第2話 先住民の伝説
マギーの家は建設が進む線路から約一五〇〇メートル、労働者たちの住む区画とは対角線上に位置していた。他の者が訪れようとしたら、必然的に線路をまたがなくてはならない。これは労働者が気軽に立ち寄れないようにという配慮だった。労働者たちの宿舎には酒場や食堂が併設されており、柄が悪い連中がたむろしている。マギーは彼らと必要以上に関わらないことにしていた。
ちなみに線路が延長されるたびに、宿舎や酒場はそれに併せて何マイルも移転することになっている。マギーの家もすでに二度も移転している。
その家にマギーは黒人の使用人フェリスと二人暮らしだった。ティムを連れて帰ると、フェリスは驚き、困惑した。
「お湯を沸かして。たっぷりの」マギーは早口でフェリスに命じた。「この子をお風呂に入れなくちゃ。それと裁ちバサミを用意して。髪をきれいに切らないと。それが終わったら夕食ね。ああ、缶詰のスープを開けましょう」
フェリスがハサミを取ってくると、マギーはさっそく散髪に取りかかった。伸びすぎた髪を眉の高さでばっさりとカット。ティムは反抗せず、されるがままになっていた。
その間にフェリスが薪を炊き、水を入れた容器にたっぷりの湯を沸かしていた。それをドラム缶に移し、適量の水でいい湯加減になるように調整する。ティムはリンベを脱がされ、そこにざぶんと入れられた。
マギーはティムの全身にシャンプーをすると、くまなくタオルでこすった。皮膚にこびりついた泥汚れや垢をこそぎ落とすためだ。
だが、意外にもティムは清潔だった。昼間のマッドドッグ・デュガンのような荒くれ者の方が、泥と土の汚れと汗まみれで、よっぽど不潔なのだ。ティムは毎日、時には日に二度や三度も、清流で体を清めるのを日課として欠かさなかったからだ。少年によると、身体に匂いがつくと動物に気づかれ、狩りが失敗に終わる確率が高くなるからだという。
だが、マギーはティムの全身を細かいところまで徹底的に調べ、耳の後ろを洗っていないのに気づいた。もちろん、そこもごしごしこすられた。風呂が終わると、さらに全身をきれいに洗い流され、清潔なタオルで拭かれた。
着替えがまた大変だった。粗末なリンベをまた着せるわけにはいかない。しかしこの家に男の子に着せるような服がない。しかたなく、マギーは自分の女物の服を少年に着せることにした。半袖シャツぐらいなら、女物でもみっともなく見えまい。
しかし、さすがにパンツやシュミーズなどは貸すわけにいかない。結果的にティムは、素肌の上に女物のシャツをはおっているだけの恰好になった。ちなみに、少年の脚の長さは、半袖シャツとちょうど同じぐらい。普通に立って歩いているだけなら、素足はぎりぎり他人の目に触れない。
マギーの料理の腕はたいしたものだった。缶詰のスープや乾燥させた干し肉を使い、たっぷりのトウモロコシやジャガイモを使って味を付けた。「おいしいです」とティムは素直に感想を述べた。
「いつもと違って」
「いつもどんなものを食べてるの?」
「いろいろです。ングァやベンバやムボロコが多いですね。あとちょくちょくクドゥとかも食べます。果物ではイカムーとかマロンボとか。川で魚を捕ることも多いです」
マギーはそれらの先住民語を簡単に通訳できるほどには詳しくない。とりあえずティムは食事に満足はしているようだ。
