1-9 side 倉図芯 嘘のような本当の話
「お兄ちゃん、何してるの?」
足元の方から可愛らしい丸い声が聞こえてくる。頭の中がぐるぐると渦巻いていたために、その足音にも気がつかず、声をかけられてやっと目をその子に向けた。小学校低学年くらいだろうか。丸い大きな目と同様に輪郭もまだふっくらとしている。髪は目に入らない様に綺麗に切りそろえられ、まるでお人形のような小さな女の子がそこには立っていた。その右手には紐が握られ、その先は猫の首輪に繋がっていた。
「昨日も一昨日もいたよね」
女の子はそう言いながら、芯の横に飛び乗って座る。繋がれている猫も同じようにして縁側に飛び乗った。彼女の足は地面に届かず、ぶらぶらと宙に浮いていた。芯はその様子を見ながら、一昨日のことを思い出していた。彼の体感ではその日は別の世界にいたが、今いる時間帯ではそれは無かったことになっている。つまり、魔法世界へと飛び立つ直前の日のことを指しているのだと思い当たった。
「きみ、名前は?」
「ユメ!この子はモモ!お兄ちゃんは?」
はっきりとした声が小さな喉から発せられた。耳に心地の良い元気な音が届くと、芯はユメにつられるようにして少しだけ元気を取り戻す。
「僕は芯。ユメちゃんは何してるの?」
上半身を起こし、両腕をやや後ろで突っ張り体を支える。顔をユメに向けて優しく尋ねた。
「お散歩してるの。芯お兄ちゃんは?」
「僕は……暇だったからさ」
芯は少しだけ言いよどみ、視線を落とした。
「そうなんだ。でも元気ないよ?暇だから?」
無垢な疑問は芯を襲い、体の重たさが心へとのしかかる。
「うん。まあ、そんなところ」
その重みに潰されない様に踏ん張りながら、声を漏らす。こんな子の前で崩れてしまうことは避けたいと切実に思った。すると、唐突にその少女は芯に質問を投げかけた。
「芯お兄ちゃんはさ、冒険したことある?」
あっけらかんとした、何の意図も見えないユメの表情とは裏腹に、その質問は芯の心を跳ね上げ、鼓動を強くさせる。
「この前ね、エルマーの冒険っていう本を読んだんだ。すっごく面白かった!」
「あ、ああ。そうなんだ」
芯は自分の経験を言われているのではないと気づき胸をなでおろした。
「だからね、そんな冒険してみたいなってユメは思うの」
ユメは自分の知らない世界への大きな期待に胸を膨らませる。想像するだけで景色が明るくなり、内側から滲み出る楽しさに顔がほころんでしまう。
「でもね、ママはそんなのは本の中だけだって言うの。現実を見なさいって」
ユメは足元へと視線を落とす。納得のいっていない様子で頬を膨らませた。
「でもでも、そんなことは無いと思うの。どこかの誰かはそんな事をしてると思うの。ユメとママが知らないだけだと思うの」
彼女は縁側から降り、芯を振り返る。そよぐ風がユメの髪を揺らし、一瞬だけ隠れていた耳が露わになった。その目は期待に満ち溢れていた。もしかすると。そんな思いがあふれ出し、景色を色濃くする。
「芯兄ちゃんは、冒険したことない?」
ユメは再び同じ質問をした。木漏れ日に照らされた小さな女の子は、知らない世界への期待や希望が具現化したような一種の眩しさを持ち合わせていた。芯はその様子に見とれ、答えに詰まる。周りの微かな音も消え、彼の返答だけをこの空間が待っているかのようだった。
「あるよ」
ほんの少し前に後悔したはずだった。向こうの世界の事は口に出さない方が良いと肝に銘じたはずだった。それなのに、言葉にした声はその意思に反したものだった。
「ほんとにっ!?」
ユメは驚いた表情で芯の元へ駆け寄った。
「どんな冒険をしたの?!」
頬は紅潮し、芯を見る目が期待に満ち溢れる。ほら見た事か。ママが知らないだけだったんだ。ユメは奥底から湧き上がる不思議な感覚を抑えられず、いつの間にか両の口角が上がってしまう。芯の手を強く握り、次にこぼれる言葉を今か今かと待ち望んでいた。
「少しの間、違う世界に行ってたんだ」
芯は話をする。目の前の純粋な女の子に、嘘のような本当の話を始めた。ユメは楽しそうに、食い入るように彼の言葉を待つ。話の一つ一つに気持ちを弾ませた。
