1-8 side 倉図芯 誰も信じることのない一言

 2年1組の担任である樫月かしづき先生がショートホームルームの終わりを告げると、教室の中は一気に騒がしくなる。芯はすぐに席を立ち、横に掛けてあった自分のカバンを手に取る。週によっては掃除当番が回ってくるが、今週は芯に割り当てられた掃除場所は無かった。当然、彼は一緒に帰る友達も居らず、自分の用事が無い日は出来る限り早く学校を出る。芯にとってこの空間は、いるだけでじわじわと精神力が減っていく場所だった。芯は足早に教室のドアへと向かう。すると、後ろから急に肩を掴まれた。その勢いに少しだけ足がもつれる。転げそうになるのを右足を咄嗟に後ろに出して踏ん張ることで踏みとどまる。それと同時に首を後ろに向けた。


「おう、くず。教室掃除代わってくれよ」

「え、なんで……」


 どうせ拒否することはできない。そう分かってはいてもつい口に出してしまった。黒崎は片眉を上げ不機嫌そうな表情を芯に向ける。その表情だけで芯は背筋が固まり、視線は下がる。黙って頷いておけばよかった。そんな小さな後悔が頭の中を巡る。


「は?なんでじゃねえよ。お前なんも用事なんてないだろ?やれよ」


 芯の腕を思い切り引っ張り、目の前にあった教室のドアから遠ざける。ふざけるな。そんな気持ちは体の中を巡り、少しだけ黒崎と目が合う。


「なんだよ?文句あんの?」


 その言葉の圧力は芯にとっては絶対的で、これ以上目を合わせる事すらできなくなる。黙って自分の机に戻り、カバンを置く。早く、こんな所から出ていきたいのに。


 教室の隅に置いてあるロッカーからホウキを取り出し、掃除を始めるしかなかった。黒崎はそれを見て満足そうに砂田と浜井の元に歩いて行く。そのままどこへ行くでもなく、三人で雑談を始めた。


(お前らだって用事なんてないんじゃないか。)


 黙って床を掃きながら、芯は横目に彼らを見た。笑い声が耳に届く。話の内容までは分からないが、その声全てが自分を指さしているように思えた。目も耳も塞ぎたい衝動に駆られるが、教室内で一人そんな事は出来ない。一つにまとめられていく埃に意識を集中し、できるだけ声から離れようと努めた。


 塵取りで集められたごみをとり、ロッカーの横に置かれているごみ箱に捨てた。掃除用具を戻し、机の上に置いてある自分のカバンを持つ。砂田、黒崎、浜井の三人は未だ教室の中で過ごしていた。今度こそ、教室から出ようと歩を進めるが、再び彼らに声を掛けられ止められる。


「くず!」


 そんな声なんて無視して出ていけばいいのに、それでも足は止まってしまう。


「ジュース飲みたいんだよ。買ってきてくれよ。三人分」


 黒崎の低い声が鋭く響く。声の主に顔を向けるが、反抗を示す声は出ず、黙って相手を見つめるだけになってしまう。


「ちっ。聞こえただろうがよ。買って来いよ」


 今までもこのような注文はあった。従わなければ痛みが飛んでくる。従っていれば、痛みは無い。今日もまた同じようなことだと、思った。しかし、不満や鬱憤は蓄積されていく。無理矢理に抑え込んでいても、いつかは溢れるタイミングが来る。芯はその溜まりが少しだけ溢れてしまったのを感じた。


「なんだよ。国を救ったことも無いくせに」


 ぼそりと、そんな一言だけ口から洩れる。しまった、そう思った時には遅かった。教室内の空気は冷たく静まり返り、誰もかれもが芯に視線を集めていた。ほんの少しの間が空き、間欠泉のように急激な騒音が訪れる。


「ハハハハハッ!!!!今なんて言ったこいつ!!」


 黒崎の声が響き渡る。芯を指ささないまでも、他の生徒もまた引いた様な笑いを浮かべていた。吸い込む酸素が、肌に触れる空気が、耳に届く音の全てが彼にとっては不快さを伴って突き刺さる。芯の体は意思に反して震え、吐き気さえ込み上げてくる。どうして。本当のことだろ。そんな思いが血に乗って全身を巡り、後悔と怒りが反響する。この場に留まっているだけで彼の精神は削られていく。込み上げてくる涙をこらえ、彼は教室から飛び出した。後ろから追いかけてくる笑い声から必至で逃げ出した。


 芯は自分の息が胸を締め付けても走り続けた。すれ違った人々は彼の様子を横目に見るが、それでも足を止めることはない。後ろへと消えていく風景も目に入らず、彼はこの不愉快な気分と思いをごまかすために無我夢中で体力を削った。


 気がつけば、白峯神社までたどり着いていた。ここに来ようとしていたわけではない。それでも、ここに来たのは必然であるとも思えた。芯にとってここは自分を支えてくれる大切な場所となっていた。立ち止まってやっと、自分の息が凄まじく上がっていることを認識する。額から汗が流れ、目に入り込む。少しの目の染みを言い訳に、目じりから流れる涙をこれは汗だと言い聞かせた。ゆっくりと息をして、神社の縁側へと倒れ込む。


「しんどい……」


 床につけた頬っぺたが心地よく、上がった体温とともに疲れもまた奪われていった。高鳴っていた胸の鼓動が収まり、冷静さを取り戻していく。芯は仰向けに体制を変え、全身の力を抜いた。自分の体が神社の一部へと溶け込んでいくような、不思議な気持ちよさを感じた。どうしてあんな事を言ってしまったんだろう。先の教室での不用意な一言を悔やんだ。向こうの世界を知っている人はいない。そんな事は百も承知だったはずなのに。ぐるぐると取り返しのつかない後悔だけが渦を巻いて頭の中を回っていた。

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