1-3 side 倉図芯 記憶の中で彼女は笑いかける
この
(黒崎くんから数学のノートを返してもらわないと。)
芯は放課後の教室を見渡す。まだ残っている人の中から黒崎を探すと、
彼らは何かを話しているようで、時折漏れる笑い声が芯の元まで聞こえてくる。その声に不快さを感じるとともに、今からそこに割って入るのかと思うと、憂鬱で仕方がなかった。
息を深く吸い、止める。肺が膨らむ小さな痛みで自分を鼓舞する。重い腰をゆっくりと持ち上げ、自分の足を彼らの方へと向けた。一歩進むたびに、行きたくないと心の内で声が反響する。この距離が縮まらなければいいのにとさえ思う。それでも、言うべきことは言わないとだめだろう。
「あ、あの。黒崎くん……」
芯は彼の首元辺りに目線を合わせる。
「あ?なんだよ、くず」
「いや、数学のノート、やっぱり帰ってきてないみたいで」
「知らねえっつってんだろ」
黒崎は軽い舌打ちをする。その小さな音ですら、芯の気持ちを抉ってきた。
「でも……」
「うるせえよ」
二人のやり取りを砂田は見ていたが、何も口を挟まない。まるで別の生き物を見ているかのように冷ややかな目を向けるだけだった。教室の中には他にも生徒はいた。彼らの声が聞こえていた人もいるはずだった。それでもやはり、誰一人として芯の肩を持とうとしてくれる人は居なかった。
「俺ら話してるから。帰れよ」
芯の胸を黒崎は軽く小突いた。大した力では無かったが、不意を突かれたために、足の踏ん張りが間に合わず、思わずしりもちをついてしまった。
「だっせえー」
浜井が気色の悪い目を向けながら笑う。この年の割に声がやや高く、彼は他二人と比べて威圧感を感じさせない。しかし、健康そうな柔らかな顔つきから発せられる言葉は、逆に芯に突き刺さる。誰も味方をしてくれる人はいないのだと突きつけられる。
「もういいだろ。邪魔だ」
椅子に座っていた砂田が、芯を見もせずに言い放った。
(ちゃんと返してくれないから、こうなっているんだ。僕だってわざわざお前たちなんかと話したくない。)
理不尽な物言いに芯の中に不満が募る。彼はその場に立ち上がり、黒崎の背中を睨み付けた。叶うならば、不満を彼らにぶつけてやりたい。できるならば、一発殴ってやりたい。そんな思いが膨れ上がっても、行動に移すことはできなかった。悔しさと恥ずかしさ、やるせなさを秘めたまま、芯は彼らに背をむけた。不満への諦めがついたからか、そこでやっと教室内にいる人たちの視線が集まっていることに気づく。彼は一刻も早くこの場から立ち去りたかった。
まだ夕方というには少し早く、太陽はちゃんと頭上で人を照らす仕事をこなしていた。所々に点在する少しくすんだ白色がたまにその仕事を妨害するが、太陽の熱心さに直ぐにそれを諦め、光は地上へと降り注がれる。
芯はカバンを横に置き、一人で白峯神社の境内に座っていた。木々がうっそうと茂り、煩わしい光のほとんどを遮っている。周りに人はおらず、葉の擦れる音が時たまに鳴るだけだった。彼は両の腕を枕代わりに背中と床をくっつける。少しひんやりとした温度が体中を襲い、その心地よさに浸かりながら目を閉じる。
空気の中に自分が溶けていき、今どこにいるのかが分からなくなる。自分が存在しているのかが怪しくなる。世界があるのかが懐疑的になる。このまま、目を開ければきっと、また向こうの世界に。
開いた視界に映り込んだのは、屋根の木目と未だにさざめいている青々と茂る木々。そうだろうと予想していたものの、それでも願った分だけの落胆が襲い掛かってくる。
「今頃、マーチはどうしているかなあ……」
芯は一人ごちる。その名前は彼が旅立っていた世界で出会った同い年の女の子だった。右も左も分からない自分に、その世界での生き方を教えてくれた人。なんでも飲み込みが悪く、出来損ないの自分に優しく接してくれた人。役に立たない自分に期待してくれた人。彼女がいたから生きていけた。彼女がいたからあの時の自分があった。
でも今は。
