業(スキル)

宮蛍

業(スキル)

 「てめぇ、どこ見て歩いてやがんだ!ネズミがウロチョロしてるんじゃあないぞ!!」

 「本当にごめんなさい」

 大柄な体躯の男が、ぶつかった少年に対して怒鳴り声を上げた。響いた怒声に往来を行く人たちの視線が引き寄せられ、何だ何だと関心と野次馬根性を引っさげてぞろぞろと集まる。非日常を演出するかのようなその声は、現実に飽き飽きしていた人々にとっては格好の暇つぶしの道具であり、ちょっとした異世界へとつながる洋服ダンスだったのである。蛍光灯に群がる蛾のようにして集合した人が、こういうときだけ謎の連帯感を発揮してきれいな円を形づくる。その円の中心で、小柄な少年は平謝りしていた。

 すいませんすいませんと何度も声に出してはそのたびに頭を下げ、しまいには声がわずかばかり震えてしまっていた。しかし男はその謝罪には一切耳を傾けず、罵倒と罵声をひたすらにとめどなくぶつけ続けていた。

 もうその辺にしてあげなと、いまだ激情冷めやらぬ男に勇気ある通行人がブレーキをかけたのはその五分後のことである。不満や文句を言い足りなさそうな男の肩をがっちりと抑え、行っていいよと優しく少年に声をかけた男は間違いなく善人であった。

 さてしかし、この善人の男は確かに善人ではあるのだが、上記の騒動においては、二つほどの勘違いをしてしまっていた。いや、正しくは勘違いするよう誘導され、その誘導にまんまと乗っかってしまっていたというべきだろうか。

 まず一つ目の勘違いというのは、少年の年齢である。

 少年は確かに少年と呼ぶべき風貌であり、背格好であり、顔立ちであったのだが、しかし人間の年齢を決めるのは見た目ではなく、いつだって生まれてから幾年の年月を過ごしたのかということだ。

 その意味で少年の齢はとうに成人を超えていた。彼にとっては酒もタバコも諍いも、紳士として嗜むべきものであり、子供として忌避すべきものではなかったのである。

 そして二つ目の勘違いというのは、立場についてである。

 善人な男はいかにも善人らしく、威圧している方が悪者、容疑者であり、怒声に震えながらも健気に謝意を示し続ける少年を被害者、護るべき存在であると認識したらしいが、それは見当違いも甚だしい大きな過ちである。

 実際のところはあの小さな男はスリの常習犯であり、今回の事件においてもしっかりちゃっかり相手方から財布を盗んでいたのである。もっともその事実に気づいたものはあの衆人環視の場において一人もいなかったというのだから、その実力は折り紙付きであり、正義漢の男が気づかなかったとしてもそれは仕方のないことなのかもしれない。

 つまるところ、小柄な彼こそが真の容疑者であり、むしろ罵声を上げ続けていた男こそが真の被害者であったのである。

 しかもこの勘違いの全ては偶然でも偶発でもなく、小柄な彼、ハリーによって精巧に仕組まれたものだというのだから、我々としては彼のその計画性に脱帽するほかないのである。

 ハリーは今年で二十四になる青年であった。彼のコンプレックスはその子供にしか見えない小さすぎる背丈であった。彼は昔からずっと小さかったため、整列するときは誰かの背中ではなく、先生の顔をいつも見ていた。

 ハリーには苦手なことが二つあった。

 一つは読書。彼は活字という活字が苦手であり、紙媒体でも電子媒体でも文字を読むことを嫌っていた。新聞さえ読もうとせず、聖書のこともひどく嫌っていた。

 しかしこれは別に大した苦手ではなかったといえる。なんだかんだで彼は世間の事情を知るために最低限の情報収集としてネットニュースを読んではいるのだ。

 だが二つ目の苦手はそうもいかなかった。ハリーにとってこの苦手は本当の苦手であり、それは一種苦手を超えてアレルギーと呼ぶべきレベルのものだった。彼のアイデンティティというか、彼を表す言葉を一つ上げる必要があるのなら、彼を知るものは皆一様にその苦手を口にするだろうと思われるのだった。

 その苦手というのは、束縛されることだった。

 ハリーは束縛を嫌い、自由を望んでいた。そして彼は自由でないとき、病に臥せるもののような、病に侵されるもののような、そんな沈痛な面持ちを決まって浮かべていた。

 「俺は翼が欲しい。蝋で出来た翼なんてちゃちいものじゃない。絶対に消えない翼が欲しいんだ」

 彼はその言葉をお決まりのフレーズとしてことあるごとに口にしていた。そしてまた、彼はこのスローガンに忠実な人生をある程度歩んでいたといえるだろう。

 彼は毎日学校に行くようなことはしなかった。そこは自分の翼で羽ばたく力を奪う場所だと思ったからだ。しかしテストのたびにカンニングをすることで、成績は常に優秀だった。