「そういう感じで、なんとか倒せたわけだけど、大怪我しちゃったんだよ」
芯は隣に座るユメに話を聞かせる。彼が話始めてから二時間ほども経過していたが、ユメは飽きる様子もなく、ときおり口を挟みながらも先をせがんでいた。
「そんな動物一匹でも怪我するなんて怖いね」
「見た目は動物だけどね。ベルヘイラっていう国から遣われた魔物だから、強いんだよ」
「でも、芯お兄ちゃんは魔法使えなかったんだよね。怪我は大丈夫だったの?」
「いや、まあ、簡単な奴なら少しは使えたんだけどね……」
少しだけ恥ずかしそうな表情をユメに向ける。魔法の素質が無かったのか、芯はどれだけ学んでも戦闘で大いに役立つような攻撃魔法は使えなかった。頻繁に使っていたのは、擦り傷を直せる程度の
「仲間にマーチって子がいたんだ」
「まーち?」
「同い年の女の子でね。金髪で顔立ちは整ってて、強い眼をしてた。その子は魔法が上手で僕が苦手な部分をカバーしてくれてたんだよ」
芯は顔を上向きにして、何もない空間を見つめる。そこにマーチの顔を想像した。
「そのお姉ちゃんに治してもらったの?」
「そうだよ」
「凄い!凄い凄い凄い!」
宙に浮いた足をバタバタと前後に揺り動かし、ユメは声を荒げた。
「ねえねえ!ユメも練習すれば魔法使えるようになるかな?」
輝いた目を芯に向けながら、ユメは楽しそうに問う。
「どうだろう。ここには源素が無いからね」
「げんそ?」
「魔法の源なんだよ。向こうの世界では空気中の成分に源素が混ざってるんだ。それをエネルギー源として色んな魔法を使うんだよ」
「んんー……。よくわかんない」
ユメは不貞腐れたように口を結び、不満顔を芯に向ける。
「少し難しいかな。とにかく、ここの世界じゃ使えないんだよ」
「じゃあ、ユメも魔法世界に行きたい!芯お兄ちゃんはどうやって行ったの?」
「行ったというか、連れていかれたというか……」
芯は思案顔を浮かべ、当時の事を思い出していた。彼は自分の意思で魔法世界へと旅立ったわけではなかった。あの日も、毎日が嫌になってこの白峯神社で眠りに落ちていた。そうすると、向こうの世界から召喚されたのだ。マーチ曰く、召喚術の術式に間違いがあり、それが偶然こちらの世界の白峯神社へと繋がったのではないか、という事らしい。そこに芯がいたから、巻き込まれた。きっかけはそんなものだった。
「ずるいよ!教えてくれたっていいじゃん!」
「教えてあげたいけどね。魔法を使えなかったくらいだから。僕もよくわかってないんだよ」
芯は苦笑いをユメに向けた。ユメは未だ不機嫌そうな表情をしていたが、芯が意地悪をしているのではないと理解したのだろう、視線を彼から外しすぐそばの地面を見つめた。
「つまんないなあ……」
ぼそっと静かにこぼした一言は宙に浮かび、誰の耳に届くことも無く消えていく。横であくびをしていた猫のモモが立ち上がり、ユメの膝へと場所を移した。少女の手は自然とモモの頭へと伸び、その柔らかな感触を掌で感じる。モモは一声だけ小さく鳴き、眠るかのように静かに目を閉じた。
「そろそろ家に帰ろうか」
芯は腕時計で時間を確認すると言った。まだ辺りは明るく、人の声も聞こえる時間帯だったが、あまりユメを遅くまで外に居させるわけにはいかないだろうと考えたからだった。
「ええー。まだ続き聞きたい」
手はモモの上に置いたまま、起こさないように静かに抗議をした。しかし芯は首を横に振る。
「もう暗くなってくるからね。また今度、聞かせてあげるよ」
「じゃあ、明日もここに来てくれる?」
ユメは芯の目を下から覗き込み、左手の小指を出した。その指の意味を彼はすぐに察した。約束なんていつぶりだろうか。そう思いながら、芯も左手の小指を差し出し、ユメの指と絡ませる。
「いいよ。約束だね」
二人は指を切り、また明日、と挨拶を交わし家路へと着いた。
その日は非常に穏やかな快晴で、夜には綺麗な星が見られる予感がした。それは魔法世界で見た星にも劣らないかもしれないと、芯は思った。
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