第6話

 ただ桜を探しただけの日もあった。

 街で催しを見た日もあった。

 電車に乗って行ける所まで行ってみた日もあったし、一日中話をしただけの日もあった。

 そうして約束の七日間は驚くほど早く過ぎ去り、気付けば残すところあと二日にまで迫っていた。


「水族館に行ってみたい」


 目覚めると少女が顔を覗き込んでいる。

 そんな朝が当たり前のようなものになってしまっていた六日目。

 その日彼はどうしてか普段よりも随分早く目を覚ました。


「……じゃあ今日はそうしようか」


 ここは彼女が元いた街からは大分離れてしまっている。だから明日は、最後の日は、出会ったあの場所へ帰るだけ。

 つまり二人で出掛けるのはきっと、これが最後。青年はそれを理解しておきながら決して口には出さなかった。今までの彼なら意味が無いからと答えただろう。だけど今の青年はその答えを持ち合わせていない。

 この一週間で、随分と分からないことが増えたように思う。そしてそれに苛立つより、別の感情に支配されることも。


「椥は水族館に行ったことが?」

「……いや、無いよ」

「そうか。それなら私と同じだな」


 バスに揺られ、その日少女はやけによく喋ったと記憶している。

 無口と言うほどでも無かったが必要の無い時以外はほとんど口を開かなかった彼女。

 それなのに初めて会った日と同じように拙いながらも一生懸命言葉を絞り出す様子は、まるで何かに怯えているようで。


「……バスにも、椥と会うまで乗ったことなかった」


 外を眺めながら少女は小さく呟いた。あの帽子をしっかりと被り直して変わりゆく景色を見つめている。

 誰かと一緒に買い物をしたのも初めて、海を見たのも初めて、電車に乗ったのも初めてで、バスに乗ったのも初めてだと言う。

 口から紡がれる言葉は年齢にはそぐわなかった。知識量も同様である。それなのに、その割に彼女はやけに物事に対する経験が無かった。

 幼さゆえ。そんな言葉では片付けられないような危ういバランスを保つ少女。彼は少女について何も知らない。年齢すらも聞き出していなかった。

 唯一知る名前ですら一度も呼ばないまま。

 そんな彼女との奇妙な日々が、直終わる。

 それを考えると胸の辺りが少し違和感を訴えた。



「椥?」

「いや……何でも」


 痛みの正体も分からないままにバスが向かうのは目的地。

 清々しく晴れ渡る空の下、相変わらず少女は彼のコートを握り締めていた。






(しかし……水族館か)


 子供一人と大人一人。二人分の入館料を払いながら青年は珍しく悩んでいた。

 今はまだ午前中。それほど人の数も多くなく、並ばずに済んだ。もっとも、そう人が集まるような大きな施設でもないのだが。

 ちなみに意外に好奇心旺盛なあの少女、目を離すと勝手に何処かへ行ってしまうので念の為に背負っている。放置した結果痛い目に遭ったことはこの一週間で少なくない。


 今更な話ではあるが、彼は普通の人間ではない。その人の皮の下に眠るのは狂気──というか、魔力だ。高純度の魔力は時に生物には毒となる。そして奇しくも、彼は魔術師としての技量は世界最高峰であった。

 動物などは人に比べ危機感知能力が優れていると言う。つまり、人間では気付く事のできない彼の『異常』を動植物は察知してしまうのだ。


 なので。


「……やっぱりか」


 魚一匹見られない巨大な水槽を見て青年はぼやくように呟いた。係員は何が起きたものかと首を捻っている。

 その水槽には何十種類もの魚類がいるという事は確かだ。ただ、それらが一匹の例外無く岩や砂の影に隠れてしまっているだけで。


「これだけはどうしようもできないしな」


 白い死神に、怯えている。

 彼という一人の化け物から滲み出る魔力に命の危機を感じたのか、魚達はすっかり息を潜めてしまった。熱帯魚から大型の魚類まで例外無く彼がいる限り姿を現わす事はないだろう。彼自身に敵意があるとか無いとか、そんな事は関係ない。

 ライオンは、じゃれているつもりで自身よりも小さな生き物を嬲り殺してしまうことがあるという。獅子にとっては戯れでも、他の生き物からすると命懸けのやり取りとなる。つまるところはそれと同じ。圧倒的な力の差を前に、互いの意思は意味すら為さない。

 仕方がないので、青年は不思議そうに水槽のガラスを叩いている少女に向かってこう言った。


「入り口の辺りにカフェがあったの、分かるね?」


 少女がコクコクと頷く。


「僕はそこで待ってるから一人で行っておいで。……一人でも大丈夫?」

「椥は?」

「僕はあまり魚が好きじゃないから。迷ったらちゃんと誰かに聞くんだよ」


 彼が付き添えば展示されている生物をほとんど見る事なく終わるだろう。

 水族館に来るのは初めてだと言うし、あまり悲惨な絵面を思い出の一つに加えてほしくない。

 少女は一瞬だけ不安そうな顔をしたものの、青年が来ることはないと悟ったのか通路の奥へと消えていった。


「……まぁそんなに時間はかからないだろうけど」


 少女の姿が見えなくなったのを確認して、一人呟く。

 動物達に限った事ではない。根本的に人と違ってしまっている彼は、社会に馴染む事などできなかった。

 誰かと生きようとしたことがなかったわけではない。だってそうだろう。人に興味が無いのなら、本当に人間が憎くて殺めるのなら。関わりを断ち、それこそ山奥か何かにでも引きこもっていれば良いだけの話だ。普通の人間であればともかく、少なくとも青年にはそれが可能なのだから。

 だけど出来なかった。老いもせず死ぬこともないこの体が人々に受け入れられることなど決してない。

 手を差し伸べても払い除けられ、歩み寄っても拒絶される。


 分かっていても、諦めきれない。希望に縋ることをやめられない。

 認められたかった。受け入れてほしかった。誰かに愛してほしかった。

 それなのに、それは願うことすら許されなくて。


 痛かった。石を投げられることより、化け物と罵られ暴力を振るわれたことより、拒絶された心が何よりも痛かった。


 そうしていつしか、奪われることを恐れて奪う側に回ってしまった。


 だから彼は聖者にはなれない。

 だから彼は『救い』になれない。


 だから、彼は死神として生きるしかなかった。


「……、」


 それなのにどうして、彼女はそんな化け物の手を取ったのだろう。

 桜を見つめるあの儚げな横顔は、何を思っていたのだろう。

 瞼の裏に焼き付いた少女は、何を望んでいたのだろう。


 どれだけ考えても答えなんて分からなくて、青年はただ静寂の中に立ち尽くしていた。

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