用意したスープや干し肉をティムはきれいに食べた。もっとも用意したスプーンやフォークは使わず、がつがつと丸のままむさぼり、熱いスープを皿からごくごくと飲んだ。マギーは嘆息し、この少年の作法については細かいことは注意しないことにした。これはティムにとっての毎日の食事作法なのだろう。
食事が終わると、マギーは食後のコーヒーを勧めた。これもティムには初めての珍しい体験だった。マギーはたっぷりの砂糖を混ぜ、子供でも飲めるようにしてやった。
やがて食事が一段落つくと、ティムは自分のことを語りはじめた。自分が何のためにここに着たのかということを。
「ニィ・コンガ、つまり夢のお告げがあったんです」
ティムは白人が天気のことを語るかのように語った。当たり前のように。
「だって、こんな遠い場所のことなんて、他に知る方法がないでしょ? ああ、そうだった。白人には電話という魔法があるんでしたね。でも、僕たちのニィ・コンガだって同じくらい便利なんですよ」
「ニィ・コンガ?」
「僕たちの連絡法です。遠く離れた人と、夢で話し合えるんです。時にはとっくに亡くなってる人とかも」
「亡くなってる人?」
「ニィ・コンガには後とか前とか関係ないんです。僕も父さんや母さんとよく話しました。二人が亡くなったすぐ後ぐらいには……最近はあまり見なくなりましたけど」
「…………」
「それだけじゃなくて、まだ見てない未来も見えるんです。本当に見たのと同じように。ツェ・ヌクマが見たのもそんな感じのものだそうです。岩の中に封じこめられていたニャーマトウが、巨大な力で解放され、また復活するんだって。そんなことが起きたら大変です。だから僕がみんなに警告するために来たんです」
「ニャーマトゥ?」
「この地に古くからいるクーバ……精霊です。昔は多くの人に信じられたんだそうですけど、だんだんと疎まれていったんです」
「どうして?」
「人間にとって都合が良すぎるからです」
「都合が良すぎる?」
「はい。ニャーマトゥは夢を現実に変える力があるんだそうです。たとえば狩りで大きな獲物をしとめる夢見たら、それが本当になる」
「いいじゃない。それが良くないことだって言うの?」
「でも、その逆もあります。夢の中で恐ろしいことが起きたらそれが現実になる。ニャーマトゥにとっては何がいいことで何が悪いことかなんて、関係ないんです」
「ああ、なるほど……」
「しまいに、ニャーマトゥの力をみんな部族間の争いに用いるようになりました。夢で見たようなことがみんな本当になるんですから、もう大混乱です。そしてとうとう、カロハ・ジュジュという伝説の勇者が、天から大きな岩を降らせ、ニャーマトゥをその中に封じたんだそうです。でもニャーマトゥは死んだわけじゃなく、いずれ岩を砕いてよみがえると信じられています」
マギーにはまったく信じられない話だった。西洋にも「虫の知らせ」や「正夢」という概念はあるが、こんなにも生活に密着してはいないだろう。まして精霊とは! マギーのような科学合理主義者には受け入れられないことだった。
ふと疑問を抱いた。この少年の信念がこんなにも先住民の原始的な伝説に汚染されているのなら、文明人の科学や思想といったものはどうなっているのだろうか。もしかしてキリスト教信仰を否定するような口走ってしまい、頭の固い人を怒らせはしないか?