 彼は会社で働くようなことはしなかった。そこは自分の羽を自由に伸ばすことを許さない場所だと思ったからだ。しかし彼は毎日のように多くの人間から財布を盗み取るため、下手なサラリーマンよりはいくらか貯えをもっていた。

 ハリーにとって、スリを行うために相手に謝ることは敗北でも屈辱でもなかった。むしろそれは快感であった。

 この阿呆は小さな身体と俺を見くびり、周りの阿呆は可哀そうな泣き声と俺に同情する。

 ハリーは心の底で周囲を嘲笑っていた。彼は自身のコンプレックスであった背丈を使うことで困ったときは被害者を装い、何度も危機を免れていた。そのくだらない陳腐な偽装が通用する事実に彼はほくそ笑んでいた。

 彼はスリをすることも被害者ぶることも悪いことだとは考えていなかった。

 自分の能力をフルに生かし、生計を立てる。

 生きていく上で自分の持つスキルを十全に使い、そして効率よく人生を謳歌する。

 彼にとってそれはつまらないルールを守りながら、意味のない規則に縛られながら生きていくよりもよほど素晴らしいことだった。

 ハリーという男はそういう人間であった。


 上記の事件から一週間ほど経ち、町には今日も今日とて平穏極まりない時間が流れていた。それはある意味では無味乾燥ともいえるような実につまらない時間でもあった。

 フンフンと鼻歌を歌いながら、ハリーはそんな人通りの多い道を歩いていく。何かに急かされるように足を動かす会社勤めの人々とは対照的に、彼は悠々自適に余裕のある面持ちで移動していた。

 彼は今、とても幸せな気分だった。それはそれはもう、天にも昇りそうなほどの心持ちだった。

 何故かといえば、大金が入ったからだ。今日、馬券が当たったのだ。

 彼は時折、気まぐれ感覚でギャンブルに手を出すことがあった。もっともそれは中毒にならないラインを見極めたものであり、同時に予算を絶対にオーバーしないように計算されたものであった。それはギャンブルというより、ゲームセンターのコインゲームをリアルマネーで行う程度のものといった方が近いだろう。

 しかしその程度のかけ金でも、ここ一番の大勝負に勝てばそれなりの額が手に入る。そしてそのお金は、なんだかんだでそう裕福な生活をしていたわけではないハリーにとっては、とても大きな意味と意義を持つモノだった。

 こいつがあれば、しばらくの間は羽を伸ばすことができる。俺は自由になることができる。

 ハリーはお金をとても大切にしていた。この社会で自由に生きていく上では、お金は何より大切だと知っていたからだ。皮肉なことに、自由を求める彼は、誰よりも自由であるために、誰よりも束縛に対して深い理解と造詣を持っていた。

 身分による束縛があり、金銭による束縛があり、能力による束縛があり、表現による束縛があり、性差による束縛があり、国籍による束縛があり、宗教による束縛があり、家庭環境による束縛があり、教育課程による束縛があり、言語による束縛があり、人種による束縛があり、職業による束縛があり、そして人間であるが故の束縛があった。

 彼はその全ての枷を外したかった。そして今、少なくとも今この瞬間において、彼は金銭による束縛からは解放されていた。

 このお金で何をしよう。バカンスにでも行くか。それともとびきり豪華なディナーでも食べるとするか。

 ハリーは様々なことに思索を巡らせていた。今彼の頭の中では、どうやって手に入れた自由を謳歌するのが適当なのか、いくつもの選択肢を浮かべては消す作業が行われていた。

 だからだろうか、彼は下半身に衝撃を感じたとき、それに反応するのがわずかに遅れてしまった。一体何事かと下を見やると、ハリーよりもさらに小柄な、年端もいかぬ少年がそこにはいた。

 ハリーは自分の幸せな考え事の時間が邪魔されたことに対して激しい憤りを感じ、そして胸に渦巻く自身の怒りの熱を盛大に大声でぶちまけた

 「てめぇ、どこ見て歩いてやがんだ!ネズミがウロチョロしてるんじゃあないぞ!!」

 「本当にごめんなさい」


 さてここからの話を語りますとマトリョーシカ人形のようになってしまいますので、ひとまずここで幕を下ろすことにさせていただきます。


 しかしやはり、こうしてみてみると、

 業と業は紙一重ということなのでしょうか。

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