第9話
彼が初めて人を殺めたのは十二に満たない頃の話。
彼が生まれたのは、人里離れた小さな集落。アルビノの魔術師達が過ごすそこは、閉ざされてはいたけれど──でも、幸福だったように思う。
そんな日々が崩れたのは、彼がまだほんの子供だった頃。
アルビノであり、そして魔術師でもある。そんな彼らの体は、高く売れる。金を目当てに集落を襲ったのは大勢のアルビノ狩りの人間だった。
結果として、生き残ったのは彼一人だった。
家族を喪い、故郷を失い、ただ一人残された少年は彼から全てを奪った人間を憎んだ。
人と違う容姿。白い髪に赤い瞳。
これさえなければ、誰も死なずに済んだろうに。
そんな彼が初めて殺したのは若い女だった。
少年が薄汚い野良犬を見つけて餌を与えていた時の事だ。必死に生にしがみ付く様は自分を見るようで何処か愛おしかった。
少年が少しその場を離れた隙、毒々しい雰囲気の女が仔犬を蹴り飛ばしていた。
そこにどんな意味があったのかは分からない。
動かなくなった小さな命を見た少年はガラスの破片で女を滅多刺しにした。
刃物に人の肉が食い込む感覚はきっと二度と忘れられないのだろう。
赤い粘液が飛び散って、同じく真っ赤に染まった野良犬の亡骸を今でもよく覚えている。
血で汚れた肉塊を掻き抱いて、幼い少年は咽び泣いた。
その日から少年は、死神となった。
人の命を悪戯に奪い、ただ復讐に身を捧げる夜叉となった。
初めに望んだのは何だったのか。
それすらも血の記憶に封じ込めて。
寝起きの青年の顔を少女が覗き込んでいる。それが日課となっていたはずだった。
それなのにその日、彼が目覚めた時少女はぼんやりとベッドに腰掛けていて。
「……、」
彼はその寂しげな横顔に、何か言葉をかけてあげることすら出来ない。
そして、青年と少女の奇妙な日々は、今日終わる。
昨日、あれから何か話しただろうか。一言二言交わしたような気がするし、沈黙を守り続けたような気もする。
別に怒っていた訳ではない。ただ、どう接したら良いのか分からなかったのだ。
その瞳の奥に沈む悲しみを、拭えないだろうかと思った。
それでも何をすれば良いのかなんて知らなかった。
胸が痛む理由も、少女が抱える痛みも、何一つ分からぬまま。
怖かったのだと思う。
拒絶される事を恐れて、振り払われる事に怯えて、手を伸ばす事ができなかった。
「…………行こうか」
吐息のように溢れただけのその言葉は、驚くほどはっきりと鼓膜に響いた。決別の意を表すかのように。
出会ったあの地へ帰り、後は別れるだけ。
たったそれだけで二人の距離は無限に離れる。
少女はその日、あの帽子を被らなかった。
気付けばもう、元の街へ戻っていて。
気付けばもう、目の前に少女の家があった。
高級住宅街に並ぶ家々の中でも更に異質。『芙蓉』と書かれた表札の、目も眩むような大きさの家が少女の自宅だと言う。
一週間前には満開だった桜はとっくに散ってしまっていた。あんなにも美しかったはずの桜の木は、花を失ってはもう見る影もない。地面に降り積もった花びらは雨風にさらされ、泥に汚れている。
たった一週間。それなのにこんなに様変わりする風景が、何処か憎らしく思えた。
彼は一度だけ空を仰ぎ、少女に視線を落とす。
「……あの、」
門に手を掛けていた彼女は振り返ると何か言いたげに視線を彷徨わせた。そこに宿る悲しみも痛みも、一週間などでは消えはしない。結局のところ、何も変わらなかったのだ。
青年と目を合わせ、やがて少女は小さく呟く。
「今まで、ありがとう」
だけどもう、その瞳には青年に縋るような色は残されていなかった。
泣きそうな顔で微笑んで、それでも約束通り少女は彼の手を離そうとしていた。
それなのにどうして、何も言ってやれないのだろう。どうして、こんなにも胸が痛むのだろう。
何も分からなかった。何もできなかった。
手を伸ばせば届くのに、それだけで触れられるのに。
またね、と。そんな甘い嘘の一つでも吐いてやれば良いのに。
消えていく後ろ姿を、彼は静かに見つめているだけだった。
黙々と理由も無く歩いていた。
自分は何処を目指しているか。それすらも分からずに彼は住宅街を歩き続ける。
