第8話 八月
忙しなく蝉の鳴き声が耳に訴えかける。
じりじりと焼けるような熱線が、蓮を容赦なく照らす。
彼はここのところずっとなにもしていない。
ただ自宅の縁側に座って、なにをするでもなくぼうっとしているのであった。
もう何日も、鍛錬も、家事も、政治も、庭仕事もしていない。ずっと放置されている花は、みんな枯れてしまった。しかし今の蓮には、それを気に掛けるほどの気力がない。
今年に入ってから仲良くなれた海賊たちもいなければ、ずっと彼と行動を共にしてくれていた部下の白百合もいない。
それだけで、彼の心はぽっかりと空虚になってしまっていた。
どれだけ部屋が荒れようと、少し前の蓮ならありえないことに、なんの興味も起こらなかった。片付けようとさえ思わない。それほど、彼は今、虚しい想いを背負っている。
「……白百合さん」
名を呼ぶ。しかし、慇懃に応じてくれる部下はいない。蓮の世界のすべてである白百合は、今、海賊たちに攫われている。
友人である、海賊たちに。
彼らの行動が、自分や、白百合の立場を考えてのことであることは理解している。聡明な白百合だってそれに賛同していた。
納得できていないのは、蓮だけだ。
「………………」
蓮は固く瞳を閉じ、心に浮かんでくる呪詛を払いのけようと努力する。しかし、どうしてもうまくいかない。
どうしてわたしを置いて行ってしまったのか。
どうして白百合さんまで連れて行ってしまったのか。
どうしてわたしを、ひとりにしたのか。
わたしはひとりになることが、一番、怖い……。
母も死んで、父も死んで、血縁関係のある全員が死んで。
汚い欲望を持つ大人に囲まれて育ってきたときに、白百合に会った。
劇的な出会いをした。
それから、食事をするにも勉強をするにも鍛錬をするにも一緒にいて、あることを偽って白百合が軍人になったとき、白百合は自分の自由を犠牲にして、蓮に世界を見せてくれた。
見せてくれた世界は美しかった。それは隣に白百合がいてくれたからこそだ。
白百合がいない世界は考えられない。
白百合なくしていまの蓮はないのだ。
――お前はただの軍人だ。だからお前も俺たちを憎め。騙されたと憤慨しろ。
ニコルの言う通り、蓮はただの軍人として世界海軍に保護された。
保護された当初は彼らを憎み、憤慨した――ふりをした。
しかし今では、本気で彼らに憎しみの情を向けてしまう。怒りを感じてしまう。
彼らにそんな後ろ暗い感情を抱いてしまう自分が、どうしようもなく惨めだった。
結局、自分は大人になることのできなかった子供だ。
大空を飛ぶことを夢見て、有頂天になっていただけの雛鳥だ。
白百合やニコルといった大人や親鳥がいなければなにもできない――。
「白百合殿」
「……あなたは」
いつの間にか、蓮の正面にある人物が立っていた。
金色の髪にエメラルドの瞳。白い軍服に身を包んだ、謹厳実直を絵に描いたような人物。世界海軍大佐の、クリス・ミューアヘッドだ。
「申し訳ありません。玄関でお声がけをしたのですが、返事がなかったもので……勝手にお邪魔させていただきました」
「いえ……こちらこそ気付かず申し訳ございません」
自らの声に生気を感じない。まるで死人の囁きだ。
無理矢理、柱に寄りかかっていた身体を起こし、背筋を張る。頭は項垂れたままで、恥ずかしいことこの上ない。しかし直そうにもこれ以上身体が言うことを聞かなかった。
「国王陛下が海賊に攫われたこと、大層お嘆きのことと存じます。傷に塩を塗る行為ではありますが、白百合殿にお訊ねしたいことがありまして……」
「わたしに、訊ねたいこと……?」
「はい。蜜薔薇の海賊団について」
「………………」
蓮は痛ましげに眉をひそめた。
