第2話
術が効かなかった。
魔術とは、決して万能ではない。青年が使ったのは気配遮断と呼ばれる一般的な魔術であり、高位の魔術師であれば破ることも難しくはないことは事実だ。だが、それには相手も魔術師である必要があるし、魔力が動くような気配もなかった。
(何か、間違えたかな)
そうやって首を傾げている間に少女は突き刺すような視線でこちらを見上げている。
別段青年は背が高い訳では無いのでこの場合少女が小さいようだ。何だか一生懸命な様子で顔を上げている。これでは首が疲れるだろう。
「お前は何だと聞いているんだが?」
おおよそ、子供には似つかわしくない口調である。
明らかに彼女の雰囲気とは合っていないのに、少女が纏うオーラはそれこそが正しい形なのだと訴えかけてくる。
「……人にものを訊ねる時は、自分から名乗るのが礼儀だと思うけどね」
面食らった彼は、思わず舌打ちした。
今時の子供は皆こうなのだろうか。そんな事を考えながら青年は呆れたように息を吐く。
魔術が上手く働かなかった理由は分からないがそれなら別に構わない。頃合いを見て少女の意識を奪うか、いっそこの場で殺してしまおう。
「そう、か。それもそうだな」
しかし青年のそんな考えなどつゆ知らず、何故か納得した様子で少女は頷く。伏せられた睫毛は長く、黒曜石のような右の瞳を飾っている。
彼女は桜の木を指差して、改めて男を見上げる。
「私の名は
やけに、嬉しそうに微笑んで。
幼い少女はそう名乗った。
どうしてかその表情は酷く鮮明に覚えている。始まりはこの時だったのだろうと思えてしまうほどに。
青年がいつまで経っても返事をしないのを見て桜華という少女はむっとした様子で眉を寄せる。
「お前は?」
「は?」
人にものを聞く時は自分から。そう言ったのは青年の方だ。
つまり少女は『こちらは名乗ったのだからそっちも名乗れ』と言いたいらしい。
しかし彼には名前など無い。名前なんて意味を成さないと信じていたから。
だから忘れてしまった。思い出すこともしなかった。胸に刻んだところで、呼ぶ者すらいないのだからと諦めて。
──この時名前の無い青年には、今すぐにでも少女を殺して立ち去る事が可能だった。
予定は狂うものの、痛めつける事に価値を見出しているわけでもない。回りくどい方法は取らなくてもこの瞬間に少女の頭蓋骨を粉砕し、他の標的を探せば良いだけの話だった。
それなのにそうしなかったのは何故だろうと、今になって考える。
「……僕は、」
目を閉じて考える。ふと青年は、ここが日本であった事を思い出した。
いつも適当に名乗る偽名は洋名なのでほんの少し頭を悩ませる。
「り、
信じられないようなネーミングセンスに、彼自身絶句する。口に出した一秒後には後悔が押し寄せたが、既に飛び出した言葉を口の中に戻すことなど出来るはずもない。
しかも「とか……、」とは何事だ。名前を名乗るのに疑問符を付ける馬鹿がどの世界にいると言うのだろう。
何もかも煩わしくなってきて、溜息を吐くことしか出来ない莉窮 椥(仮名)。
少女は暫しの間無言だった。口を閉ざせば表情は消え、精巧な人形のような端麗さだけが残される。
ややあって彼女は、
「変な名前だな」
一刀両断。
どうもこの少女には遠慮や配慮といったものが著しく欠如しているらしい。
「……五月蝿いな。世の中には山ほど人間がいるんだから変わった名前くらい一人や二人いるだろう。……人の名前にケチを付ける権利が君にあるのか?」
こんな事なら山田 太郎とでも名乗れば良かった、と人知れず溜息を吐く青年。
その『山ほどいる人間』を片っ端からぶっ殺している彼はこんな子供放っておいて他を当たろうかな、と辺りを見渡し始める。
何だか殺すのも面倒になってしまった。青年の形をした殺人鬼は気分屋なのだ。
「なるほど、それもそうだな。ごめんなさい」
「……、」
彼女は『変な名前』には納得してくれたらしい。それどころか思いの外素直な謝罪が吐き出され、彼は眉を寄せた。
口調や雰囲気、そして言動。少女はそれら全てがちぐはぐな印象を受ける。
手の届かないものに精一杯背伸びをして手を伸ばして、だけど届く気配すらないような。そんな違和感が纏わりつく。
彼女自身はそんな事に気付いてなどいないのだろう。少女は、青年の顔を覗き込むような形で頭を上げながら彼の黒いコートの袖を引いた。
「それよりもお前。時間は? ある?」
「……はぁ? 何が」
露骨に鬱陶しそうな態度を取る青年は無視してあっち、と隻眼の少女は住宅地の奥を指差す。
そこにあるのは小さな公園だった。
「それで、えっと、この辺りで八重桜が咲いていないか探していたんだが」
人の気配が無い小さな公園。遊具と言えばブランコと滑り台くらいしかなく、どちらもほとんど使われていないのはすっかり錆び付いているのが分かる。
少女と青年は、そんな公園のベンチに腰掛けていた。
どうしてこんな事に……と遠い目をする青年には気付かず、少女は延々と一人で喋っている。
何度傍を離れようとしたか分からないが、彼女がコートの端を小さな掌で握り締めているため逃げるに逃げられない。それでも振り払おうと思えば簡単な事だ。しかし、何故かそんな気分にはならなかった。思いの外疲れていたのだろうと自答する。
「八重桜が咲くのは……もう少し後じゃないの」
「? そうなのか。知らなかった」
この場合幸か不幸か──どちらだったのかは分からないが、驚くべき事に青年は会話好きだった。
だから手にかける相手との会話も試みるし、無駄話をされても完全に無視することはあまりない。
少女の話に適当に相槌を打ち、適当に話題を振る。少女があまりにも楽しそうに話に乗ってくるものだから、初めは嫌々ベンチに座っていた青年も時間が経つ頃には彼女が分かるような話を選ぶようになっていた。その心の変化に気付くほど、彼は自身の思いに聡くはないのだけれど。
さて、そこで問おう。
どうしてこんな事になってしまったのだろう?
