第6話 日常の終わり



 10分後。


 悠真は自転車を飛ばして、待ち合わせ場所である小和川の橋まで来ていた。ほぼ約束の時間通りである。

 橋と言っても生活道路の一部で、車がギリギリすれ違えるぐらいの小さなものだ。

 マンションは住宅街の端の山際にあり、その山林を抜けたところにこの場所はある。周囲には川と山、そして細い県道しかない。


 河原まで降り、橋桁のそばに自転車を立てて、息を整えて周りを見渡す。

 人影はない。

 空には雲ひとつなく、太陽が照りつける。

 ちょうどこの辺は、浅瀬で川べりが広く、かなり大きな広場になっている。

 夏はバーベキューをする人で賑わうのだが、平日昼間のこの時間である。自分以外の気配といえば、はるか遠くの空から聞こえてくるヘリコプターの飛行音と、川のせせらぎだけだ。


(おかしいな……)


 思わず頭をひねる。

 駅からも遠く、バスも通っていない場所である。車で来るはずだ。しかし、土手を見上げても、車一台通らない。


(もしかして、壮大な勘違いだったとか……)


 急にそんな疑念が湧き上がる。

 異世界に行って勇者にならないかなんて誘いを真に受けた自分が、間抜けに見えてきた。

 現実に戻ったせいか、腹が大きく鳴った。そういえば昼飯もまだだったと思い出す。

 

「ん?」


 ふと、先ほどから聞こえていたヘリコプターの音が徐々に大きくなってきたのに気がついた。上を見上げると、ちょうど自分の真上に差し掛かったらしく、普通より大きな機体が豆粒大ながらはっきり見える。

 ところが、なんとはなしに、行き過ぎるところを見ていたら、上空に留まったまま、轟音を響かせて自分めがけて降下してくるではないか。みるみるうちに機影が大きくなる。


「な、なんだ?」


 思わぬ状況に思考が停止する。

 すでに、機体は着陸態勢に入っていた。それはテレビの取材などでよく見かけるヘリコプターではなかった。いや、もはやヘリですらない。いわゆる垂直離着陸機VTOLだ。


「あれは、まさか……」

 

 ミリタリー系は嗜み程度の知識しかなかったが、見た瞬間に判別できた。

 おそらく日本で最も有名な機体といってもいいだろう。

 軍用輸送機MVー22、通称オスプレイである。


 機体の両翼につけられたローターの風が地面の石を吹き飛ばし、下生えを猛烈に揺さぶりながら、ゆっくりと降下し着陸する。自分からは2~30メートルは離れているが、それでも風を感じる。


「おお……すごい……」


 こんな長閑な河原に、しかも眼前でオスプレイが着陸する。圧倒的な非日常感と迫力に飲まれ、悠真はただ立ち尽くしていた。


 やがて後部ハッチが開き、中から、濃い色のスーツに腰まで届くような黒髪を風になびかせ、一人の女性が優雅に降りてきた。この距離からでもモデル並みの美人に見える。

 彼女は、悠真のそばまで来て微笑んだ。

 おそらく二十才半ばと思われるその女性は、切れ長の大きな目に、ルージュの引かれた唇が艶かしく、大人の色香と知性に溢れていた。

 甘い香りが、鼻腔をくすぐる。

 思わず悠真の息が止まった。


「初めまして、悠真くん。私が秋月薫よ」


 髪を片手で抑えながら、薫がさりげなく手を差し出した。


「え、あ、ど、どうも」


 動揺して口がうまく回らない。

 握手して挨拶などしたこともない。しかも、容姿端麗な女性の手を握ることにドギマギしながら、ぎこちなく手を握り返す。 


 彼女は上品なしぐさでチラリと腕時計を見た。


「遅れてごめんなさいね。さあ、行きましょう。もう時間がないの」

「い、行くってどこに……ですか?」

「海の底よ」

「へっ?」


 もう頭は全くついていけていない。

 話を聞くとは言ったが、その辺のファミレスとか、せいぜい会社に連れて行かれるつもりだったのだ。たかが高校生一人をオスプレイで迎えに来て、挙句の果てに海の底など、もはや何をどう突っ込んでいいかすら分からなかった。


 その時、何かが悠真の日常が終わりを告げた気がした。そして、もう「普通」には戻れないという予感。


「う、海の底? な、なんで、また……そんなところに……?」


 動揺だけが先に立つ中、ようやくこれだけを口に出す。


「それは当然……」


 悠真の反応が面白かったのか、彼女は楽しそうに笑った。


「異世界への入り口がそこにあるからよ」



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