第7話
『***君、恋とは何だと思うかね?』
見た事もない少女がそんな事を言う。
靄がかかったかのように不明瞭で、不確か。顔はまるでペンで塗り潰したかのように特徴を見失っていた。
少女には右腕が無かった。袖が不自然にはためく様は、まるで何かを訴えているようにも見える。
『……知りませんよ、そんなこと』
それに対して彼は応える。
呆れたように、しかし決して無視する事はなく。当たり前のように口から言葉が紡がれたことに、彼自身も驚いた。どうしてだろう? それはまるで、何度も繰り返してきた日常のような自然さだった。
だけど、分からない。どうして……どうしてこんなに、痛いのだろうか。
『愛とは無論、躊躇わない事だ。では恋とは何か? 私は思うのだよ。恋とはつまり、時に傷付き惑うものだと』
『……謎掛けですか?』
『ふむ、特に意味は無い』
少女は笑っていた。太陽のような笑顔を浮かべて、それでいて何処か悪戯っぽく。それなのに顔だけがどうしても分からない。
嗚呼、あなたは誰だったか。
『君は恋を知らないのだよ、***君。感情は人を狂わせるが、君はもう少し情緒を持った方が良い』
そんな事を言われても、困る。
彼は少し眉を寄せ少女に恨めしげな視線を送った。
だって、自分は化け物なのだから。
感情なんて必要無い。もう、何に対しても心が動く事などない。だけどそれで良いのだと思う。
人は人で、自分は化け物。それ以上を求めてはならない。縋るだけ傷付けられてしまう。
人を信じても最後には裏切られるに決まっている。
だって、
あなただって、
僕を裏切ったじゃありませんか、***さん。
「……、」
意味の分からない夢を見た。というか、いつの間にやら眠っていたらしい。
青年は顔を上げると小さな喫茶店のテーブルに突っ伏していた事に気が付いた。
気紛れに頼んだホットコーヒーは、すっかり温くなってしまっている。
「……何処だっけ、ここ」
寝惚け眼な瞳を擦りながら彼は辺りを見回した。
何だかやけに青を基調とした店内にはイルカなどをモチーフにしたシールなどが貼られている。青色は食欲減退の効果があるというので、売り上げの妨げになっていそうだと思ってしまう。
「ああ、水族館……、」
あの少女を待っていたのだったか。
特にやる事もなく、かと言ってここを離れるわけにもいかず、ぼんやりしている内に眠っていたのだろう。本来なら他人がいる空間でうたた寝など絶対にしないのだが、どうやら思いの外疲れていたらしい。一週間だけとは言え、慣れない生活などするものではないということだろう。
携帯電話を開いて時間を確認すると午後三時。ここに入ったのはまだ午前十時頃だったので少なくとも少女と別れて五時間以上経っている事になる。
「…………五時間?」
待てよ、と彼は思わず立ち上がった。隣のテーブルの片付けをしていた店員がぎょっとしたように見るが、そんな事を気にする青年ではない。
いくら何でも、五時間は少し時間がかかり過ぎではないだろうか。
「……迷って、るのか?」
しかし彼は直ぐにその考えを打ち消した。
迷子になったら誰かに道を尋ねるようには言ってあるがそもそもここは迷路ではない。館内図を確認しても一本道だ。いくらあの少女に迷子癖があると言えどもそんな単純構造で迷うようなら最早才能である。
それに子供の足でもただ展示物を見るだけなら二時間とかからないだろう。勿論途中で何か気に入った生き物を見かけたからそこで足止めされているといった可能性もある。ちょっとした催し物なども行われているようなので、そういったものを観ていることもあり得るだろう。
それでも、五時間とは時間が経ち過ぎでは?
「……、」
嫌な考えが脳裏を過る。
あの少女はトラブル体質だ。初日もいなくなった先で誘拐されそうになっていた。その上、子供らしくない言動が様々な点で災いしやすい。
もしも迷子などではなく、何か事件などに巻き込まれているとしたら……。
「……ああ、もう」
彼は会計を済ませ、乱暴に喫茶店を出ると館内へ向かう。
心配しているわけではない。そんなはずはない。厄介事に巻き込まれていたのならこっちが迷惑なだけだ。どうせ助ける羽目になるのだから、何事もない方が手間がかからない。
そう、何度も自分に言い聞かせながら。
見捨てるという選択肢が初めから無いことに、彼自身気付かないまま。
「何処行ったんだ全く……、」
淡い光が散るクラゲの展示コーナー。
筒状の水槽に詰め込まれたクラゲ達は白き死神から身を隠す事も出来ず惑うように漂っている。
子供連れの親子やカップル、様々な人々が行き交う中、あの少女の姿は無い。
「お母さーん、イルカショーは?」
そんな時小さな男の子が彼の傍を走り抜けて行った。待ち切れないといった様子で、母親に騒がないようにと宥められている。
青年はそういったものに興味など無かったが子供は喜ぶものらしい。
もしかしたら。そんな思いを抱いて、彼の足は自然とそこへ向かう。
放っておけば良いのに、それができない理由は彼には分からなかった。
これはただの気紛れで、戯れに過ぎない。
あの少女が何か自分の障害になるのであれば殺すつもりでいた。
それなのに青年が彼女の息の根を止める事はなく、今はその足で少女を探している。
それは何と滑稽な話だろうか。青年にはもう、自分が何をしているのかなんて分からなかった。
「……、」
水面が太陽の光に反射して美しく光っている。
飛び回るイルカ達に目もくれず彼は少女の姿を探していた。
黒い髪に黒い瞳。横柄な態度とは裏腹に、何かを恐れる小さな女の子。
彼女は何に怯えているのだろう。
少女は酷く偉そうではあったが我が儘を言った事はこの一週間でほとんど無い。勝ち気な瞳の奥では、いつも不安げな光が揺れていた。
だからどうしてかあの態度は、寂しさの裏返しのように思えてしまって。
(……ああ、苛々する)
殺す為に近付いた少女。
彼の渇きを癒す事ができるのは、人が恐怖に慄き血飛沫を散らすその瞬間だけ。
あの少女だって今すぐにでも殺してしまえる。殺せるはずだ。
でも、
だけど、
──本当に?
「あの、」
彼は余計な考えをすぐさま打ち消すとゴミ拾いをしている係員の女性に声をかけた。
何も気にしなくて良い。今は少女を見つけ出せればそれだけで構わない。
今は、何も。
「何でしょうか」
「長い髪の小さな女の子見ませんでしたか。白い帽子を被った」
「帽子? 少々お待ちください」
帽子、と聞いて顔色を変えた係員は何処かへと行ってしまう。
数分ほどで帰ってきた彼女が手にしていたのは、見覚えのある白い帽子。
「ッ、」
「落とし物で届いていたんですが……、」
真っ白な帽子。小さな桃色の花飾りの付いた、彼が少女に与えた唯一の贈り物。
随分と気に入ったようで、何処へ行くにも彼女は絶対に手放さなかった。
少女は見つからない。それなのにどうしてかこれはここにある。
ざわ、と胸の内が波立つ。
何処へ行ってしまったのか。
どうして見つからないのか。
ぐるぐると回るその言葉を否定したくて、青年は女性から帽子を受け取ると即座に駆け出した。
もう、何でも良い。
だからどうか、無事で。
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