どれだけ願っても、落胆しても、もう彼女が芯の目の前に現れることはない。そんなことは彼も分かっていた。しかし、だからこそ思い出に浸ってしまう。上手く生きられない自分を見ない様にして現実逃避を始めてしまう。それが、どんなに無駄なことかも理解していた。
どれだけの時間がたったのか、芯は分からなかった。ただ、木々から漏れる色がだんだんと暖色に変わっていき気温も徐々に下がってきたことからも、もう夜になりつつあるのだと予測ができた。
(あの世界に行ったときは、真夜中まで帰らずにここで寝転がっていたんだよな。)
芯はまだ動こうとせずに、過去の産物をあさり、もの想いに耽る。それは、はかどることのない部屋掃除にも似ていた。彼の心の中は散らかり放題で、自身に片付けようという強い意思がない限り自然と綺麗になるものではなかった。手に取った本を広げ、読み、それが終わるとまた別の場所に落ちている物を拾うことの繰り返しだった。そのルーティーンの中で芯は一冊の本を手に取り、開く。
『芯は強いよね』
明るい金髪を揺らしながら、目の大きな女性が、それに負けないくらいの明るい笑顔を芯に向ける。
『何言ってるんだよ。強くなんてないよ。魔法もうまく使えないし』
その眩しさを直視できずに、芯は苦笑う。
『魔法の強さのことを言ってるんじゃないの。気持ちの強さよ』
両手を腰に当て、自信満々に言い放つ。それはまるで自分の自慢をしているかのように、誇った顔をしていた。
『こんな今までとは違う世界にいきなり来たのに、生きていけているんだもの』
『そんなの、そうするしかなかったからだよ』
『そういう謙遜も強さの要因よね。芯は誰にだって優しいし、信頼するから、皆が芯を助けようとする。それなのに、それに頼り切ったりせずに努力も出来る』
彼女の言葉には有無を言わせぬ力があり、芯は恥ずかしくなる。
『あぁー。私ももっと強くなりたい』
ちょっとした不満顔と嫉妬心を隠そうともせずに、彼女は不貞腐れた様に口を結ぶ。
『マーチは十分強いよ。いつも助けてもらっているし』
『ふふ。ありがとう』
彼女は芯の言葉を否定しない。素直に受け止める。それが魅力だった。無駄な謙遜をせず、人の言葉をそのまま受け入れる。それが、賛辞であっても酷評であっても。
『マーチはさ、どうして僕に期待してくれてるの?』
芯は目の前の彼女に問いかける。この魔法世界に来ても、彼の使える攻撃魔法と言えば火を少し出せるくらいなものだった。だから、彼の戦闘のメインと言えば物理攻撃ばかりで、自分をパーティーのメインに据える彼女の意図が分からなかった。
『芯はさ、分かってないんだよ』
『なにが?』
マーチは真剣な目を芯に向ける。それは相手に有無を言わせないほどに力強く、一度その目に捕らわれると、外すことは出来なかった。
『だから。芯は強いんだってこと』
ゆっくりと目を開けると辺りは暗く、少し遠くの街頭の光がぼやけているのが分かった。背中の筋肉が凍り付いてしまったかのように堅い。それを無理矢理に折り曲げ、ゆっくりと体を起こす。いつの間に寝てしまったのだろうか。そう思いながら芯は腕時計へと目を落とした。時刻は19時30分。いつもなら既に家で晩御飯でも食べている時間帯だった。辺りの家から何かの煮物の様な、鼻孔と胃をくすぐる匂いが漂ってくる。無理矢理に空腹を意識させられて、お腹が鳴った。周りにその音を聞いている人は居ないにも関わらず、それでも少し恥ずかしくなる。横に置いてあった自分のカバンを手に取り立ち上がると、お尻についた汚れを軽く払った。
(僕は強い……か。)
芯はマーチに言われた言葉を思い出していた。自分ではそんなこと思っていなかった。しかし、彼女にあんなにも強く断言されると否定できない自分も居た。自分は信じられなくても、彼女の言葉なら信じる気になる。彼女が嘘つきにならない様に、僕は強くならなくちゃいけない。
芯は過去の思い出に浸りながら、その思いを強く先に向けた。
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