第7話 僕たちが出会ったのは、雨の降る日のことだった

 僕と勇者が出会ったのは、或る雨の日のことだった。



 大粒の雨に頬をうたれて目を覚ました僕は、どしゃ降りの雨の中に無防備に倒れ伏していた。どれだけこうしていたのだろう。体は芯まで冷え、雨水を含んだ服は重く肌に張り付いている。元々色の白い手足は、より血の色を失っていた。

 頭が痛い。吐くほどではないが、痛みに気を取られて思考が遮られるような、嫌な感じがする。体がうまく動いてくれない。凍えて感覚が麻痺した腕で這いつくばり、なんとか軒下へと体を引きずり込んだ。

 壁にもたれかかってうずくまり、寒さに震える両掌に息を吐く。指先に、ほんの一瞬だけ籠る小さな熱は、すぐに掻き消されてしまうけれど、何もしないよりかは幾らかマシな気がする。


 濡れて目許に張り付く前髪をかじかむ指で払い、ぼんやりと空を眺める。

 昼か夜かもわからないほど黒い雲に覆われて暗く沈んだ空から、とめどなく雨が降り注ぐ。これから先の未来のように、暗く淀んで見えた。

 もうこれ以上動く力は残っていない。魔力を使い果たしてしまったのだろう、今の僕には何もないというのが、なんとなく感じ取れる。

 はて……魔力があれば、どうにかできたのだろうか? ふと、疑問が浮かぶ。そしてそのときようやく、自分が何者なのかということすら思い出せず……記憶を失っているということを自覚した。


 街往く人たちが足早に駆けてゆくのが見える。誰もこちらのことなど見向きもしない。それは僕がこんな暗闇に身を潜めているからだけではない。

 ────僕のことが、見えないのだ。

 何故だか、それだけは確からしいと思えた。

 寂しさはあるが、人の目を渇望するほどではない。心はひどく、落ち着いていた。



 そんな僕に、声をかけてきた男が一人。



「君……そんなところにいたら風邪ひきますよ」


 朦朧とした意識の中、声が聞こえる。

 いつの間にか、眠ってしまっていたらしい。

 まさか自分に向けられた言葉とは思っていなかったので、雨が止んでいないことを叩きつけるような雨音で察して、また眠りに戻ろうとすると、肩を揺さぶられた。

 訝しげに瞼をもたげると、真正面に、人の姿をとらえた。

 屈みこんで両手を僕の肩におき、心配そうにか、それとも生死以外は興味がないのか、無味な表情をした金髪の男が、こちらを覗き込んでいる。目と目が合った。


"……僕が、見えるの……?"


 声を出そうと口を開いたが、掠れた声が出るでもなく、ただ、白い息が漏れただけだった。思わず、喉元に手をあてる。どうやら僕は、声も失っているらしい。

 僕の心の声が零れたのを掬い上げるように、ふと微笑んだ金髪の男の口許から、音のこもった短い吐息が漏れる。


「ええ」


 今のは……肯定なのか、ただの偶然なのか、僕が視線を下へ逸らして考えあぐねていると、男はさらに言葉を重ねた。


「見えているし……その、聞こえてますよ、君の声」

”……!”


 また、目と目が合う。

 暗がりなのであまりよくわからないが、湿った土のような色をしている。

 彼もまた、僕と同じようにずぶ濡れだった。

 ただ、ふしぎと温かいものを感じた。知らず知らずのうちに、緊張の糸を緩ませるような、そんな気配だった。頭痛さえも和らいでいるように感じる。

 

「大丈夫ですか? 怪我は……そんなに酷くないみたいですが、雨で冷えてしまっているみたいですね。立てます?」

"……"

「え……本当に、大丈夫ですか?」


 僕の肩から手を離した金髪の男は、その場で立ち上がり、僕を振り返った。当然というように差し出された右手には、茶色いレザーのハーフグローブをはめている。

 その手を掴んで立ち上がることが、何故か躊躇われた。彼は僕のことを待ってくれていたが、暫し動けないでいる僕の前にしゃがみ込み、手袋を外して額に手を押し当ててくる。


「うーん、雨で冷たいから、よくわからないですけど。熱はなさそうかな。歩けないようなら、僕が担いでギルドまで連れて行きますけど」


 僕は、そんな彼のことを、何故かずっと前から知っているような気がした。

 けれど、彼が何者だとか、会ったことがあるのかどうか、記憶を探っても何も見当たらない。失った記憶の中に彼が居たのか、それとも……僕が忘れている誰かに、彼が似ているのか……。


「あ……雨、小降りになってきましたね」


 いつの間にか、雨音は静かになっていた。

 彼は立ち上がると、もう一度僕に向き直って右手を差し出す。


「もう一回聞きますけど……立てます? 歩けます?」

”……うん”


 僕は手を伸ばして、彼の手を掴んだ。

 何故手をとることに躊躇したのか、それは後に思い出された記憶によって明らかになるが、そのときの僕はまだ、自分の中の警鐘に気付いていなかった。


 金髪の男は、僕にギルドでの治療と温かい食事を提供してくれた。そして、自分が勇者学校を卒業した『(即死)勇者』であることを明かし、行く当てがないなら、一緒に暮らさないかと言ってきたのだった。勇者の称号に、『勇者』と『即死勇者』という二種類あるなんてことは、言わずもがな、あの日の僕は知らなかったのだった。




 そう、そして僕は、従者になった。



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