1-10 side ファルシルアン・マーチ 乾杯

 二人して20分ほど歩いたころだろうか、佐知は閑静な住宅街の中にある、小さなアパートの前で足を止めた。そこにはエレベーターなどは付いておらず、買い物袋を落とさないように気をつけながら階段を上がっていった。


「ここよ、いらっしゃい」


 佐知は四階の一つの扉を鍵で開けた。十畳程度の綺麗に片づけられた部屋だった。入って右側の壁際にテレビがあり、その正面にテーブル、二人は座れるであろうソファー、左手前の隅には小さな本棚もあった。そして奥の窓際に付けるようにしてベッド、丁寧に掃除していることが分かる部屋だった。


「適当に座ってゆっくりしといてー」


 キッチンの方から佐知の声が響いた。マーチは素直にその言葉に従い、ソファーに腰を下ろす。その柔らかな感触に体重だけでなく、疲労までもが体を離れ沈み込んでいく錯覚を覚えた。


 ふと窓の外に視線を移した。日暮れに差し掛かっているのか、温かみを帯び始めた光が部屋に差し込んでいる。遠くの方で、何を言っているのか分からないほどテンションの高い子供たちの声が響いてくる。キッチンから漏れてくる、規則正しい包丁のリズムが、佐知の料理の腕前を想像させる。そんな平和な情景が、マーチの体に睡魔を襲わせていた。


 こんな、初対面の人の家で寝てしまうわけには。そう思いながら、何度も頭を振り意識をはっきりさせようと努めた。しかし、そんな努力も長くは続かず、いつの間にかマーチの瞼は閉じ、意識はソファーの奥深くへと潜っていってしまった。




 鼻孔をくすぐる心躍る匂いにマーチの脳が反応した。暗闇しかなかった視界をゆっくりと広げると、目の前のテーブルには料理が並べられていた。甘い匂いの魚の煮物、胃をくすぐる唐揚げに、瑞々しいシーザーサラダ。添え物に、きんぴらごぼうまでが小鉢で用意されていた。


「あ、起きた?ちょうど出来上がったところよ」


 佐知はお盆に二人分のご飯とみそ汁を載せてやってきた。


「す、すみません!つい、寝てしまいました」

「いいのよ、気にしなくて。ほら、食べましょう」


 彼女はマーチの向かいに座った。ソファーに座っていたマーチは床に腰を下ろし目線を同じ高さにする。


「本当に、ご馳走になっていいんですか?」

「この量のご飯を一人で食べろって言うの?」


佐知は悪戯にはにかむと、両手を合わせた。


「頂きます」


 お箸を手に取り、彼女は自分で作った煮物を口にする。


「んんっ!おいしい。天才ね、私は」


 美味しそうに食べる様子に、マーチの喉は音を鳴らした。


「……頂きます」


 佐知の真似をして、マーチも手を合わせた。お箸を手に取る。彼女の世界で主に使われている食器はスプーンとフォークだった。しかし、シンに習ってお箸の使い方もマスターしていたマーチは、器用に積みあがっている唐揚げの一つを掴んだ。


 そのまま自分の口の中に放り込む。揚げたての温度に頬が悲鳴を上げたが、それよりも、飛び出してくる肉汁や旨味の方が圧倒的に主張してくる。舌が感じる味覚に痺れ、口全体が震えた。


「おいっしい」

「でしょうー」


 空腹は最大の調味料とはよく言われるが、それだけでは無いことをマーチは当然わかっていた。次から次に伸ばす箸の勢いは止まらず、手に取ったどの料理に対しても、マーチの舌が歓声を上げた。ただただ本能の赴くままに、並べられた料理を無言で自分の口の中に入れていくと、あっという間にお皿の上には何も残らなくなった。


