第5話

 奇妙な出会いから、三日目の事だった。

 二人の出会いから二度の夜が明け、ビジネスホテルのベッドで青年が目を覚ました所から一日は幕を開ける。

 あまり大仰に言う事でもないのだろうが、そもそも今まで時間の概念なんてものを気に掛けた事が無かったりする青年である。要するに“夜に寝て朝に起きる”という行為自体が珍しいのだ。

 そんな訳で半分寝たままの頭を起こして時計を見ると午前十時。まぁ大凡予定通りである。彼は朝に弱い上に、自然に目が覚めるまでは起きることはない。これでも早い方だ。


「椥、おはよう」

「……おはよう」


 少女は青年が目覚めるとほぼ同時に人の布団の上、つまる所彼の上に飛び乗って開口一番そう言った。いつの間にやらそれが日課となっている少女である。

 彼としては重くもないし痛くもないが息苦しいので抱き上げて退かし、体を起こす。普段であれば間違いなく文字通り瞬殺していたような気もするのだが、寝起きの体操にしては些か面倒臭い。

 どうせ死なないのであれば眠気とは無縁の体が良かったものだが、厄介な事にこの体は睡眠を欲するだけでなく疲労も蓄積される。要するに人並みに眠る必要があったりするのだ。


「椥」

「……なに」


 相変わらず青年が適当に名乗った名前を本名だと信じ切っている少女は彼の服を掴む。

 普段は名前を名乗る機会が無い上、そもそもほとんどは話す間もなく殺害している。その為『呼ばれる』事に馴染みがない青年は三日経った今もなかなかその少女に呼ばれる事に反応出来ないでいた。

 服をぐいぐいと引っ張る少女は右の黒い瞳で青年を見上げながら、


「海」

「それが?」

「海に行きたい」

「人に物を頼む時は」

「今日は海に行きたいから連れて行ってくれ」


 人に物を頼む時の態度としてはそれでは三十点以下だろう。

 といっても彼女はその辺りの常識が欠如しているであろう事はこの短期間で嫌というほど思い知ったので、顔を洗って来るから用意を済ませておくようにと言い付ける。


 実のところ、青年は子供の相手が嫌いである。殺害する分には子供の方が良いにせよ、とにかく子供の相手はしたくなかった。苦痛とさえ言っても良い。しかし追い払うのも面倒だし殺すのも面倒だし何というかとりあえず面倒臭いので仕方なく付き合ってやっている感じである。

 どうせ期限は一週間。それが終われば一人に戻れる。いっそその時に殺してしまったとしても構わないだろう。

 幸いにも十歳前後であろう彼女は、気に入らないから騒いだりとか泣き喚いたりという事が無い。良くも悪くも子供らしくないのだ。だからこそこの奇妙な生活が続いているのだろうが。

 ちなみに騒ぐようなら首から上を切り離していただろう事は言うまでもない。


 そんなこんなで青年は、少女が食事を済ませる間にコートを上から着込む。どう考えても春先の服装でない事は彼自身も分かっているが、魔術で容姿を偽っているとは言えこの肌を人目に晒すのは未だに抵抗がある。

 異端とされる目や髪の色。これさえなければと思うことが何度もあった。


 ……容姿と言えば、少女の左目はどうなってるんだろうか、と青年は今更ながらに考える。

 何となくスルーしていたが十歳に満たない年齢の少女が顔の半分を覆う程目に包帯を巻いているのは流石に違和感がある。


(まぁ……良いか。死ぬほど気になるという訳でもないし……それに――)


 青年はちらりと少女の方を見遣る。


「椥、どうした?」

「……いや」


 この日々は、あと四日で終わるのだから。







 春風に混ざる潮の匂いは、随分と久しぶりな気がした。

 海は大して好きでもない青年が好んで海辺に足を運ぶ事はない。

 数時間バスと電車に揺られ(バスも電車も初めてだとはしゃぐ彼女をちゃんと座らせるのに苦労した)、彼ら以外に誰もいない海岸で蒼く広がる海を眺めている。

 いや、正確には突っ立っているのは青年だけで、少女は興味津々といった調子で貝殻を拾ったり海の水を触ってみたりと忙しい。二日前に彼が気紛れで買い与えた白い帽子は余程気に入ったらしく今日もしっかり被っている。


