地平線から来た少年

山本弘

第1話 ニャーマトゥ

 時は第二次大戦直後。

 長らく続いた戦争の傷跡からやっと癒えてきたこの時代、この赤道直下のアフリカ奥地にもようやく文明の光が射しはじめていた。まだ大地のほとんどは未開のジャングルで、電線もアスファルトの道路も通っていなかったが、それでもわずかずつではあるが進歩の足音が聞こえてきつつある。

 この地では今、鉄道の建設が急ピッチで進められている。数年前から鉄鉱石などの地下資源が埋もれていることは広く知られていたのだが、大戦後は急に需要が高まったのだ。鉱石を掘り出して輸送するための鉄道の建設が急務となり、多くの先住民が駆り立てられ、過酷な肉体労働に従事させられた。鉱山までの長い線路を建設すべく、何百キロものジャングルや悪路が切り開されていった。数十キロごとに大量に労働者のための宿泊施設や、気晴らしのため酒場や娯楽施設が点在している。鉄道が完成するにはまだ何ヶ月もかかる。それまでまだまだ労働者の苦闘は続くのだ。


「またマッドドッグ・アッシャーの奴がトラブルを起こしてるの!」

 この建設現場の医療責任者であるマーガレット・マッケンジーは、愛馬のハニーに鞭を入れて疾走していた。この現場でただ一人の白人女性であるマーガレットは、常に荒くれ男どもの好奇の視線にさらされていた。だが、そんなものに負けてはいられない。常に男の視線を蹴散らすように進んだ。隙を見せたら殺されるか犯される。決して弱弱しい「女らしさ」に逃避することなく、強い自分を演じ続けたことが、この地で生き延びられた秘訣だと思う。

「さもなければ、無口のコリーか、サソリのサイクスの仕業かしら」

 彼女が口にしたのは、この現場でちょくちょく騒ぎを起こす嫌われ者でトラブルメーカーの三人組だった。黒人のコリーは長身で細身、口数が極端に少なく、めったに人前に出ないが、よく派手な喧嘩をやらかしてしまうことがある。蛇のような冷たい視線で相手を半殺しの目に遭わせてしまうのだ。混血のサイクスは背が低く不格好。いつもサソリの入った小さなガラス瓶を持ち歩き、何かにつけてそれを他人に見せつけ、脅しに使っている。

 そしてマッドドッグ・アッシャー。彼は屈強な白人で、プロレスラーのような体型だ。この現場で誰よりも腕が立つ。その二つ名の通り、誰にでも噛みつき牙を剥く危険な男。現場監督エリックにはおとなしく従っているが、それはエリックよりアッシャーの方が強いことを意味しない。アッシャーはただ給料をもらえるからエリックに従っているだけなのだ。彼は普段、誰にも忠誠を誓わず、エリックをも下に見る態度を取っていることは誰でも知っている。

 そしてコリーとサイクスは腰巾着のようにアッシャーにつき従い、彼の言うままに行動している。だからマギーは彼らから目を離さない。この三人組から目を離せば、いずれ大きな厄介事を背負い込むことになりかねない。いつか自分が三人のうちの誰かに犯されるかもしれない。いや、三人組に輪姦されるかも。

 マギーは馬を止めた。流麗な動作で降り立ち、手綱を近くにいた作業員の一人に「お願い」と任せる。ここはこの工事現場の最も奥、数十人の労働者がごった返している場所だった。ごつごつとした大きな岩がいくつも転がっている地点だ。中でも特に大きいのは五メートル半ほどの岩で、掘り出されたまま、ごろんと投げ出されている。

 その岩の近くには大きなトンネルが掘られている。そのトンネルは岩山を貫いてすでに百メートル近くも掘られている。いずれ完成すれば複雑な岩山を一直線に掘り進み、地下を通って、完成後の鉄道の線路を大きくショートカットできるに違いない。そして掘削した岩盤を運び出すため、やはり貨物列車をトンネルの途中まで通すためのレールが敷かれていた。

 その岩はトンネル工事の最中に掘り出されたものだった。現場監督のエリックが「なぜこんなところにこんな岩があるんだ」とぼやいていたのを、マギーは聞いたことがある。まるで自然の岩ではなく、誰かによって埋められたように見えると。おまけに普通の岩にはありえないほど堅い。普通ならいくつもの岩に砕き、何個もに分けて運ぶところだが、この岩に関してはどんな道具も役に立たない。手間はかかるが、一個の大きな岩のまま貨物列車に乗せて運ぶしかなかったのだ。

 マギーは作業員をかき分け、彼らの先頭に進んだ。作業員の中にはマッドドッグ・アッシャーや無口のコリーやサソリ好きのサイクスの顔もあったが、以外にも騒ぎの中心は彼らではなかった。