「ご馳走様でした」

「お粗末様でした」


 一息つく二人の表情は満足げで、自然と表情は柔らかくなっていた。


「佐知さん、凄いです。こんなに美味しい料理を作れるなんて」

「ふふ。ありがとう」

「私、料理なんて全然作れなくて」

「あら、それは勿体ない。料理はいいわよ。食べたいものを食べたいときに好みの味で食べられるんだから」


 まんざらでもない表情で佐知は言った。マーチはその様子を見ながら、元の世界のことを思い起こす。彼女の住むライントラフには給仕がいた。料理は不味いわけではなかったが、今食べた佐知の料理の方が美味しく感じた。


(特定の人に向ける手料理とはこんなものなのだろうか。シンにも食べさせてあげたいかも)


「さて、片づけますか」


 佐知は綺麗に空いた食器を重ねお盆へと移す。


「あ、私やります」

「いいのよ、気を使わなくて。ゆっくりしといて」

「そんなわけにはいかないです。佐知さんこそ気を使わないでください」


 マーチは奪うようにしてお盆をキッチンへと持って行った。佐知は少し微笑みながら、その後を追う。


「じゃあ、二人でやろっか。その方が速いしね」


 佐知は食器を洗剤で洗い、マーチはそれらの水気を拭くと、乾燥棚に並べていく。二人で分担すると、片づけはあっという間だった。


 時計の針が時間の進みを示す中、お腹が膨れた二人は並んでソファーに腰かけていた。それぞれの前には暖かいお茶があり、時おり口をつけて喉を潤し、穏やかな時間を共有していた。


「まあちちゃんは、どこからきたの?」


 何気ないそんな質問にマーチは一瞬驚いた。しかし、その質問が違う世界から来たことを指しているのではないことは直ぐに気が付いた。


「えっと、なんというか、遠くです」


 口ごもるマーチに、佐知は少しだけ視線を向けたが、すぐに前を向いた。


「そっか」


 そう言って、お茶を飲んだ。


「じゃあ、この町に来たのはどうして?」


 今度はマーチに視線を向けることもしなかった。質問をしているけど、答えなくても良いよ。言葉にはしなかったが、そんな様子はマーチにも伝わっていた。それを理解した上で、今度こそ彼女は答える。


「人を探しているんです」

「人?」

「大切な人なんです」

「そっかあ。それで遠くから来ちゃったわけか」


 佐知はそれ以上に追及しなかった。この内容はマーチにとって非常に繊細な事情なのだと容易に感じ取れていたから。


話す必要があるなら、話したいと思えば彼女の方から口を開くだろう。それまでは、ただただ普通の会話を。


「まあちちゃん、今日泊まっていく?」


 反射的にマーチは佐知の顔を見る。


「行くところないんでしょう?」


 にやりと意地悪そうな笑みを浮かべつつも、そこには楽しさの感情があふれ出していた。その様子に感化されたのか、マーチも警戒心など微塵も無い様子で、コクコクと首を縦にふる。


「お、お願いします!」

「よーし、お姉さんが世話をしてあげよう!」


 そう言うと、佐知はキッチンに走り出したかと思うと、すぐに戻ってきた。テーブルの上に持ってきた缶をドンと置く。


「お酒ですか?」

「そうとも!」


 佐知は缶ビールのプルタブを思いきり開けた。プシュという子気味の良い音が響く。

「ほらほら、まあちちゃんも。あ、未成年じゃないよね?」

「はい、22歳です」


 マーチもまた缶ビールを手に取る。


「それでは、まあちちゃんと私の出会いに」


 二人は一呼吸置き、タイミングを測ると缶をぶつけた。


「「乾杯」」


 どのくらい二人で飲み続けていただろうか。0時はゆうに越え、夜は深く深くへと沈んでいく。それに倣うようにして、彼女らの意識も次第に体から離れ、どこか遠くを漂っていった。その中でマーチは幸福感で一杯だった。佐知が呼んでくれた、まーちゃんというあだ名は一生忘れないだろうと思った。

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