通りすがる人々は奇怪な目で青年を見つめていた。
当然だろう、と彼は思う。普通はそうだ。普通の人間ならそうなのだ。
自分のように狂気に溺れた化け物に、近付く人間などいるはずがない。
だから殺した。殺し続けた。
それなのに、この一週間はどうだ。
『私は芙蓉 桜華。“桜”に“華”で桜華だ』
もう二度と出会うはずのない少女の笑顔が脳裏に浮かぶ。
傷だらけの四肢。何かに怯えた瞳。
こんな化け物の手を取った、隻眼の少女。
どれくらい歩いただろうか。
ぼんやりと辺りを彷徨っていた青年は、ようやく自分の手に握られている物に気が付いた。
(あ……返すの忘れてた……、)
それはあの帽子。少女が被ろうとしなかったので後で返すつもりで預かっていたのだ。
気紛れに渡したプレゼント。深い意味は無かったけど少女は気に入ってくれていた。
その化け物に感情はない。感情はないのだと、そう思っていた。
だから彼は気付いていなかったのだ。
喜ぶ少女を見て、自分も嬉しかったのだということに。
「……っ、返すだけだから、」
誰にとも分からない小さな言い訳を吐き捨てて、彼は踵を返した。
もう一度彼女に会うために。
自然と急ぎ足になりつつ、青年は少女と別れた家の前まで戻ってきた。
少女が閉め忘れたのかほんの少し開いたままの門から中へ入る。ちなみに“インターホンを押す”という常識は彼には無い。
外観に似合った広い庭には美しいガーデニングが施されている。やけに赤い花が多く見られるそこには子供用と思われるプラスチック製のジョウロが転がっていた。土で薄汚れたそれはやけに物悲しく見える。彼女の物だろうか。
「……、」
彼はもう一度手元に視線を落とす。
血で汚れた手。命を奪い続けた両手。
いつ手に入れたのかは忘れてしまったけど、目も眩むような赤から目を背けるために手袋をはめた。
それでも罪の重さは変わらない。彼は誰かから奪う事は出来ても与えられない。
初めて命を奪った時、それが出来てしまう自分自身に底知れぬ恐怖を感じた。こんなにも簡単に人は死ぬのかと、ただ恐ろしかった。
それなのに今はもう、誰かの人生を終わらせる事が当たり前になってしまっている。そこに生きる人には確かにその人の人生があるのに、悪戯に壊した命にもきっと、守るべき家族や友がいた筈なのに。
だけど。
(今更、)
青年は表情を消すとドアノブに手をかけた。
今更。本当に今更な話だ。
何度も手を伸ばした。何度でも追い縋った。それなのに届かなかった。誰もこの手を取ってくれなかった。
どれだけ焦がれても届かない。信じた分だけ身も心も引き裂かれる。
『***君。私が君の生きる意味となろう』
『だからどうか笑ってくれ給え。私のたった一人の可愛い右腕』
どうしても顔が思い出せない少女。声色もよく分からないのに、その言葉だけが流れるように浮かんでは消える。
何も分からないのに胸が痛んだ。彼女の事を思い出そうとする度、人の温もりに触れるのが怖くなる。
だからもう、自分は独りで良い。何も望まないし、誰も求めない。
(彼女は僕に、何を求めていたんだろう)
そんな化け物でも──いや、だからこそ考えてしまう。
あの日あの場所で、自分のコートを掴んだ幼い少女。彼女は何を望んでいたのかと。
その瞳は縋っていた。彼女の瞳の奥の光は、この世が絶望で黒く塗り潰されている事を知っていた。それを見てふと思ったのだ。同じだ、と。
少女の瞳は彼と同じだった。世界が闇でしかないと知っていて、それでも光を求める青年の瞳と。だから彼にはあの手が振り払えなかった。彼女を切り捨てれば最後、それはまるで自分自身を否定するように思われてしまったから。
もしも、と青年は思う。
もしも、自分が人殺しではなくただの人間で。
もしも、人から何かを奪うのではなく与える事が出来たとして。
もしも、もっと彼女と違う出会い方をしていたのなら。
自分は──。
そして、彼はそこで我に返った。
正確には、家の中から聞こえてきた男の怒鳴り声と何かを叩き割るような音によって。
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