第十四話 侮り
―――ガウッ!
不意に、巨狼が短く吠える。
その意図を察し、モニカは手綱を引いて減速するよう指示を出した。
疾走から一転して、巨狼と二人の
人間の匂い。
人間の血の匂い。
食欲を刺激する芳しい香りを敏感に感じ取り、モニカは思わず固唾を飲んだ。
程なくして、目的の
暗い森の中を、一人の少女が歩いていた。
女性型の
彼女が手に掲げたランプの明かりが、森の闇を円形に切り取っている。青白い光が照らし出す小柄な肢体は細く、それでいてしなやかだった。コルセットで絞られた腰は魅惑的な
彼女が身に着けているのは何の変哲もない給仕用の衣服だが、腰から下が不自然な赤い斑模様で汚れている。
袋には解体されてから間もない新鮮な肉が詰められている。強烈な鉄錆の臭いを辺りに巻き散らしながら、少女は黙々と森の中を前進していた。
―――明らかな
(あんなあからさまな手に引っかかると本気で思われてんのか、あたし達は!)
端整な顔を苛立ちに染め上げ、怒りを通り越して呆れ返る。
人間は亜人を差別する。
選民意識が強く、自分達と異なる種族である亜人を畜生と蔑んで憚らない。それでいて捕らえた相手が見目麗しい女ならば、平気で
無論、差別意識なら亜人側にもある。
そもそも〈太陽〉が現れる前は彼等こそが人間を家畜同然に扱っていたのだ。夜を追われ迫害される立場に堕ちた今でもそれは変わらず、自分達に比べて身体能力が大幅に劣る人間を見下す向きが強い。
しかし
陵辱するなど以っての他だ。
驕り高ぶった態度で、敵手を嘲笑うようなことはしない。
だからこそ――この罠を仕掛けた人間の稚拙な思惑が、酷く
故に、モニカは
その後方――馬鹿な獣を釣ろうとほくそ笑んでいる、
(……数は二十弱。人間の騎士が二人。男と女。あとの残りは全員、
発達した嗅覚を武器に、冷静に敵情を分析する。
ハンドサインで仲間に待機するよう命じてから、手綱を打ち、相棒に先陣を切るよう指示を出す。
山中を駆ける巨躯。迅速に、それでいて隠密に。
危険を冒す必要はない。このまま全速力で駆け抜けて、全速力で獲物を
気付かれないよう、迂回して森の中を行軍する。
モニカは樹脂製のレンズを煤で黒く塗ったゴーグルで両目を隠している。忌々しい〈太陽〉の光は問題にならない。
狼も同様に、黒い帯状の目隠しを頭部と首に巻いている。騎手が操るための装具を兼ねており、手綱はそこから伸びていた。
(―――今だ!)
手綱を打ち、獲物目掛けて騎獣を全速力で走らせる。
疾駆する巨狼。瞬く間の内に、彼我の距離が縮まる。
ゴーグル越しに映るモニカの視界に、鎧を装備した二人の人間と、簡易な軍服を着た
あと少しで牙が届く。
その瞬間―――
「―――
侮蔑と嘲笑に満ちた、悪意ある人間の声を聞いた。
「―――――ッ!?」
閃光。轟音。そして、衝撃。
視界が真っ白に塗り潰され、鼓膜が痺れて用を為さなくなる。突然の事態に、モニカの頭が酷く混乱した。分かることと言えば、全身を襲う打撲の痛みと、頬に触れる硬い感触だけ。
モニカの身体は、狼の背から地面の上へ放り出されていた。
「くそ……な、にが……」
くらくらと揺れる頭蓋。耳鳴りで頭が割れそうだ。
けれどそれも長くは続かない。視界は少しずつ色を取り戻し、焦点が合う。耳が正常に外界の音を拾うようになる。無論、鋭い嗅覚は健在だ。
獣の血の臭いはしない。相棒である狼が無事なことを悟り、モニカは安心する。
「サラハヴァ……―――があっ!?」
隣に横たわった家族に手を伸ばそうとして。
指先が触れる前に、モニカの上半身が跳ねる。何者かによって顔面を蹴り上げられたのだ。
それが誰か――語るまでもない。
「おっと、靴が汚れてしまった。拭いてくれないか」
「お断りします。私もそのような穢れに触れたくはありません。ご自分の
お道化た男の声。それに応える女の声もまた、嘲りを孕んでいる。
鼻血が滴り、口の中に入り込む。舌に滲む鉄錆の味を吐き捨て、モニカは上体を起こした。図らずしも、先程の一撃で麻痺していた肉体に活が入った形だ。
ゴーグルの黒いレンズ越しに、目の前に立つ人間を睨め付ける。
そこにいたのは長身の男。
手入れの行き届いた長い金髪を後ろに撫で付けた、精悍な顔立ちの人間。端整な容貌は絵物語の騎士そのもの。如何にも涼し気な優男だが、その印象に反して意外に筋骨隆々な性質であることが窺えた。
だがその一方で、形の良い切れ長の眼に嵌まった瞳は如何にも邪悪な色を湛えている。
闇を思わせる澱んだ金色の瞳。
貪欲な獣の眼。その本性が垣間見える眼だった。
その傍らには、女が控えている。
男と同様の金髪を、肩甲骨の辺りまで伸ばした女だ。見惚れるほどの美貌とは裏腹に、その双眸に宿る碧い瞳は、ぎらぎらとした悍ましいほどの嗜虐的な輝きを湛えている。
二人は揃いの恰好をしていた。
防刃繊維で編み上げられた上等な白服の上に、手足や胸、胴などの要所のみに銀色の鎧を装備している。そして腰には剣。紛うことなき騎士だ。
両者の鎧と、供回りを務める
ゲヴランツとマジパナ。第005号砦を守護する精鋭である。
そして、彼等の頭上には―――
「―――おい。嘘だろ」
呆然とした声。
それが自分の喉から漏れたものだと、モニカは気付かなかった。
〈太陽〉が放つのと同じ青白い光が網膜を焼く。ちりちりとした不快な痛み。出力に差異はあれど、
顔に掛かる指の影。
その隙間から、そこに在るモノを見上げる。
天空を背に、悠然と浮遊するソレは……―――天使だった。
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