第7話 邪神の花嫁
途方もない巨体をじわじわと這い進めながら、ニャーマトゥはその全身をゆっくりと現した。ティムに比べればその歩みは遅く、ようやくその下半身が見えてきたところだった。しかし、大きさの対比はほとんど絶望的とさえ言ってよかった。ニャーマトゥの足は一歩ですら人間の何十倍もあり、軽く踏んだだけで人間なら数十人を踏み潰すことができそうだった。その巨体に生えた何十本の腕が軽く一振りするだけで、たくさんのかぎ爪が肉を引き裂いてしまうだろう。
だからティムは走るしかなかった。こんな大きな敵に対しては、ナイフも槍も効果がありそうにない。彼にできるのはただ逃げ延びることだけ。ニャーマトゥは悠然と追ってくる。人間の駆け足よりはるかにゆっくりとした歩調で。しかし、その歩幅は人間より大きい。このままではティムは追いつかれてしまう。
そこへマギーが愛馬を蹴って駆けつけてきた。ニャーマトゥの巨体を寸前でかわし、前に出る。そしてすかさずティムの腰を強く抱くと、ニャーマトゥの何倍もの速さで前方に走った。
「うおう・ひぃん・くんがぁ・まり・いんみにゅむ!」
もう少しで手に入れることができた少年を目の前でかっさらわれ、ニャーマトゥは吠えた。
「ぎょあり・かんか・のーみてぃま!」
アランも後を追ってくる。追跡者の一人から馬を奪い、ぴったりとニャーマトゥの後方につけていた。エリックたち追跡者もそれに味方した。時おり、断続的に発砲してくるが、やはり効果はないようだ。ニャーマトゥは銃弾など気にかけていないようなのだ。
「くのん・いんりんか・のうてい・んめ・まか! ふんぎ・でぃ・にゃーまとぅ・やんに・ぼんば・いふす!」
「何なの! あいつは何て言ってるの!」馬を全速力で走らせながら、マギーは尋ねた。「何であなたを追ってくるの!」
「あのう……」ティムはさすがに言いよどんだ。「僕が可愛いもので、ノーミティマ……そのう……花嫁にするつもりだそうです」
「はあ! 花嫁って、あなた男の子でしょう!」
「可愛い子供なんでどっちでもいいそうなんです。男か女なんてニャーマトゥには関係ないんです。どっちでも愛することができます」
「何てこと!」
一瞬、あまりのおぞましさに、彼女は震え上がった。
「そん・りふぃる・のーず・でぃくら・えーりあ・まてぃす! うな・ぼん・まけんれ・きのて・ねしす・ごもりー・まんふ・いじす・もーな!」
ティムはなおもニャーマトゥの言葉を訳し続けた。
「僕をどんな風に愛するのかと言ってます。裸にして、昼も夜も、疲れ果てて倒れるほどに……」
「まんに・ほりゅ・けみゃり・ひんど! がん・しふま! えりな・あんしょ・てんに・ぼんば・いふす!」
「あいつは僕の……その……ピマピマと腰をいじって……あのう……」
ティムの言葉は不意に途切れた。その顔はなぜか真っ赤になっている。ニャーマトゥの愛の言葉があまりにも露骨すぎて、訳せなくなったのか。
それから何時間も、ニャーマトゥの少年に対する熱い愛の言葉は続いた。あの岩塊が爆破された箇所を中心に、半径一キロから二キロの範囲を、ぐるぐると回っているようだ。さすがにマギーも愛馬も疲れてきた。しかしニャーマトゥは疲れを知らないようだった。どんなに走っても疲れたようすはなく、じわじわと距離を詰めてくる。このままではあと数分でティムは何百というニャーマトゥの触手に奪い取られてしまうだろう。
そうなった時にいったいティムの身に何が起きるのか、マギーは想像したくなかった。
そして東の空に朝焼けが広がりはじめた頃、唐突に追いかけっこは終了した。すうっとニャーマトゥの影が薄くなり見えなくなってきたのだ。
「ぐぼっ、ついもん? すくめ・やむ・のーみてぃま・れんす・いーのうれ・んすてら・みんらん……」
太陽の光が少しずつ強まってくると、ニャーマトゥはしだいに薄れ、ついには消えてしまった。
「やれやれ」ようやく死のレースから解放され、マギーはほっとしていた。「ようやく諦めてくれたわね、あの化け物」
「いいえ、まだです……」
ティムの顔は疲れ果てていた。
「まだ?」
「朝になったので、ニャーマトゥはいったん帰っただけです。明日の夜にはまた来るんだそうです。花嫁を……つまり僕を連れて帰るまで、決して諦めないと……」
「なんて奴なの!」
「まあ、どんな奴でも、決して許しはしないがな」
アランが馬を下り、ようやく疲れから解放されたように大きく背伸びをした。
「しかし、どうやって倒すかな。銃も効かないんじゃあ……」
「アラン、あなた、消えかけてる……」
マギーが震える声で言った。アランの影が薄れて消えつつあった。
「ああ、俺も時間切れらしいな」
アランは薄れてゆく自分の影を見下ろし、苦笑していた。それを見ていたのはマギーだけではない。追いついてきたエリックたちや作業員たちも目撃していた。
「ああ、アラン……」
「そんなにしんみりとしないでくれ」アランは笑っていった。「俺はただ、夢の世界に戻るだけだから。たぶん、また夜になれば会えるだろう」
「でもアラン……」
「ただ、その前にあいつにとどめを刺す方法を見つけなくちゃな。この少年を犠牲にするわけにいかないしな……」
そう言うとアランは消え失せた。エリックたち作業員はぽかんとしてその現場を見つめていた。
マギーは静かにすすり泣いた。
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