第10話

「一週間もふらふらほっつき歩きやがって。何のつもりだクソガキ」


 目を、耳を、全てを疑った。

 吸い込まれるように家の中に入り、まず彼が目にしたのは大柄の男。

 男が口から吐き捨てたのは日本語だったが、その風貌から純粋な日本人ではない事が分かる。整った顔を醜悪に歪ませて、男は階段の踊り場で割れた酒瓶を手にしていた。先ほどの何かを叩き割るような音はそれだろう。

 男は青年に気付いていないようで、大きく舌打ちをすると酒瓶を投げ捨てる。

 色素が薄い男の瞳は焦点が定まっていなかった。アルコールのせいかとも思ったが、彼は一度あれと同じ目を見た事がある。それは確か覚醒剤常用者を殺した時の事だ。


「……、」


 青年は今、自分が何を見ているのか分からなかった。

 足元をじわりと赤い液体が侵食していく。割れたガラスの破片。床に広がるのは艶やかな黒髪。

 白い服も赤黒く汚れている。出会った日、少女を包んでいたそれが赤に侵されていく。

 額から血を流して、あの少女が階段の下に倒れていた。

 砕かれた酒瓶。血を流す少女。階段の上の男。少女はピクリとも動かない。酒瓶で殴られたから階段から落ちたのか、酒瓶で殴られた後に突き落とされたのか。ほんの一瞬、青年の意識と視界が明確に傾いだ。


 ──ああ、成る程。


 


「!? 何だお前、何処から入って来やがった!」


 男が何やら喚いている。醜悪で、どうしようもない。騒音でしかない悍ましい怒鳴り声。それでも死神は、少女に視線を落としたまま動かなかった。

 脳裏に流れ込んでくるのはいつかの情景。


 世界に怯えた少女は、たった一つの望みを口にした。

 許されぬ罪で身を縛るように、触れてはいけない禁忌の果実をその手に収めるように。


 行かないでほしい。引き裂かれるような痛みとその願いを呑み込んで、ただ彼女は期限を設けた。

 初めは気紛れに過ぎなかった。飽きるまでの暇潰しでしかないのだと、そう思っていた。

 だけどいつしか、彼女に名前を呼ばれる事が当たり前になってしまっていて。

 それなのに血の海に沈む少女は何も言わない。青年の偽りの名を紡ぐ事も無く、その小さな手が彼を求める事も無い。


『***君、恋とは何だと思うかね?』


『私はこう思うのだよ。恋とはつまり、時に傷付き惑うものだと』


『狂おしいほどの感情を知りなさい。理性を奪うほどの痛みを覚えなさい。そうすればきっと、君は──』


「聞いてるのか、おい!」


 男の手が青年の肩を掴んだ。その瞬間にもう、男の運命は決定した。

 細く白い手。奪われ続けてきた、かつての己の頼りない腕を思い出す。だけど彼は、いつからか奪う側に回ってしまったから。だから。

 そんな死神の腕が、動く。


「………………あ?」


 刹那の出来事だった。

 口の端から赤い糸が流れる。その直後口の奥に広がる鉄の味に息が詰まった。喉をせり上がる粘ついた液体が、呼吸さえをも阻んでいる。

 男は恐る恐る自分の体を見下ろす。青年の腕に刺し貫かれた、自らの上半身を。


「……ちょっと、黙っててくれないか。珍しく動揺してるんだから……、」


 囁くようなその言葉は、心臓を直接撫でられているかのような冷たさを突き付ける。

 彼は気怠そうに血塗れの腕を引き抜くと、自身の肩に当てられたままだった男の片腕を力任せにへし折った。声にならない絶叫がこだまする。痛みによるショック死か、それとも失血死か。いずれにせよ放っておいても男は死ぬだろう。

 だが彼は、そんな男の事など見ていなかった。血を吐き散らしながら崩れ落ちる男を蹴り飛ばし、一人の少女に手を伸ばす。

 理性が焼き切れるかと思った。少女から流れる血が何よりも恐ろしかった。


 ──このままだと、あの笑顔が消えてしまう。


 そう思ってしまえば後はとても簡単な話。


 誰かに必要とされた事など無かった。だから、縋り付くその手を振り払わなかった。


 自分の名前に意味など無いと思っていた。それなのに、その唇が例え偽りでも自分の名前を紡ぐのが嬉しかった。


 人に、憎しみ以外の感情を抱いた事は無かった。だけど、彼女との別れを前にした時不思議と胸が痛んだ。


「ああ……ああ、そうか」


 彼は、泣きそうな顔で微笑む。ドス黒い血に塗れた手で、少女を抱き寄せて。

 その動作に満ちる感情を、彼はまだ知らない。


「僕は……この子が」


 するりと流れ落ちた言葉と共に、頬を伝ったのは冷たい滴。

 求められていたのではない。いつの間にか、彼が少女を求めていたのだ。


 それはあまりに滑稽な物語。人殺しの化け物は、一輪の花に恋をした。

 その手は何も生み出さない。花を枯らす事は出来るだろう。咲く前に摘み取る事は出来るだろう。

 腐り切ったその両手では、何も与える事など出来はしない。

 それを理解した上で、痛いほど分かった上で、彼は少女の隣を選んだ。


「ごめん、ごめんね……、僕が、君を守るよ」


 青年は少女を抱えたままふらりと立ち上がった。

 少女の傷だらけの四肢。何度殴られたのだろう。どれほどの間一人で耐えていたのだろう。

 何処か遠くで女の金切り声が聞こえる。側に転がっている男は恐らくこの少女の父親だった。であれば、いるのは想像に容易い。


 ──そうだ、殺さないと。


 君を傷付けるだけの世界なら、君以外の全てをこの手で。


「……もう世界を怖がらなくても良い。君を傷付けるものは全て壊そう。僕が全てを殺してあげる。だから、どうか──もう一度名前を呼んで」








 我に返った時、辺りは血の海だった。

 ほとんど原型を留めていない男と女の亡骸が転がっていた事は覚えている。

 それは少女の両親だった。分かっていたけど、だからこそ殺した。

 彼女に痛みを与えるものはこの世界に必要無い。少女の瞳を曇らせるものは、全て壊すと彼は誓った。


 青年にはきっと、彼女の闇は拭えない。だから例え少女が立つ場所が地獄の底であろうとも、傍に居続ける事を心に決めた。


 そうして青年は少女から出会ってからこの日までの記憶を奪った。奪って、そして植え付けたのは偽りの記憶。父親に殺されかけ、実の両親を青年が殺害した。そんな記憶が少女の心を傷付けてしまうのではと考えたから。

 それがただの自己満足に過ぎないと、彼は今でも気付かない。

 彼女にとって彼と過ごした一週間はかけがえのないものであったのに。それすら今でも気付けずに。


 彼はきっと、とっくの昔に壊れていた。長過ぎる生が全てを狂わせ、もう手の施しようもないほどに。

 だがそんな彼に最後の楔を打ち込んだのは他でもない一人の少女だった。

 壊れて歪んだ化け物は少女の為と嘯いて彼女の生きる環境を壊し尽くし、その日から芙蓉 桜華は“莉窮 椥”を縛り付ける呪いとなった。


 彼は少女に無差別な愛情を与え、少女もまた彼を無条件に受け入れた。


 その両手は、壊す事しかできないと知っていても。

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