私が交わした彼とのルール

いわしぐも

彼との約束

それは、大学1年の2月、集中講義という1日を通して行う講義の帰りのことだった。

夕方近くまでの講義を終え、帰り始めた頃にはすっかり夜だった。

そのため普段は狭い路地を通って最短距離を歩くところを、大通りを歩くことにしていた。それは正しい判断であるのだけど、その日だけは間違いだった。

信号待ちをしていた所に突っ込んできた居眠り運転の大型トラックに衝突され、私は意識を失った。


意識が戻り、感覚がはっきりし始めると共に、すぐにおかしいことに気が付く。

下肢の感覚がないことに。そして、全てを察した。私の足はもう動くことはないのだと。そして、大好きだったバスケはもうできないのだと。

この日まで毎日お見舞いに来てくれていた母は、目覚めた私を見て、そして、右腕があった場所を見て、泣いていた。

あまりに泣くものだから、私は気丈に振舞って、涙を堪え、母の頭を撫で、


「ねえ、お母さん。私、左利きも悪くないかも」


なんておどけてみせたら、


「そうかもしれないね」


と、母は泣いたまま、ニコッと笑みを浮かべた。あぁ、だめだなあ。

やっぱり、涙は堪えきれそうになかった。


その後、病室に来たお医者さんから障がいのことや、その他に追った怪我の療養で、およそ1か月間の入院をする必要があることの説明を受けた。

リハビリ次第では、歩行も何とかできる程度には回復するとのことであったが、私の心は沈み切っていた。リハビリ頑張ったって、バスケはできないんだと。


それからの入院生活であったが、バスケができないことに絶望していた私は、リハビリを頑張ることができなかった。

その結果、麻痺した下肢は、足を軽く動かせる程度にしか回復しなかった。入院期間も1か月延び、4月に退院を迎えることになった。

なんとか一人で車椅子での生活が送れるようになったことで、大学も復学できるようになったことは幸いであった。

その頃には最初の卑屈な考えは多少まともにはなっていたが、と言うのが口癖のようになっていた。


大学に復学して最初に向かったのは、バスケサークルであった。

サークルをやめる旨を伝えに行くために。

そしてその日、彼に出会った。


今まで気がつかなかったが、体育館に入るためには長いスロープを登る必要があった。

思わずため息を付きつつ登ろうとしているところに、私の前に回り込んで来たのが彼だった。


「押しますね?」

「え、あ、ありがとう……?」


彼は私と同じ目線まで屈み、そう言ってくれた。彼は人懐っこい顔をした、柴犬のような人だった。


「どこまでですか?」

「えと、バスケサークルに用事があるんだけど」

「だったら同じなのでそこまで」


そう言って後ろに回り動かし始めた彼は、そういったことに慣れているのか、動かし方がとてもスムーズで、入口にある小さな段差を超えるときも、私に負担が来ないように気遣ってくれていた。


「あなたは1年生? 見ない顔だけど」

「そうです。バスケサークルに入ろうと思っていて」


そんな会話をしつつ、彼と共に練習中のコートに入った途端、シューズの擦れる音とボールの音、掛け声で溢れていたコート内が静まり返った。


「はい! 練習続けて!」


副部長の明日香さんの声をきっかけに、いつもの騒然としたコートに戻り始めた。こっちの方が私としても有り難かった。


「私、サークル辞めます」

「そっか。でも、辞めなくたって彩ちゃんにも出来ることをすればいいよ」


辞めることを切り出した私に、明日香さんは穏やかな声色でそう言ってくれた。無責任に返した言葉ではなく、彼女なりの優しさを感じられた。だけど、


「私なんかに出来ることはないですよ」


それが私の本心であった。

いつの間にか隣に来ていた彼は、その間、黙って話を聞いていた。


「ほら、明日香さん。サークルに入りたいって子が来てるんです。私なんかのことはいいですから。私はこれで失礼します」

「わかった。でも、いつでも戻っておいでね」


そう言って私は体育館を後にした。帰り際に見えた明日香さんの泣きそうな顔と、何故だか不満そうな彼の顔が頭から離れなかった。


それから1週間ほどが経ったとき、彼と再会した。


「彩先輩」

「あれ? あの時の新入生の……」

「南 太一っていいます。」

「そっか、南くん久しぶり」

「太一でいいですよ」


普段は母のお弁当だったが、たまたまその日、学食でお昼ご飯を食べに来ていたところに新入生、改め太一くんと再会した。苗字で呼んだらなんだか不満そうな口調になったのは気のせいに思う。


「えと、太一くん 私なんかの名前よく覚えてたね?」


驚きを隠せずそう言うと、彼は一瞬不機嫌な顔を浮かべた。今度は私の気のせいではなかった。


その後は、何度か学食で会うようになり、しばらく経つと、お弁当の日も食堂で一緒に食べるようになっていた。彼と話すのは楽しく、いつも明るくさせられていた。人懐っこい笑顔を浮かべる彼を見るたびに、私も嬉しくなっていた。

思えばその時から、彼のことが好きになっていたのかもしれない。


そんなある日、彼と交わした約束ルールのおかげで私の人生は変わった。


「彩先輩、車椅子バスケやってみませんか?」

「ええ、私なんかできないに決まってるよ」


車椅子バスケ。知らないわけではなかったが、私は、自然とできないと決めつけてしまっていた。

だから、無理だと彼に言ったのだが、彼は、初対面の時に見た不満そうな表情を浮かべていた。


「あとそれ、やめませんか?」

「え?」


「私なんかって言うの、やめませんか?」


私はハッとさせられた。事故に遭ってからずっと、”私なんか”と自己否定をし続け、自分からずっと逃げていることに気付かされた。

そして彼はそれがわかったから、あの時不満な表情を浮かべていたのだ。


「約束ですよ。破ったら一つだけ言うこと聞いてもらいますから」

「うん。約束する。ぜっっったい言わない」

「それはそれでムカつきますね」


私はその日を境に逃げることをやめた。最初は罰ゲームにビビッて言わないようにしていたことが、気が付けば自然に言わなくなっていた。

そして心が前向きに、晴れやかな気持ちになっていた。


その後、話を聞くと、彼の母は車椅子バスケのチームに参加しているという。

彼と初めて会ったとき車椅子の動かし方が上手であったのはそういう理由からであった。

その縁もあり、彼の母が参加しているチームに参加し、最初はもう二度と出来ないと思っていたバスケをもう一度取り組むことができた。


「ぜんぶ太一くんのおかげだよ」

「彩先輩の努力ですよ。よく頑張りました」

「そんな、私なんて……あっ!」

「あ! はいっ、僕の言うこと何でも聞いてくださいね?」

「き、聞くだけで、やるかどうかは別だよ!?」


そう言って私の前に回り込んで、目線を合わせる彼。

私の言うことはちっとも聞いていない。

普段の彼らしい人懐っこい笑顔はなく、真剣な表情を浮かべる彼に、一体どんなことを言われるのかと身構える私。


「僕とお付き合いしてくれませんか?」

「えっ!? その……私でよければ喜んで」

「やった! でもそこは、私なんかって言うところですよ」

「なんで?」


いつもの笑顔を浮かべた彼は、私の耳もとに口を近づけ、


「そしたら彩に、キスをお願いできるから」


柴犬どころか、彼はとんだ狼だった。
















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私が交わした彼とのルール いわしぐも @iwashinokumo

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