第9話 悪夢の女王
太陽を作ったが落ちてあたりは暗くなり、またニャーマトゥが活動できる時間がやってきた。ニャーマトゥは鉄道のすぐ近くの小山におぞましい巨体を横たえ、全身をぶるぶる震わせていた。タコの触手のようなものが何百本も地上に伸びて、ぞろぞろぐちゃぐちゃと気味の悪い音を立てている。何十という胃袋が獲物を噛み砕いて、租借するような音、何百本もの腕が絡みつくような音、何個もの口がべちょべちょと何かを味わうような音がそれに重なる。
ニャーマトゥはゆっくりと動いていた。その体は鉄道の線路から数メートルしか離れていない。ティムはじっと待った。粗末なリンベをまとい、一本の槍を手にしている。聖別された槍。それがニャーマトゥに立ち向かうティムの唯一の武器なのだ。
ニャーマトゥが動くのは数分だけ。そしてニャーマトゥが今の位置から十メートルぐらい動いた時こそ逆転のチャンスだ。
百メートル離れたところで、機関車がゆっくり動きはじめる。そしてニャーマトゥが十メートル動いた瞬間を狙って、それを踏みにじる。いかに古代の邪神といえ、巨大な鉄のマシンに踏みにじられたら、どうしようもあるまい。
もちろんティムは危険である。最後の瞬間までニャーマトゥを動かさないようにしなくてはならないのだ。タイミングが合わなければ、ニャーマトゥといっしょにはね飛ばされる。かと言ってタイミングが遅くてもいけない。ニャーマトゥに裸身を蹂躙されてしまう……。
だから最後の瞬間まで、ティムは逃げることができない。この怪物と心中する覚悟が必要なのだ。
ぶしゅうううう……。
機関車が動き出す気配がした。ゆっくり、きわめてゆっくり、動輪が回り始める。ティムははっとした。機関車の動きのチェックは何回もやった。こんなに遅いはずはないのだ。
気になって自分の体を目にしたティムはぞっとなった。体が動くにくくなってる! 足が妙に重くなったようで、動かしにくい。眼球の動きものろくさく、瞬きもしにくい。どうなっているんだ!
時間をコントロールされている。信じられないことだが、そうとしか思えなかった。ニャーマトゥは時の流れすら操られるのか!
今はティムはのろのろとしか動けない。ニャーマトゥの動きものろくさく、ほんのちょっとの動きさえ、何十秒もかかってしまう。したがってニャーマトゥの姿が絶えず変形するのも、まるで微速度撮影で取られた植物のように見えるのだ。
その変形に奇妙なゆらぎが見えた。ニャーマトゥの体の一部が寄せ集められて、何か人間のように見える姿になったのだ。見ているうちにそれは女になった。肌は浅黒く、混血のようだ。にこやかに笑ったその顔はやけに美しく、ティムはその顔に思わず魅了された。それもそのはず、その娘の顔は自分にそっくりなのだ。
しかし人間のように見えるのはそこまでだ。下半身はグロテスクな怪物の集合で、ゆっくりとうごめいている。
『はじめまして、お父さま』娘はティムそっくりの顔で微笑み、先住民語でささやいた。『いえ、お母さまかしら? どっちでもいいわ。男か女かなんて些細な違いにすぎないんだもの。あなたはあたしを産んだ。それだけでいいじゃない?』
『ビューボラ……』ティムは唖然としたこえでつぶやいた。『だって……君はまだ生れていないはずだ!』
ビューボラはけらけらと笑った。『そんななことを気にするの、お父さま? いや、お母さま。どっちが先かなんて、しょせん白人が決めたことじゃない。そんなのは私の中にはないのよ。夢の中、悪夢の中では、なんだって起こるのよ』
『そんな……』
『さあ愛し合いましょう、お父さま、お母さま』
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