彼らと出会って数ヶ月、毎日が賑やかで、孤独を感じることなく過ごしてきた。しかしそれは突然、彼ら自身によって奪われた。いつかは別れる運命であることは承知の上だったが、白百合をも奪われてしまったことが、なにより蓮を苦しませている。
「……ええ、いくらでも、情報を提供いたしましょう。お茶を淹れますので、どうぞ上がってください」
「え……しかし……」
クリスは戸惑って視線を泳がせた。
泳がせた先の光景は、散らかり放題の部屋がある。衣服は散乱し、食器はそのまま、花瓶の花は萎れていた。
部屋を片付ける気力さえも、今の蓮にはない。
「ああ、部屋が散らかっていると言いたいようですね……大丈夫です。奥の部屋は使っていませんから、散らかっていませんよ。どうぞ」
促されるまま、クリスは蓮の家へ足を踏み入れた。
「こんな一介の軍人に、毎日食べ物などを提供していただき、感謝しています」
奥の部屋へ案内する蓮の口から、芯の抜けた声が漏れる。
「あなた方世界海軍がいなかったら、わたしはとっくに餓死していたことでしょう」
「お礼などいりませんよ」クリスが芯の通った声で返事をする。「民間人を手助けするのも、我ら世界海軍の仕事ですから」
言葉はないまま、蓮は力なく頷いた。かくん、と。
「どうぞ、こちらの部屋でお待ちください」
通された部屋は、確かに散らかった様子はなく、整理されていた。
言われるがままに座布団の横に座る。蓮が「座布団へどうぞ」と言ってから、クリスは座布団の上に座った。
湯を沸かし、茶を淹れ、クリスの前に出す。
「気の利いたお茶菓子がなくて申し訳ありません。ここのところ、どこにも出かけていないもので……」
言い訳がましい口調であることを自覚しながら、蓮はクリスの正面に座った。
「あの……」
「はい?」
クリスが、おずおずといった口調で口を開く。
「大変不躾な質問ではありますが、あれはなんでしょう?」
「あれ……」
クリスが指さした先には、舶来品であるトルソーに着せてあるドレスがあった。
この国の軍人が身に纏っている軍服を模したかのようなドレスである。右腕と左腕が非対称で、スカート部分は複数枚の白い花びらを彷彿とさせる。
蓮は緩慢な動きでドレスを視界に収め、ゆっくりと頷いた。
「あれは、わたしの大切な女性に贈る予定のドレスです」
「大切な女性――ですか」
「はい」
「その方と婚姻の約束でも?」
「いえ」
蓮は緩やかに首を振った。
「彼女は確かに大切な女性ですが、それは恋情ではありません。言うなれば……友情ですかね」
「友情、ですか。失礼ながら、男性のひとり暮らしに不似合いなものだと思いまして……なるほど、大切なご友人への贈り物でしたか」
「……はい」
沈んだ声で頷く。
クリスが少々驚いたような視線で蓮を見つめる。彼の視線に気付き、蓮が怪訝に問う。
「……なにか?」
「ああ、いえ……その女性は、大層幸福な方だと思いまして」
「そうだといいのですが……」
「贈る予定――ということは、その女性はまだ健在で?」
「はい。生きていますよ。そりゃもうぴんぴんしています――けれど、彼女はあまりにもお転婆で、あのドレスもちゃんと受け取ってくれるかどうか……」
「そう悲観的にならないでください」
クリスが気遣うように笑んだ。
「ボクが女だったら、きっと喜ぶことでしょう。見たところ市井に出回っているものではありませんね……もしやオーダーメイドでしょうか。そんな服、いらないと突っぱねる方がおかしい」
「……あなたは、お優しいですね、クリスさん……ああいえ、海軍の大佐殿に、これは失礼な呼び方でしょうか……」