 一人の少年だった。

 マギーははっとした。この場にいるはずのない少年だった。小麦色に日焼けして全身が土埃にまみれているが、紛れもなく白人だ。年の頃は十一歳ぐらい。文明社会でなら小学校に通っているぐらいの年齢だ。しかし文明の痕跡は何ひとつ身につけてはいない。腰の周囲にリンベという先住民の腰布をまとっているだけで、全裸とあまり変わらないスタイル。左の腰に革の鞘に包んだ短剣を吊し、右手に一本の槍を持っているぐらい。それが彼の武装のすべてらしかった。黒い髪は伸び放題で、生えぎわが女の髪のように見える。

 少年は高さ二メートルほどの紡錘形の岩のてっぺんに脚を伸ばして座り、激昂した作業員を睥睨していた。男たちは岩を取り囲み、口々に「そこをのけ」とか「作業の邪魔だ」などと叫んでいる。だが少年は男たちの怒りにはまるで平気のようだ。

「だめだ! ニャーマトウは怒らせるとたたりがある! クーバのニィコンガよりも恐ろしいユリガリでありアプタでありサイナイルデビルなんだ。どんな目に遭わされるか分からないんだぞ!」

 少年の言葉はよく知っている英語だった。だがよく分からない現地語が混ざっていた。それに、どこか不慣れな感じがする。まるで何年ぶりかで英語を話したような。

「ははあ、先住民のたたりか」そう言って進み出たのは、マッドドッグ・アッシャーだった。「そんなおとぎ話で俺たちの誰かがびびるとでも?」

 いきなりアッシャーは腕を伸ばし、少年の足首をつかもうとした。アッシャーの太い指に比べれば、少年の足など小枝のように細く見えた。マギーは一瞬、少年の足が巨漢の手にあっさり握り潰されるのではないかとひやりとした。

 だが、少年は一瞬早く脚を引っこめていた。目にも止まらぬほどの速さで体勢を変えたのだ。アッシャーの拳は岩の表面をひっかいた。アッシャーは慌てて連続パンチを放つ。しかし少年はチャールストンのような華麗な足取りでその攻撃をすべてかわした。そのたびにアッシャーの拳には細かい傷が増えてゆく。

 彼の背後で笑いが起きた。子供に翻弄されるマッドドッグ・アッシャーの姿がおかしかったのだろう。マギーもつい口元がほころんだ。

 アッシャーはかっとなったらしく、背後にいる作業員たちに、ぎろりと憎悪の目を向けた。

「何がおかしいんだ!」

 アッシャーを笑った連中は、気まずそうに目をそらせた。

 いよいよアッシャーは頭にきたらしい。突然、大きなピッケルを振り上げた。そんなものを振り回したら、少年の頭などあっさり砕けてしまいそうだ。マギーははっとしたが、少年は目にも止まらぬ速さで、腰の小さなナイフを抜き、アッシャーの足元に突き立ていた。その攻撃は的確だった。アッシャーはつま先に小さな穴をあけられ、ぴょんぴょんと跳ねた

 そろそろ自分の出番だろうか。マギーは前に進み出た。

「アッシャー、そこまでにしときなさい」

「ドクター……」

「かっこ悪いわよ。子供相手に」

 アッシャーは牙を抜かれたようになり、燃え上がった怒りの炎を誰にもぶつけることができず、悔しさを噛みしめた。さすがに女であるマギーを殴るわけにいかない。

 その時、騒ぎを聞きつけ、遅ればせながら現場監督のエリックがやって来た。

「アッシャー、またお前か!」

 そう言ってアッシャーを一瞥し、次に岩の上に立つ少年に目をやった。

「君は何者だ?」

「ク・ヘレ・ジャハラ」

 といったんは名乗ってから、彼は少し言いにくそうに言い直す。

「あの……ティモシー・ブルースです」

「ご両親は?」

「死にました。五年前に」

 作業員たちがかすかにざわめく。

「それからはツェ=ヌクマが――タアンギ族のガルモ・ジェールが僕のソルベです。今日もツェ=ヌクマのボソン・ト・ジールとしてやって来ました。みんなにニャーマトウのことを警告するために。白人はたぶんハイクヤのイン・ブンドゥのことなんて分からないでしょうから」

