第1話
良く晴れた春の日だった。
柔らかい陽射しが差す昼下がり、街を行き交う人々の声がやけに遠くで響いている。
そんな、街の、裏路地で。
「これでめでたく……何人目だったか……まぁ向かって来るのは構わないけど、身の程は弁えた方が良いんじゃないか」
恐ろしく静かな空間だった。
そこには一つの惨劇が口を開けている。
欠伸でもするような退屈そうな調子で佇むのは二十代前後にしか見えない青年。何処か妖しげな美しさを持つその風貌は闇に包まれていて不明瞭だ。路地裏とは言え昼間の、それもこんな晴天の中でここまで暗いはずがない。だと言うのに、闇は光の殆どを呑み込んでいる。
彼は本当に面白くなさそうに、片手で掴んでいたものを無造作に放り投げる。それはコンクリートの壁に叩き付けられると呻き声を上げた。
「ぅ……あ、ひっ、人殺し……!」
べっとりと付着した赤い液体。辺りに充満する鉄の匂い。
そして積み上げられた──人間の死体。
現代社会においてそうお目にかかることなど無いであろうそれらは、まるで粗大ゴミか何かのように打ち捨てられている。
四肢が砕け、目玉が落ち、臓物を飛び散らせて。いっそ、チープなスプラッター映画でも連想出来れば笑い話にでもなったのかもしれない。目を焼くような赤も、鼻腔を侵す鉄の匂いも、フィクションであったのなら、どれほど。
「たすけて……助けてくれ! 誰か!!」
最早感覚が麻痺してしまっているのか、地面を這う男はその異常な空間に嫌悪感を抱く事すら出来ない。
恐怖。
たった一人でこの惨状を作り上げた青年に純粋な恐怖を抱いている。
逃げ出そうにも男の両足は通常ではあり得ない方向に捻じ曲がっており、立ち上がる事すらできない。折られた、などという生易しい表現では許されなかった。プレス機か何かで挟んで、肉や骨の区別などなく粉々にされたかのようだった。
無様に地面に這い蹲る様はまるで羽を捥がれた昆虫のようで。どれだけ喚いたところで、泣き叫んだところで、誰も来ない。死に行く虫けらの未来など、気に留める者など存在しないのだから。
「俺は、ただ、通りかかっただけだ! それなのに何で、何でぇ!?」
半狂乱になった男は青年を指して喚き散らす。
顔中があらゆる粘液で醜く汚れている。必死に地面を這う度にべしゃべしゃと水っぽい音が反響した。
汚らしい地面に転がる腕、足、指、腰、そして頭。
バラバラになった哀れな被害者達、その末路。それはこの男の数刻後の姿でもある。
「……何で? 何でって、何が?」
悪鬼が近付いてくる。本当に不思議そうに。
悪戯半分で昆虫を殺してはいけないと母親に言い聞かせられる子供のように。
それはいっそ、退屈そうにも取れる表情だった。
彼は男の頭を掴むと片足で腹を踏み付ける。そこに憎しみの色は無い。かと言って歓喜の色も無い。それは作業だ。ゴミをゴミ箱に捨て入れることと何ら変わらない。
「───、──────。」
そんな、と。それを聞いた男は限界まで目を見開いた。でも。まさかそんな、そんなことで。
……それで分かった。自分の命乞いは、初めから何の意味も持たないことを。後悔したところでもう遅い。もう全部手遅れだ。男を救う為の蜘蛛の糸は、男自身が千切り捨てていたのだから。
「目に付いたから殺す──それだけで十分過ぎる理由だろう?」
直後、何十もの細い管を引き裂く音と共に、男の首は胴体から引き千切れた。
「……彼は、良かった。あれくらい踠いてくれると良い」
血の匂いを纏わせながら青年は住宅地を歩いていた。
どう処理したのか、彼が着込む黒いコートに返り血などは見られない。
透き通るような恐ろしく白い肌に、色素の抜け切った白い髪。それを鮮やかに彩る赤い瞳。見る者が見れば、美しいと称したかもしれない。そんな容姿をした青年だった。
彼を悪魔と呼んだ人間もいれば、死神と称した者もいる。そうしたいくつもの蔑称はあれ、青年に名前は無い。とっくの昔に忘れてしまったからだ。