「いえ、その呼び名で結構ですよ。もともと上流階級の人たちみたいな喋り方は性に合わなくて、油断するとこうして素が出てしまう。それに、この国で言えば、あなたの方が身分は上になるのでは? 国王の側近でしょう」
「国王の側近など……」
蓮は苦痛に顔を歪めた。
自戒を込めた言葉である。
「そんなもの、あってなきがごとしです。国王が攫われた今、わたしにそれを名乗る資格などない」
資格など、ない。
白百合の近くにいない自分など……。
「それは――」クリスは一歩踏み出すように、蓮に顔を近付ける。
「それはあなたが国王だからではありませんか? 国王陛下」
◇◇◇
「そろそろお前が国王の影武者だって、世界海軍の連中にバレる頃だな」
時を少しばかり進めて、夕刻。ニコルは白百合を幽閉している簡易式の檻へ食事を届ける際、以前と同じようにどっかりと座って、そう切り出した。
白百合は座ったニコルを鬱陶しげに見て、溜息と共に「だろうな」と返す。
そもそも世界海軍という、様々な面で力の強い組織に、その場凌ぎに過ぎない隠蔽が長期間通用するはずがない。いずれは辿り着く真実だ。ニコルたち、蜜薔薇の海賊団にも秘匿し通すことができなかったように。
ならば何故この国ではふたりの秘密が暴かれなかったかと言えば、それは白百合が国民の前に滅多に姿を現さなかったからであるし、蓮と白百合の関係を知る者は限られた軍人のみであったからだ。もしくは、国民がいささか善良すぎたのかもしれないし、ふたりの関係を漏洩しようとする者は、先んじて白百合が始末していたからかもしれない。
どちらにせよ、世界海軍にはもう、蓮と白百合の正体が暴かれている頃だろう。
暴かれたとしても、蓮の身に危険がなければ白百合は満足である。たとえ自身の身体の深刻な欠点が見つかったとしても、蓮さえ無事ならそれでいい。
「お前のその考えは、捉え方によればかなり危険だけどな」
と、ニコルはさも愉快であると言うように目を細めた。
「………………」
「想像してみろよ。蓮が国王だってバレたってことは、あいつは今世界海軍の手中にあるってことだ。国王と言えど、世界海軍が蓮になにもしないとは限らない。そうだろ?」
「……貴様はなにが言いたい」
「別に。ただお前が狼狽するのを見るのを楽しんでるだけだぜ」
「そうか。ならば狼狽しなければいい話だ」
「つまんねえ奴」
「僕は貴様を楽しませるために生きているわけじゃないからな」
主のために生きている。
微かに口元に笑みをたたえながら、白百合は断言した。
ニコルは思う。
きっとこれが白百合の強さだ。
実際に白百合と剣を交えたことはないが、強さには肉体的な強さのほかに精神的なものもある。白百合の肉体的な強さはわからない。見ただけならば痩身で、戦闘能力とは無縁に見える。
しかし肉体的に強くなくとも、精神力の強さは折り紙付きだ。
この虚無にも等しい幽閉生活を、精神崩壊を起こすことなく過ごしているのがいい証拠である。
ニコルたちと話すことも救いのひとつになるだろうが、ものごとには限度というものがあり、そして人間の精神には限界というものがある。
白百合は、その限界値が限りなく高い。
――と、俺なら読むが……実際はわからねえもんだな。
どうにもこの白百合という軍人、なにかを隠している気がしてならない。そしてそれが、なにかしらのネックになっている。
――俺も隠し事ならごまんとある身だからな。理解できないわけじゃない。
「……ニコル」
と、そう呼んだのは白百合ではなく、いつの間にか洞窟に入ってきていた蜜薔薇の海賊団副キャプテンのマリアーノだった。
「白百合さんとお楽しみのところ悪いけど、緊急事態だよ」
「……なんだよ」
あえてマリアーノが言った軽口を無視し、怪訝に眉をひそめる。
緊急事態?