「あなたは聖書をどう思うの?」
彼女は軽く探りを入れてみた。
「聖書ですか?」
「ええ。知ってる?」
「それは知ってますよ。父さんも母さんも宣教師だったんですから。あいにく今では忘れてしまったことも多いですけど、いろんなことは覚えてます。エデンの園とか、バベルの塔とか、大洪水の伝説とか……ああ、もちろん、イエス・キリストのこととか」
「先住民たちに馬鹿にされたりはしない? 白人の邪悪な思想だって」
「いや、そんなことはないですね。ツェ・ヌクマなんかはけっこう楽しんで聞いてくれました。キリストの話とか面白がってくれましたよ。カロハ・ジュジュの話と似たところがあるって」
マギーは安心した。どうやら先住民たちはキリスト教の思想にも対しても心が広いらしい。
「それに僕もいろいろ学びました。毒蛇を避けるまじないとか、サソリを追い払うまじない。それにンプ・ピピヌン・ボンドの作り方とか」
「何それ?」
「すごく強い精霊と戦うのに必要な武器です。見かけは普通の槍なんですけど、あらかじめンプ・ゴイル・ヌーパを塗りつけて、シニンパにしておく必要があるんです。まともにニャーマトウと戦うのは無理だから、グウ・エリポみたいな方法を使うしかないって」
その理解する知るには、マギーはかなり回り道をしなくてはならなかった。ティムが使う先住民語には、容易に英語に置き換えられるものではなかったのだ。それでも質問を重ねるにつれ、シニンパというのはキリスト教でいう「聖別」のことらしいと、何となく見当がついた。頼りになる聖なる槍のことらしい。だがンプ・ゴイル・ヌーパとは何のことなのか。
ようやくマギーがその回答にたどり着いたのは、何分もたってからだった。それを知った時、彼女は強い衝撃を受けた。
ンプ・ゴイル・ヌーパとは、思春期の少年が淫らな夢を見て、生まれて初めて漏らす射精のことなのだ。
「もちろん、男なら誰でもヌーパは漏らしますよ」ごく自然なことのようにティムは言った。「ただ少年の初めてのヌーパ、ンプ・ゴイル・ヌーパは特別です。神聖なものと見なされているんです。悪霊を祓う力があるって。年を取って、ヌーパの回数が増えるほど力は失われていくんです。もっとも僕のようなシシルマ・リヌ・ムのような子供は、わずかに力が残るんだそうです」
「シシルマ・リヌ・ムって?」
「大人のように、ヌーパを何度も漏らしたりしない子供です。女の人とよくいっしょにいて、ピマピマをモチチに入れたりしています。でも僕はそんなことはまだそんなことはしていません」
つまり「経験者」のことか。
「ツェ・ヌクマは僕に女の人に近づくのを禁じました。僕はチャステテ・モレブ、神聖な戦士であるべきだと。僕が豹や毒蛇のようなジャングルの危険に傷つけられずに生き延びたのは、そのせいだろうって」
この少年の純潔が未開人によって乱されているのではないと知って、マギーはひとまず安堵した。
「それであなたは文明社会に帰る気はないの?」
「は? 文明社会に?」
ティムはきょとんとした顔をした。
「だって美味しい食事がたくさん食べられるのよ。おまけに近代的な医学もいろいろ。こんな野生の暮らしじゃあ、いろんな病気にもかかるでしょ。ちょっとした傷でも命取りになりかねない。文明社会の方がいいと思わない?」
「うーん」ティムは首をかしげた。「昔、父と母から聞いたことがあります。確かに白人のまじないはすごいらしいですね」
「まじない……」
「でも僕はタアンギ族のまじないにも慣れていて、そんなに不自由な感じはしないんですよね。なければないで、どうにか暮らしていけます。ああ、コーヒーは確かに美味しかったですね」
「コーヒーだけじゃないわ。文明社会にはいろんなものが……」
「煙草とか、酒とか?」
「子供にそんなもの奨めないわよ。他にはそう……おもちゃとか」
そう言ったものの、マギーはその先に詰まった。この世代の男の子には何を薦めるべきなんだろう? フリクションで走るパトカー? コルクの銃弾を発射するカウボーイのピストル? いや、この少年の気に入りそうなものには思えない。
「とにかく、あなたの知らないものたくさんあるのよ」
「どうなんでしょうね。僕の知ってるものなら、どれか欲しいという気も起きるんでしょうけど、知らないものに?……うーん、よく分かりません」
結局、この少年の信念を変えることは自分には無理らしいと、マギーは思い知った。ティムの思考パターンは、完全に先住民のそれになっている。
「いいわ」彼女は観念したように言った。「今後のことはこれから考えましょ。今夜はそろそろ寝る時間よ」
「はい」
だが、その夜遅く、二人の眠りは唐突な大音響によって破られた。
先住民がニャーマトゥを封じ込めていたと信じる岩が、何者にか爆破されたのだ。
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