名前の無い殺人鬼。そうである前に、彼は不老不死の化け物だった。
老いもせず、死ぬこともなく。ただ一人で生き続けて。
気が触れる前にと、命を断とうとした回数は数え切れず。
毒を呑んだこともあった。ナイフで心臓や動脈を抉ったこともあった。首を斬り落としたこと、身を投げたことも、こめかみを撃ち抜いたことも、首を括ったことも、自身に火を付けたことも。
だけど死ななかった。死ねなかった。そうして、彼以外だけが彼を置いて変わっていく。
「……、」
そうして気付いたら彼は殺人鬼で、気付いたら彼は化け物だった。
何故こんな事になってしまったかなんて本人にももう分からない。
ただ何処かで運命とやらの歯車が狂ってしまったのだろうと、そう思う。
彼自身はそんな事を不審に思う段階はとうに過ぎてしまったし、今になって己の在り方を見つめ直したところで意味はないことだった。
「さて……次はどうするか」
適当に辺りを歩き回りながら一人ごちる。
ちなみに彼の“次はどうするか”とは『次はどんな人間を殺そうか』という意味を持つ。
理由も意味もない。ただ視界に入ったから手に掛ける。生物が呼吸をしなければ生きていけないのと同じように、彼も命を奪うことでしか己の生を実感出来ないだけの話。少なくとも彼は、自身の行動をそう信じて疑わない。
「……ん、」
そんな死神の視線の先。
桜の花びらが舞うそこに、幼い少女が立っていた。
十歳前後といったところだろうか。少女は何かに取り憑かれたかのように桜の木に見入っている。
一本一本が美しく光る艶やかな黒髪、頬は薔薇色に染め上げられた透き通るような肌色、そして漆黒の宝石のような輝きを宿す瞳。
白いブラウスとミニスカート、それと対になる黒いストッキング。
アンティークのピアノのような印象を突き付けてくる服装の少女だが、幼さの割にそれに違和感を感じないのは彼女が纏う雰囲気ゆえか。
名前の無い殺人鬼は、気配を消してふらりとその少女に近付いた。
住宅地だから騒がれるのは面倒だと、確かそんな理由だったと思う。
幸いにも少女は桜に気を取られたまま。
彼は人殺しである前に魔術師だ。
魔術とは、人の身を超えた現象を起こすもの。
己の中で精製したエネルギー、即ち魔力。それを特定の理に従って放出することで生まれる神秘を指す。
彼自身、それを使って姿を消す事もできるし勿論一瞬で誰かの命を奪う事も可能とする。
ただ、人を殺す際にそれを使わないのは何となくつまらないからだ。
悠久を生きる上での唯一の娯楽。それが未知の力で一瞬で終わってしまっては、何とも台無しというものだろう。
(……気配遮断の術を)
気配も、姿も、声も、全て。魔術師としての力を使い、完璧に消し去る。
直ぐには殺さず一瞬で少女を昏倒させる為、彼は一歩ずつ近付いていく。
それは死神の歩み。彼がこれまで歩んだ道には哀れな被害者達の亡骸が転がっている。例外など無く、ただただその力を人殺しの為だけに振るってきた。
これから先も永遠にそれは変わらないのだろうと思っていた。
それ、なのに、
「……?」
くるり、と。何の前触れもなく、少女は不思議そうに振り返った。
横顔しか見えなかったので気付かなかったが、人形のように美しい顔には包帯が巻かれている。目を中心に、顔の左半分を覆い隠すようにして。
どうしてこのタイミングで振り返ったのかは分からなかったが彼女が青年に気付くはずはない。
構わずに手を伸ばそうとしたところでしかし、少女は信じられない事を口走った。
「何だ、お前」
少女は間違いなく青年を見上げ、彼を指差し、軽く小首を傾げながらそんな事を言ったのだった。
見つかるはずがないと思い込んでいた青年は何年ぶりだろうか、心底ぎょっとしたのをよく覚えている。
「……は? 何で?」
赤い瞳を瞬かせ、彼は誰にともなく呟いた。
それは桜散る春の日。
二人が出会った日の物語。
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