1-7 side 倉図芯 やるせない日々の中に居る
「何座ってんだよ、どけよ」
顔を伏せていた芯の横腹に大きな痛みが走った。唐突なその衝撃に、体は横に飛ばされ椅子から転げ落ちてしまう。片手で体重を支えながら相手を見上げると、予想通り黒崎の顔があった。
「お前はその辺にでも立っとけよ」
先ほどまで芯が座っていた場所へと、黒崎は腰を下ろす。何か言い返そうと彼は思った。ふざけるな。そこは僕の席だろう。胸の中で様々な不満が渦を巻き、濃縮され、どす黒い液体へと変化していく。それでも、それを体外へ出す勇気が出てこない。芯はうつむき、黒崎らの顔を見ることも出来ないまま、廊下へと向かう。
昨日の思いは何だったのだろう。マーチが言ってくれた言葉は何だったのだろう。 芯は自分の弱さに嫌気が指す。泣きそうになる。どうして、こんなにも強くなれないのだろう。
どうして?
その言葉だけが芯の頭の中を埋め尽くし、その答えが出ないまま、やるせない現実を見ることしかできないでいた。
芯は腕時計を確認する。授業が始まるまでまだ10分はあった。その間は黒崎が僕の席に座っているだろう。彼はそう思い、あてもないまま校舎内を適当にうろついた。特に行き先はなかったが、たどり着いたのは屋上への扉前にある踊り場だった。その扉には鍵がかかっており、誰もこの先に入ることは出来ない。だからこそ、他に誰も来るはずが無く、彼が一人でいるにはうってつけの場所だった。冷たい床に腰をおろし、一人ため息をついた。
(本当に僕はこことは違う世界に行っていたのだろうか。ただの一晩の夢の中だったのではないか。)
芯は自分の中にある思い出に疑問を持ち始める。何一つ変わっていない。時間だって一日たりとも進んでいなかった。その事実が彼の気持ちを揺さぶり、現実逃避から妄想の世界に浸ってしまっていたのではないかと、疑いを強めていく。周りに人がいないせいだろうか、微かに聞こえていたはずの人の声や足音、扉が動く音なども次第に小さくなり、芯一人の空間へと変わっていく。音が聞こえない。自分の心臓の音と記憶の中の音だけになる。彼はまた、思い出の中に逃げていく。
『ねえ。もし、負けてしまったらどうするの?』
芯は腰まで届く長い太刀を丁寧に研ぎながら、呪文の研究書を読んでいたマーチに問う。彼らが住むのはライントラフと呼ばれる国。緑豊かで穏やかな人々が多く暮らす国だった。しかし現状、彼らは敵対するベルヘイヤとの闘いに明け暮れていた。幾度かの戦闘を繰り返し、芯たちはついに、ベルヘイヤの中心であるヴァルルク城へと潜入する直前だった。彼女は持っていた本に栞を挟んで閉じ、机の上に置くと、芯の顔をまじまじと見つめた。少しの間を空け、口を開く。
『そのときは、しょうがないね』
その顔に悲しさや諦めといった負の感情はなく、開き直ったかのような清々しさえ現れていた。その表情に美しさを覚え、芯は見惚れてしまう。
『私たちは出来ることをやってる。本気で、身を投げてまで必要なことをしている。それでもダメだったなら、それは相手が悪かったのよ』
マーチはいつだって笑顔でいた。どちらかと言えば後ろ向きな芯とは対照的であり、それが彼に勇気を与えていた。彼女のためならば、どんなことでもしてあげたいと思えた。“相手が悪かった”そんな悲しい言葉で終わらせたくないと心の底から感じるほどに。
芯はマーチから目線を外す。弱気な発言をした自分が急に恥ずかしくなっていた。体の奥底にあった重たい不安がいつの間にか消えていた。
『ごめん』
そっと一言だけ漏らす。目の前の彼女に言ったはずの言葉が自分の中にも返ってくる。こんなに弱気でごめん。
『いいよ』
芯の気持ちを察したのか、マーチもまた一言だけ返す。これから二人はライントラフの命運を賭けた戦いに挑むことになる。それぞれの胸の内は緊張し、大きな重圧がのしかかっているはずだった。それでも、二人だから。たったそれだけの理由が大きな希望で、大丈夫だという根拠のない自信を湧き上がらせていく。
マーチがいるから。そっと背を押してくれるから。
芯は自分の中の不安や恐怖がいつの間にか無くなっていることに気がついた。彼はいつだって自分に自信が無かった。取り得だってないと思っていた。それなのに、マーチと居る時だけは妙に強気でいられて、マーチの言葉を貰えれば、なんだって出来る気になれた。
太刀を研ぎ終わると、芯は立ち上がり背中に収める。座っていたマーチも本を閉じ、席を立つ。机の上に置いていた小さな袋を腰につけ、芯と目を合わせる。
『行こうか』
そう芯が言うと、マーチは小さく頷いた。二人はすでに、これからの戦いの先にある未来を見据えていた。不必要な言葉はお互い交わさない。交わす必要が無かった。静かに、二人は部屋の扉を開け、外に出た。これからの決戦の場へと向かうために。
芯はゆっくりと目を開ける。そこで、やっと自分がうたた寝をしていたことに気が付いた。ドアを背もたれにして顔を真下に向けていたからか、首が少し痛かった。腕時計を確認すると、15分ほど時間がたっていた。授業はもう既に始まっている。途中から教室に入る気にもなれず、芯はその場から動こうとしなかった。
今、どうして僕はここにいるんだろう。そんなことを考える。僕がこの世界にいる方が当然だ。そんなことは分かっている。それでも、そう考えざるを得ない。教室の中で、僕の存在を必要としてくれる人はいない。だったらそこに僕は居る必要があるのだろうか。
両の手を頭の後ろで組み、芯は中空を見つめる。その思いは未だ夢の中だった。その方が今の彼にとっては居心地が良かった。目をつむれば心は落ち着き、暖かい思い出に浸ることが出来た。しかし、ここは元の世界だということも実感しなければならない。もう、マーチはここには居ないのだと、彼は意識しなければならなかった。
授業終了のチャイムが校内に響き渡る。芯にとって一人でいる時間はあっという間だった。同じ空間に他の人がいるというのは、彼にとって胸の中に大きな重りや足かせが繋がれているようなもので、それはそう簡単に外れるものではなかった。
嫌々ながらも芯は重い腰を上げる。さすがにずっと授業をさぼり続けるわけにもいかない。少しでも教室内にいる時間を減らそうと、自然に歩みはゆっくりになる。チャイムが鳴るギリギリに芯は教室のドアを開けた。騒がしい声が耳に入り込み、体の中を反響する。それだけでも彼にとっては苦痛で、既にこの空間から逃げ出したい気持ちになっていた。ぐっとお腹に力を込め、自分の席へと座る。早く始まってくれ。そう願いながら、なかなか動いてくれない時計の針を凝視していた。
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