「何を言ってるのかさっぱり分からん」

 エリックは顔をしかめた。

「いいから、その岩から下りてきてくれないか」

「でも……」

「そんなところに立たれたら、満足に話もできん」

「その男の人がこれを割ろうとしています」

 少年――ティムはマッドドッグ・アッシャーを指さし、非難するような口調で言った。アッシャーは顔を歪める、不機嫌な様子だ。

「そう簡単に砕けるものじゃないよ、その岩は」エリックは笑った。「一番硬いピッケルでも歯が立たない。ダイナマイトでも使わないと無理だろうと言われてる」

「だいな……まいと……?」

「おいおい、勘弁してくれ」エリックはお手上げらしかった。「ダイナマイトを知らんなんて、どこまで原始人なんだ、この子は?」

 たまりかねてマギーは進み出た。

「白人の強力な魔法よ。岩を簡単に砕けるような」

「魔法?」ティムは興味をそそられたようだった。「伝説のナシ・ハイジェが空の星を降らせたように?」

「ええ、そう」マギーは調子を合わせた。

「それならいっそう危険ですよ! ニャーマトウは何百年も力を蓄え続けた古いニィですよ! その長い眠りを妨げたら、どんな恐ろしいことが起きるか……」

「とにかく、心配することはない」議論を打ち切りたくて、エリックは少年の言葉を遮った。「ダイナマイトはこの工事現場でも簡単に扱えるような代物じゃない。丁重に扱い、使用する際には責任者の――つまり私の許可が必要なんだ。だからそう簡単に誰かが使えるもんじゃない」

 エリックの説明に、ティムはまだ納得できないようだったが、それでも一応は受け入れたようだった。岩山からするりと降りてくると、裸足で立った。しかしまだ敵対心は失せていないらしく、槍から手を離さない。

「もうじき、今日仕事は終わりだ」腕時計に目をやり、日没までの時刻を確認して、エリックは言った。「マギー、あとは君に任せていいか?」

「ええ」

 マギーはごく自然に返事をした。ただでさえマッドドッグ・アッシャーのような荒くれ者がうじゃうじゃいるこの工事現場に、ティムのような美形の少年を一人にするわけにいかない。

 美形? そうティムは髪が乱れ、先住民のように裸で泥や土の汚れにはまみれているが、その顔はちょっとしたハンサムであることに彼女は気づいたのだ。文明社会でなら映画の子役俳優としてデビューできそうなほどに。

「ティム。私があなたの世話をするわ。この現場の医療責任者のマーガレット・マッケンジーよ」

「そうですか」

 ティムの態度はまだどことなくマギーを信頼していないように思えた。

「あなた、馬に乗った経験はある?」

 ティムはちょっとたじろいだ。

「あー……小さい頃、お父さんに連れられて、ラバに乗ったぐらいですね。馬はまだ……」

「そう。じゃあ、これが君の人生初の乗馬体験ね!」

 そう言うと、マギーはひょいと愛馬にまたがった。そしてティムの細い手首をつかみ、あっと言うに自分の後ろに座らせた。ティムにしてみれば、いきなり視点の高さが二倍近くになったようなものだ。恐れを知らない野生の少年とは言え、さすがに表情がこわばった。

 馬がその場でゆっくりと円を描き、歩きはじめた。まだ速度は出ていないが、乗馬の経験のほとんどないティムは、生きた心地がしなかった。槍は右手に握り、マギーの腰にゆるく左腕を回し、ズボンのベルトに必死にしがみついていた。

「そんなんじゃだめよ」マギーは叱りつけた。「もっと私の腰をしっかり抱いて。体を押しつけるように」

 言われるままに、半裸のティムはマギーの背中に上半身を押しつけた。顔も背中に張りつけ、まるでマギーの背中に頬ずりしているように見えた。

「じゃあ行くわよ。そうれ!」

 マギーはひと声高らかに叫ぶと、愛馬の胸に軽く拍車を当て、駆け足で前進しはじめた。少しずつ馬の歩調は速くなり、やがて一定速度で走り出した。マギーにはいつもの調子だが、慣れないティムには強い緊張を強いられた。それでも少しずつではあるが、リラックスしはじめた。

「あの……」

「何?」

「マギーさんってその……」ティムの鼻と口は、マギーのシャツの背中に押しつけられていて、体臭がじかに嗅げるのだ。「いい匂いがしますね」

「単なる汗の匂いでしょ」

「いえ、そう言うんじゃなくて……」

 ティムは思い切って、感じたままを口にした。

「まるでお母さんの匂い……」

 マギーは乗馬をしながら、はじかれたように笑った。

「覚えてるの?」

「遠い昔です。何となく……」

「でも、あなたのように大きな子供はいないわ」

「どうしてです?」

「若い頃は結婚もしてたのよ」

「今は?」

「とうに死に別れたわ……飛ばすわよ」

 マギーは馬に鞭をくれ、早足で飛ばしはじめた。



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