの顔につい笑みがこぼれてしまう。


「何か面白かった?」

「いいえ、嬉しかっただけです」

「そう。私も嬉しいわ」


 マーチは自分の幸運を噛み締める。何も知らない世界に身一つで飛び込んで、すぐにこんなにも優しい人に会えるなんて想像もしていなかった。それでも、その優しさに甘えてばかりではいけないことも分かっていた。


「佐知さん、私、働きます」


 芯を探すことが最優先事項であることは重々承知だった。しかし、だからと言ってその他を見なくていいことにはならない。胸を張って再会を果たすことが出来るように、出来るだけの事はしようと思った。


「そんな別にいいのに。気持ちは嬉しいわよ」

「いえ、自分に納得しません。このままでは」

「そうねえ……。でも住居も無い身でそうそう雇ってくれるところがあるかしら」

「うっ……」


 意気込んだはいいものの、佐知に正論を吐かれマーチは返答に詰まる。身元不明の女性を受け入れる所なんて簡単には見つからないことは容易に想像が出来た。両ひざを抱えるようにして落ち込むマーチを尻目に、佐知は手元を顎に当てて少し考えていた。


「あ、でもそういえば……」

「え、何か、何かありますか!?」


 縋るような目をマーチは彼女に向ける。


「いやね、私の友達がコンビニで働いているんだけど、結構偉いポジションらしいのね。だからもしかすると、働かせてもらえるかもしれない」

「本当ですか!ぜひ。ぜひなんとか!」

「分かった、分かった」


 佐知は携帯を取り出すと、何やら操作をし始めた。魔法世界での通信法は当然、魔法を使う物で、そのような機器を見た事はなかった。しかし話の流れと、この世界には魔法が無いことから、それを使って佐知は友達に連絡を入れてくれているのだろうと予想することができた。


「うん。明日とりあえず会ってくれるってさ」

「ありがとうございます!」


 佐知は隣に座っているにも関わらず、マーチは大きな声を出してしまった。それほどに、自分がこの世界に馴染めるように動けていることが嬉しかった。


「採用されるかはまだ分からないからなー。頑張って、まーちゃん」

「はい!」


 その日はすぐに寝付けなかった。やはり不安があるのか、それとも楽しみでもあるのか。その両方だとマーチは思った。芯のいる世界で生きていけるようになることを想像してワクワクしていた。しかしそれと同時に、上手くいく自信もそれほど無かった。


 明かりの消えた部屋のなかで、ぼんやりと見える薄暗い天井を見つめ続けていたが、気が付くとマーチは夢の中に入り込んでいった。




「んんー。じゃあ、採用で」


 加賀美恵かがのみえは特に迷う様子もなく、言い放った。


「そんな簡単でいいの?美恵」

「いいのいいの。私が採用を任されているんだから。それに人手不足だし。」


 マーチの横に座っていた佐知は少しだけ友達を心配する様子を見せた。しかし、その思いを知ってか知らずか彼女は一向に気に留める雰囲気はなく、マーチへと目を移す。


「お金、必要なんでしょう?」

「はい、ぜひお願いします」


 マーチは美恵の目をしっかりと見つめる。佐知の優しい目と似ているなと彼女は思った。類は友を呼ぶという事なのだろう。


「ジュース持ってきたよお」

「悪いな浜井」

「サンキュー。砂田よくブラックなんて飲めるな」

「甘いのは好きじゃない」


 喫茶店の中はBGMもなく周りの会話が良く聞こえてくる。マーチは隣の席で話す制服姿の三人へと視線が移った。特に声が大きい訳ではなかったが、距離が近いためか会話の内容が耳に届いてくる。


「しかし、今日のクズには笑ったな」

「そうだよねえ。妄想たくましすぎだよお」


 短髪で活発そうな男と、その隣に座るやや小太りな男が話していた。向かいにいる鋭い目の男は黙ったままで飲み物を口にする。


(嫌な感じ)


 誰かをあざ笑うかの様な声にマーチは耳を塞ぎたくなる。口は少し不機嫌そうに吊り上がってしまっていた。美恵はその様子をチラリと見て、残り少なくなったアイスカフェラテを一気に飲み干すと声をかけた。


「よしじゃあ早速、職場見学でもしますか」

「今から行くの?」

「佐知もまーちゃんも暇でしょ?私今からシフト入っているし、そのついでよ」


 喫茶店から出て十分も歩くと、青い背景に牛乳瓶がシンボルマークとなっている店が見えてきた。入店すると、レジの奥にいた店員が美恵に挨拶をする。店の中には数人のお客が雑誌を立ち読みしたり、商品を物色したりしていた。三人はそのまま裏側へと入っていく。


「ここがバックヤードね。とりあえず、座って」


 美恵はパイプ椅子を取り出し、佐知とマーチに勧める。


「まーちゃんの場合、働いてもらう時間帯は12時から17時。ここにサインしてくれる?」


 机の引き出しからA4サイズの書類を取り出し、マーチに渡した。


「なんか怖いくらいにトントン拍子に進んでいるわね……。美恵じゃなかったら絶対止めてたわ」

「佐知からの話じゃなかったら雇ってなかったわ」


 二人が仲良く話している横で、マーチはペンを動かし自分の名前を記入する。


 佐藤まあち


 奇妙な感覚だった。自分の正しい名前はファルシルアン・マーチであるにも関わらず、今書いている名前は適当に口走った、佐藤まあち。それでも、どこかこちらの世界に少しだけ溶け込めたような、そんな気持ちが浮くような嬉しさを彼女は感じていた。


「はい、おっけー。後は適当に書いておくわ。住所は佐知のところでしょ?」

「そうよ」


 美恵は書類を引き出しにしまい、ロッカーから制服を取り出すと着替え始める。


「さっきも言ったけど、私は今から仕事だから。まーちゃんはどうする?明日からでもいいし、なんなら今から十七時まで働いてもいいわよ」

「それなら、今からお願いします」


 即答だった。右も左も分からない状況を少しでも早く脱したかった。それに加えて、マーチは少しワクワクもしていた。彼女の性格ゆえか、不安や心配よりも興味や好奇心の方が勝っていた。


「いいやる気ね。よし、それじゃあ早速レジ打ちから始めましょう!」

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