「……、」


 港自体寂れているのか、海岸通りもボロボロの小屋がちらほら見えるだけ。要はど田舎なのだが望みは海だったはずだ。だったら周りの景観はどうでも良いだろう。

 事実何だかんだで楽しんでいるらしい少女は──と、そこで青年はようやく気が付いた。つい先程まで砂浜で綺麗なガラス片を集めていたはずの少女が姿を消していることに。


「……はぁ?」


 忽然と姿を消した少女に青年は何とも表現し難い声を上げる羽目になった。

 目の届かないところに行くなと散々言い聞かせたのだが、どうも彼女には迷子癖があるのはこの数日で思い知っている。

 頭痛を堪えるようにこめかみを押さえ、彼は地平線の彼方に視線を投げた。思えば、あの少女に付き合う義理など無いのだ。もう放っておくのもアリだろうと。

 そうして踵を返そうとすると、視線の先の防波堤に見覚えのある影が目に入った。


「……何してんのあの子」


 少女の黒髪が潮風に靡いている。

 彼女はじりじりと躙り寄るような足取りで防波堤の先へ向かっていた。

 目的は恐らく……カモメ……だろうか? 防波堤ギリギリに鎮座しているのは一羽のカモメで間違いないと思われる。

 放っておこうと決めた矢先だが、目に入ってしまったものは仕方がない。青年は溜息を吐きつつ少女の元へと向かう。……が、どうにも危なっかしい。というよりも、あんな事をしていれば──。


「あ」


 予想通りバランスを崩し、少女の体が海に呑み込まれる。

 カモメに手を伸ばしたまでは良かったが、そこはやはり野生の獣なだけあったのだろう。ひらりと身をかわされ、顔から海に落ちたのだ。


「……っ、」


 ざわ、と自分の内側が波立つ。

 放っておけば良いと考える頭とは裏腹に、信じられない事に彼の体は勝手に動いていた。

 少女の落ちた先を見下ろしながら魔術を発動する。水面がエメラルドの光を放つと、呑み込んだ獲物を吐き出すように少女の体が防波堤へと放り出された。


「……、」


 全身ずぶ濡れになり、大きく咳き込む彼女は何が起こっているのか分からなかったらしい。呼吸を整え終わるときょとんとした顔でこちらを見上げていた。

 その姿を見ていると得体の知れない感情がせり上がってくる。言うならばそれは殺意に近く……それでいて何かが違っていた。


「……一体、何を?」


 青年は少女の首根っこを掴み上げ、目を合わせてからそう問う。彼自身が思っていたより遥かに低い声が出た事に驚いたが、そんな事はどうでも良いので返答を待った。

 しかし口を開く前に、少女の瞳に怯えの色が映る。それは初日と同じ、拒絶される事を恐れた目。


 それ以上何か言う気が失せてしまい、彼は舌打ちして少女を地面に下ろした。


「……そういえば君、帽子は」


 溜息を吐いて少女を見ると、彼女の頭からはさっきまで被っていた帽子が消えている。落としたのかとも思ったが海に落ちる前から被っていなかった気がしなくもない。


「……盗られた」

「盗られた?」


 その言葉でようやく思い当たった。さっき彼女が捕まえようとしていたカモメが何かを咥えていた事を。あれは多分あの帽子だったのだろう。


「ああ、それで……、」


 あんな事をしたらしい。

 頭がおかしいのではないかとも思った青年だが、理由があったようで何よりである。


「別に帽子くらい……、」


 買い直せば、と言い終わる前に少女がキッ! とこちらを睨み付けた。元々綺麗なアーモンド型をした目の少女なので、子供ながらも凄むと迫力がある。

 互いに無言だった数秒の間物凄く不機嫌そうな顔をしていた少女だったのだが、暫くしてその瞳がじわりと滲んだ。

 どうやら、不貞腐れてしまったらしい。確かに随分とあの帽子を気に入っていたようだが、青年からすればあの程度の物何処にだって売っている物に過ぎない。何なら、魔術で出せる。

 ともあれ我儘を言ったり反抗的だったりという事が無い少女だったからか、これには青年も少したじろぐ羽目になった。傍目から見たら不審者認定の彼の側で、幼女に泣き喚かれてはどう考えても訪れる結末は任意同行である。


「全く……、」


 買い直すのは却下。だとするとさっきのカモメを探すしかない。それかこの場でこの少女を肉塊に変えるか。


 より面倒なのはどちらか。

 どっちもどっちだが、カモメの方は魔術を使えば何とかなるだろう。


「……取り返してくれば良いんだろう。良いね、ここで大人しく待つように。何度も言うように勝手にいなくならないこと」


 帽子が無くなり、はっきりと露わになった目元を滲ませていた少女は青年の言葉に真剣な顔で頷いた。

 ちなみにまた勝手にいなくなるようなことになれば青年には今度こそ彼女を放置してここを去る自信がある。

 そもそも帽子が無いと彼自身困るには困るのだ。顔の右半分を包帯で覆っている少女は、端麗な容姿も手伝って連れ歩くには目立ち過ぎる。


 結果、カモメ……というか帽子を取り戻したのは、それから随分と経ってからのことだった。

 人間が相手であれば殺してでも奪い返したところだったのだが、それをしなかった為──意外な事に青年は動物好きだった──無駄な時間を浪費してしまった。


 どうしてこんな事をさせられているのかと自問したのは、一度や二度の話ではない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る