第3話 秋月遥


 帰り道。

 悠真は、自宅へ向かう通りを歩きながら、遥のことを考えていた。


(今頃どうしてるのかな……)


 彼女が旅立ってからすでに一月半。会いたい気持ちが募るばかりである。

 せめてメールなりで連絡がつけばいいのだが、彼女のメルアドも知らない上に、どうやらメールの届かないところにいるらしい。LINEも既読がつかないと彼女と仲の良いクラスメートも言っていた。

 もはや自分にできるのは、夏休み明けまで待つことだけだ。


(あと40日か。先は長いなあ……)


 今日が終業式で、夏休みは始まったばかりだ。


(それにしても、こんな気持ちになるなんて、思いもしなかった……)


 縁とは不思議なものだと感じる。

 2年になってクラスが一緒になるまでは彼女とは面識がなかったのだ。聞くところによると、進級に合わせて転校してきたらしい。


 初めて言葉を交わした瞬間は、今でもよく覚えている。

 それは、4月のことだ。

 席替えで悠真は遥の隣になった。そして、その日の昼休み、隣で彼女が小説を読んでいるのに気がついた。

 ブックカバーで表紙は見えなかったが、見覚えのある挿し絵が目に入った。それは悠真も好きなファンタジー作品のものだった。


「ねえ、それって『異世界トラベルエージェント』の最新刊だよね。秋月さんも読んでるんだ」


 思わず声をかけてから、女子に話しかけてしまったことに気づく。

 しかも、遥と話すのはそれが初めてだった。悠真は急に緊張して体がこわばるのを感じたが、すでに手遅れである。


「えっ? あ、うん。神代くんも好きなの?」


 遥もいきなりで驚いたようだったが、戸惑う様子も見せず、すぐに笑顔になって聞いてきた。

 人懐っこくて無邪気な彼女の笑顔が眩しくて、まっすぐ見られない。


「う、うん。全巻持ってるよ」

「ブックカバーかけてるのに、よく分かったね」

「あ、えーと……」


 悠真にとって、女子と二言以上話すことは極めて稀である。未知の世界に突入した気分で言葉を探す。


「さ、挿し絵が目に入ったから。そのイラスト、水瀬真だよね。僕、その人の絵が結構好きなんだ」

「神代くんも? 私もなの! この人、すごくいいわよね!」

「え」


 どうやら、その絵がツボだったらしい。

 何やらスイッチの入った遥が嬉しそうな笑顔を見せ、その画家や彼の作品について熱心に語りだした。大人しくて控えめな感じだと思っていたので、意外な姿だった。

 そういえば、最初の自己紹介で、絵が趣味だと言っていたのを思い出す。


 遥はしばらく熱く語ったあと、我に返ったのか頬を染め、慌てたように謝った。


「あ、ご、ごめんね。私一人で喋っちゃって」

「ううん。僕も興味あるから、色々教えてくれて楽しいよ」

「そう? よかった。この人を知ってる友達って全然いなくて、つい嬉しくなっちゃった」


 少し舌先を出して、はにかんだ微笑みを浮かべる。

 その瞬間、悠真は心臓を鷲掴みされたかのような錯覚を感じた。


「え、えと、秋月さんって、絵も描くんだよね?」


 動揺を抑えつつ、なんとか言葉をつなぐ。


「うん。ファンタジー世界の風景を描くのが好きなんだ」

「すごいねえ。じゃあ、今度是非見せてよ」

「いいよ。ちょっと恥ずかしいけど、神代くんなら分かってくれそうだから」

「ホント? それは楽しみだな」


 これがきっかけで、彼女と打ち解け、気軽に話せるようになったのだ。

 今では「遥ちゃん」「悠真くん」と呼び合うまでになった。

 そして、自分が遥を好きになってしまっていると気づくのに時間は掛からなかった。


 問題が起こったのは、それから二ヶ月ほど経った6月の最初の月曜日である。


 その日、悠真は、一世一代の決意を胸に登校した。LINEを交換してほしいと遥に言おうと決めたのだ。そして、もしそれがうまくいけば、次のステップとして夏休みに開かれる水瀬真の個展に誘うつもりだった。恋愛経験などろくにない悠真にとっては、人生最大のミッションである。


 まだ朝早い時間に教室に着き、緊張しながら遥の到着を待つ。

 しかし、いつもは早い彼女が現れる気配はなく、予鈴が鳴っても来なかった。彼女は遅刻するタイプではない。どうやら、欠席らしい。


(せっかく、気合い入れてきたのにな……)

 

 ところが、ホームルームが始まり、拍子抜けした気分でヤマさんの話を聞いていると、突然、衝撃の事実が告げられた。


「……というわけで、急な話だが、秋月は絵の勉強のためイタリアのフィレンツェに行くことになった。また二学期には戻ってくる予定だ」


(は……?)


 教室中がざわざわとざわめく中、悠真は呆然となった。

 その後のヤマさんの言葉はほとんど頭に入って来なかった。あまりに突然過ぎて受け入れられない。まるで心の働きが止まってしまったかのようだった。


 その日一日は、どう過ごしたか全く覚えていない。気がついたら放課後で、次に我に返ったのは自宅に戻ってきたときだった。よほど落ち込んでいたのだろう。


 ただ、冷静になって考えてみると、彼女が引っ越したわけでも、二度と会えなくなったわけでもないことに思い至った。夏休みが終わって9月には戻ってくる。それだけが、救いといえば救いだった。


 そして、それから一ヶ月半。

 遥がいない上、藤堂にもいじめられ、一気に学校が苦痛な場所になった。

 よく我慢したと自分でも思う。

 しかし、それも今日で終わりだ。ようやく夏休みに入り、これで当分の間、藤堂たちに会わずに済む。

 ただ、それでも遥には会えない。


(先は長い……)


 さっきからこう思うのは何回目だろうか。

 気がつくといつの間にか、自宅マンションの前まで来ていた。


「はあ……」


 ため息をついて、悠真はオートロックを開けて中に入った。



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