1-2 side 倉図芯 続くのは何も変わらない毎日で

 倉図芯は重い足を無理矢理に動かし、教室へと向かう。一度だけ深いため息をつき、彼は後ろ側の扉を開けた。目線を足元に落としたまま、窓際の自分の席へと歩を進める。授業前の教室は騒がしいものの、芯に声をかける人はおらず、彼の周りの空間だけが隔絶されたような雰囲気があった。


 芯もまた、誰にも話しかけずに黙って自分の席へと座る。荷物を横に置くと机に顔を突っ伏し、教室内の視界を遮断した。それが彼のいつもの行動だった。


「おい、くず」


 顔伏せている芯に向かって、一人の男子生徒が声をかけた。その時点で彼には相手が誰だか分かっていたが、無視をするわけにもいかず、しぶしぶ顔を上げる。


「数学の宿題やってるだろ?ノート貸せ」


 片方の手をポケットにいれたまま、鋭い目つきを芯に向けて黒崎淳くろさきじゅんは返事も聞かずに、机の横に掛けてあるエナメル製の黒いカバンの中身を探り出した。彼の身長や体格はそれほど図抜けている訳ではなかったが、芯に対して見せる強気な態度や、目つきの悪さが何も言い返すことを許さなかった。芯はびくついた心を押し隠し、せめてそれを悟られない様にと黙っていた。


「お、あったあった」


 黒崎は目当てのノートを見つけると、カバンは床に放り投げ自分の席へと戻っていく。


(なんだよ。貸してやってるのに、あの態度は。)


 彼は黒崎の背中を睨み付ける。しかし、その憤怒を言葉にすることはできない。口に出せばその後、もっと嫌な思いをすることは目に見えていたからだった。


 ぐっと歯を食いしばりながら、床に転がったカバンを取ろうと芯が手を伸ばす。すると、突如として現れた足によってカバンは蹴飛ばされた。


「床にごみなんか転がしとくなよお」


 ニヤリと気持ちの悪い笑みを向けてくるのは浜井壮太はまいそうた。お腹が少し出ており、髪は長く、いつも制服をだらしなく気崩している。それが彼なりのスタイルなのだろうが、芯にはそのセンスは全く分からなかった。しかし、それを指摘できるほど彼の性格は強くなく、ここでもただ黙っていることしかできないでいた。芯は少し距離の遠くなった自分のカバンを拾いに行こうと立ち上がる。


「なんだよお?無視かよお?」

「そ、そんなんじゃないよ……」


 カバンに近づくと、席に戻ったはずの黒崎がいつの間にか正面に立っていた。芯はつい目を伏せてしまう。


「こんなごみ拾う必要ないだろ」


 彼は足を振り、カバンをさらに蹴った。ボクッという鈍い音と共に、それは床を滑っていく。


 芯は黒崎の横を抜け、カバンを拾いに行った。その様子をクラス中が見ていたが、誰もがそれをいつもの光景と捉えており、見て見ぬ振りをしていた。


(本当に何も変わっていない。またこれからも、いじめられる毎日)


 芯の気持ちは窓から覗く晴れ渡った空とは裏腹に、重くどんよりと曇っていく。教室の中の笑い声や話し声が、全て自分に向けられているかのように思えてしまう。それは被害妄想だと分かっていた。それでも、この世界の自分はただのモブキャラで、居てもいなくても何一つ影響がない存在なのだと感じる。昨日まで居た世界とはまるっきり違うのだと、芯ははっきりと認識してしまった。


 教室に担任の先生が入ってくると同時にチャイムが鳴る。さきほどまで話していたクラスメイトたちも各々自分の席に座り、静かな教室が生まれた。芯はこの時間でのみ、やっとクラスに溶け込むことができ、少しだけホッとする。


 先生が話すのをしり目に、芯は教室をぐるりと見渡す。学校の教室ならではの、独特な温かくもどこか気持ちの悪い雰囲気を目にする。それは彼にとっては、もはや遠い昔に見た光景だったが、懐かしさのように気持ちを落ち着かせることは無かった。それどころか、これから一日が始まってしまうのだと、体に力が入り緊張すらしてしまう。


(もしかして、あの世界は夢を見ていただけじゃないのか。学校の生活が嫌で、強い現実逃避が自分の頭を侵食してしまった結果じゃないのか。)


 胸の重たさは徐々にせり上がり、頭の中まで到達すると自分の記憶さえも疑わしくなってくる。芯は首を左右に振り、その思いを無理矢理に払いのけた。自分の手に力を込め、向こうでの生活の記憶を探る。妄想ではない、こっちの世界が何一つ変わっていなくても、実際に生き抜いてきたんだ。自分にそう言い聞かせ、彼は前を向いた。


 ショートホームルームが終わり、先生は教室から出ていく。一時間目の授業まで十分しかないものの、教室内は再び騒がしくなった。


 芯は先ほど貸したノートを返してもらわなければならないと思い、抵抗する足を制御して黒崎の元へと近づいて行った。


「あの……」


 上手く開かない口を動かし、言葉を漏らす。


「あ?」

「え、えっと、さっき貸したノート……。最初の授業で提出だから」

「はあ?さっきお前の机に置いといたよ」

「え、いや、だって、その、戻ってきてないよ」

「知らねえよ。返したって言ってんだろ」


 黒崎は芯に目線を合わせ、にやにやと気味の悪い笑みを浮かべていた。その様子を見て彼が自分のノートをまだ持っていることを芯は確信した。追及しようと口を開くが、そこから言葉は出てこない。まるで風邪を引いた時のように、喉の奥が重く鈍い痛みを持っていた。もちろんそれは精神的なものだったが、その鎮痛薬を彼は持っていなかった。


 芯は口を閉じ、目線を落として拳を握る。何も言えないまま、黒崎に背を向け元の席へと向かった。後ろから聞こえてくる笑い声に唇を噛み締める。


(先生にノートを忘れたというしかない、仕方がない。)


 不満、憤り、鬱憤といった感情が彼の体中を駆け巡る。しかし、それを発散する相手を彼は見つけられない。感情を人にぶつけるにも、体力や勇気が必要で、その素養を持たない芯は自身で少しずつそれらを解消していくしかなかった。


 授業の開始を知らせる音が響くと同時に、深山麻美みやまあさみが入ってくる。非常に小柄な可愛らしい先生で、高校生男子ともなればほとんどの生徒が見下ろす形となる。いつも表情や言動が穏やかで、仮に宿題を提出しなかったところで、怒るような人ではない。しかし、冷静に評価を落としてくる先生でもあった。


「では、忘れないうちに宿題のチェックからします。後ろからノートを集めて」


 深山は静かに座る生徒を見渡しながら言った。ごそごそとクラス中が少しだけ音を立て、列の一番後ろに座る生徒がノートを回収する。芯もまた席を立ち、自分と同じ列に座る生徒のノートを集めて回った。そのノートを深山に手渡すタイミングで芯は申告する。


「すみません、先生。宿題のノートを忘れました」

「あら、そう。じゃあ、倉図くんは明日の朝一番に職員室まで持ってきてくれる?」

「分かりました」


 芯は席に戻る際に黒崎と目が合った。彼はまるで笑いを噛み殺すかのように肩を少し震わせ、片手で口を隠していた。


(今日中になんとか返してもらうしかない。それが無理だったら、家でもう一度同じ宿題をしないと。)


 深いため息をつきながら、芯は自分の席へと腰を下ろした。

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