1-6 side ファルシルアン・マーチ 最初の出会い

 宙に浮いている感覚。上下左右が全く分からなくなる。体という形はなくなり、細胞が全て空間に霧散しているかのようだった。時間間隔は無かった。というよりも、自覚できる意識はなく、ただ入ってくる情報を受け入れていることしかできなかった。


 意識が体を形成していく。重みを感じ始めることでそれを認識した。肌が触覚を取り戻す。温度の低い地面が全身に密着している。鼻が嗅覚を取り戻す。青臭い葉の臭いが鼻孔をくすぐる。耳が聴覚を取り戻す。風が吹きすさぶ温かい音。水が近くを流れる優しい音がしている。目が視覚を取り戻す。目の前の真っ暗な情景が脳に信号を与える。しかし、これは瞼がまだ閉じられているからだと直ぐに気が付いた。


 マーチは五体を襲う驚異的な疲労感を感じていた。指一本動かす気力が生まれてこない。


(やっぱり相当に付加がかかる呪文だったわね……。)


 体は未だ動かないままだったが、瞼は何とか開けることができた。明るい世界が視界に飛び込んでくる。どうやらここは橋の下の様だった。近くの爽やかな水の音、風にそよぐ草の音が心地いい。この疲労感の中、再び目を閉じてしまえば眠りに落ちてしまいそうだった。むしろ、体力を回復させるという点ではそれもアリかもしれない。そんな風に考え始めたころ、向いていた方向とは反対から急に声が聞こえた。


「あのー、大丈夫?」


 はっとして声のした方向に首を動かす。マーチの目の前には、買い物袋を持った、年上であろう綺麗な女性がしゃがんでいた。思わず目が合ってしまう。温かく、何故か安心してしまうほどの優しい目をしていた。まるで、吸い込まれてしまったかのようにマーチは魅入り、声を出すのを忘れる。


「どこか、怪我でもしているの?」


 反応のないマーチを心配したのか、女性はさらに声をかけた。


「あ、いや、健康です!」


 そう返答する姿は、未だ地面に横たわれていた。女性はその様子を見て思わず笑ってしまう。


「ふふっ。そう、それならいいですけど。手を貸しますよ」


 恥ずかしさを胸に宿しながら、マーチは差し出された手を素直に取り立ち上がった。未だ足腰に力は入らなかったが、なんとか両足で地面を踏みしめることが出来た。


 改めて目の前の女性をまじまじと見つめる。背丈はマーチよりも低く小柄な女性だった。代わりに髪は長く、肩に大きくかかる綺麗な後ろ髪が穏やかな風に吹かれる。


「ありがとうございます」


 マーチは、頭を下げお礼を口にした。


「どういたしまして。それにしても、どうして倒れていたの?」

「えーと。いや、その……。なんというか。お腹が空いていて……。はは」


 別の世界から来ました。そんなことを口に出来るはずもなく、マーチはしどろもどろに返答してしまう。しかし、空腹であることは嘘ではなかった。世界の移動に大きな体力を使ったために、体に残るエネルギーは底をつきかけていた。


「あら!じゃあ、家でも来る?ちょうど食材を買ってきた所なのよ」

「え!?いや、そんな迷惑かけられません」

「何を言ってるのよ。お腹空いているんでしょう?」


 初対面であるはずのマーチに彼女は笑顔を見せた。そこに深い意味などなく、ただ彼女の性格がそういうものであるように思える笑顔だった。


「ほら、片方持ってくれる?」


 押し付けられるようにして、マーチは買い物袋の一つを持つ。そのズシリとした重みは、疲弊している体には堪えた。しかしそれでも、嬉しさが圧倒的に勝っていた。知り合いのいない、何も知らない世界に入り込み、不安が無いわけがなかったから。


「あの、お名前は何というんですか?」

「見渡佐知(みわたりさち)よ。あなたは?」

「フ……。佐藤まあち、です」


 芯を思えば、この国でファルシルアンという名は場違いだと気づき、名乗るのを思いとどまった。下の名前のマーチをそのままにしたのは、まだ通用しそうな名前だったこと。それに、全て偽名を使ってしまったら、芯を見つけるのにも、見つけてもらうにも難易度が上がると思ったからだった。


「可愛らしいお名前ね。よろしくね、まあちちゃん」


 この世界で最初に向けられた笑顔だからだろうか。マーチは彼女の屈託のない笑顔に引き込まれ、胸の奥底から自然と安心感が生まれてくる。不安や心配で苛まれていたはずの意識は、早くも根拠のない希望で満ち満ちていった。


「私こそ、よろしくお願いします。見渡さん」

「そんなに、固くならずに。佐知でいいわよ」

「それじゃあ、佐知さん」

「うん」


 自然とマーチの顔にも笑みが零れた。まだまだ先は長いと知りながらも、どうにかなるという確信が生まれていた。

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