「……、」
時計を見ると午後五時を回っている。
いつからここにいたのかは不明だが少なくとも一時間二時間などでは済まないだろう。その時間はそのまま、青年と少女が共に話していた時間を示していた。
何を話したのだろう。思い返してみると他愛も無いネタばかりだった気がする。
「…………、」
「椥?」
夕日に照らされた少女の横顔。淡い橙の光が彼女の白い服を包み込んでいる。……その穏やかで優しい光の所為なのだろうか。何だか、殺す気が失せてしまった。
別に彼は殺し屋ではない。少女を殺さなくてはいけない理由は何も無いのだ。
あまりにも長過ぎる人生なのだから一度くらいはこんな例外があっても良いだろう。
「……君、子供だろう。そろそろ帰ると良い」
僕も帰るから。そう呟いて自嘲する。
何処へ? こんな人殺しの化け物に、帰る家など無いと言うのに。
だけどこの少女は違うだろう。帰るべき場所があって、家があって、家族がいる。
光の下を歩くべき少女に、今から訪れる夜の闇は似合わない。
「……らない、」
だけど。
「……私は、帰らない」
だけどそんな化け物のすぐ横で、響いたのはか細い声。
ふと視線を移すと、どうしてか彼女は酷く泣きそうな顔をしていて。その時青年は少女の首筋や腕、服に隠れた肌に痣や傷がある事に今になってようやく気が付いた。転んだとか、そんな理由では片付けられないような酷い怪我が。
「帰らない……、」
俯く少女はコートを握る手に力を込めた。小さくて、頼りない手。
初めは、ただ面倒だと思った。
次に、笑顔は普通の子供と何ら変わりないのだと感じた。
そして今は、こんなにも泣きそうに肩を震わせている。
「椥は、帰るのか」
確認するように、小さく呟く少女。
その瞳は縋っていた。まるでマッチ売りの少女が、消えゆく灯火を見て最後の一本に手を伸ばすような。
伸ばされたのはあまりにも小さな左手。
追い縋るように、行かないでほしいとせがむように。
彼女の目は決して濡れてはいなかったけれど、涙を流したりはしなかったけれど、その心が上げた確かな悲鳴を聞いた気がした。
「……君は、どうしたいの」
だから、冷えた心を温めるように、少女の手を取った。
命を奪う目的以外で誰かに触れたのは何年ぶりだろう。
そんな事も分からないくせに、自分は一体何をしているのだろう。
分かっている。これはきっと気紛れで、泡沫の幻のようなものだと。
「一週間、」
掠れた声が絞り出される。
一見すると傲岸不遜で、それなのに何かに怯えた小さな小さな女の子。
彼女は青年を──“莉窮 椥”を見上げ、こんな事を言った。
「一週間で良いから。一週間で、ちゃんと、区切りを付けるから。だから、」
一週間だけ、一緒にいてほしい。
それが彼らが交わした約束。
全てを失った彼女の願いと、全てを捨ててしまった彼の思い出の証。
「自分の中で整理が付いたら、帰る。それまでの間だけ……お願い……、」
まるで自分に言い聞かせているかのようだった。
きっと誰かに甘えた事なんて一度もなくて、どうすれば良いのか分からなくて、やっとの事で吐き出したのが『一週間』という期限だったのだろう。
気紛れな青年は、その手を振り払わなかった。振り払う事が──できなかった。
「今日から、七日間」
「……!」
「本当にその間だけなら、君と一緒に過ごしても構わない」
だって、気付いてしまったから。
彼女は独りでいるのが怖いのだと。それは、かつての自分と同じだと。
世界で独りきりだった少女と、この世でたった一人だった化け物。
救われたのは、どちらだったのか。
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