「どうやら俺たちには平穏な時間というものを与えられない運命にあるみたいだね。旅籠で生活していたときも、蓮さんの屋敷で過ごしていたときも、そして今も――」
「まだるっこしいな。なにが言いたいんだよ」
「世界海軍の連中に囲まれた」
不安も憔悴もなく、ただ事実を述べる口調で、マリアーノは言う。
声が震えることも、身体が震えることもない。
慣れてしまった危機だ。
だからニコルも「ふうん」と、気のない返事だった。
「そんじゃ、いつも通り応戦といくか」
「それでも久しぶりだもんね、世界海軍を相手にするのは」
立ち上がり、洞窟を後にしようとするニコルとマリアーノに向かって、白百合が声を張った。蜜薔薇の海賊団にとっては慣れた事案でも、白百合にとっては慣れた事案ではない。
「ま……待て! 死にに行くようなものだぞ、わかっているのか!」
「死なねえよ」
振り向かず、ニコルは冷淡に、白百合の心配を突き放す。
「俺たちは死なねえ。世界海軍なんざ相手にならねえよ」
つうか。と、皮肉を浮かべた表情で、ニコルは笑う。
「お前、そんな顔もできたんだな。いつも無表情か怒っているかだったから、そんな顔初めて見たぜ。意外と可愛いじゃねえか」
「…………っ」
ニコルの言葉に言いよどみ、白百合は言葉を詰まらせる。「可愛い」と呼ばれたことが屈辱であるかのように。
「僕は、可愛くてはいけないんだよ、海賊……」
白百合が絞り出した言葉は、果たしてニコルたちの耳に届いたか、定かではない。
◇◇◇
「……よう、クリス・ミューアヘッド大佐殿」
ニコルは包囲されているのを気配で感じながら、前線で佇んでいる男へ声をかけた。
輝く金髪にエメラルドの瞳――世界海軍大佐、クリス・ミューアヘッドその人だ。
彼の足元には、数人の蜜薔薇の海賊団の乗組員が縄で拘束されている。その中には、最年少のクラレンスの姿があった。
「少年を嬲るなんて趣味が悪いぜ――俺の仲間たちを返せ」
「………………」
クリスは答えない。
夕日がきらきらと、ニコルとクリス、ふたりの金色の髪を照らす。
ペリドットとエメラルドの視線が交錯する。
不気味な静寂がその場を支配する。
どちらかが口火を切れば、それだけで戦闘が始まってしまいそうな雰囲気だ。
しかしニコルは『先に動いた方が負ける』といった文言を信じていない。むしろ、先に動いた方が勝つ、先手必勝を信じている。だから、彼は言葉を紡ぐ。相手を挑発し、皮肉を並べる。
「答えないってことは、口がないのか? それとも舌か。相変わらず不愛想な野郎だぜ――昔はもっと可愛げがあったのにな」
クリスは答えない。
「俺はこれでもお前を評価してるんだぜ、ミューアヘッド大佐殿? それなのに今回、正々堂々とではなく、卑怯卑劣に闇に紛れるような真似をして……これじゃあ評価を改めなくちゃならないな」
クリスは答えない。
「おいおい、本当に口をなくしちまったのか? それじゃあこうして言葉を投げかけても無意味だったかな。俺はこれでも、お前との会話がそれなりの楽しみだったってのに」
クリスは答えない。
「こっちには人質がいるんだ。わかるだろ? そう、この国の最高責任者、国王陛下だよ。まあ……なかなか強情な奴だから、今、どんな状態にあるのか知らねえがな。もしかしたら自殺でもしてるかも」
「国王陛下?」
ようやく――クリスは重い口を開いた。
嘲笑を含んだ言葉を、ニコルに投げかける。
「蜜薔薇の海賊団キャプテンともあろう者が気付かぬはずがないだろう。あのラピスラズリの瞳は国王陛下ではない――影武者だ」
「……なんだ、知ってたのかよ」
ニコルは内心、まあそうだよなと頷いた。先ほど白百合と話した議題がそのまま現実になっていただけだ。なにも驚くことではない。
「驚かないのだな」
「まあね」
クリスの言葉をひらりと躱す。
「これくらいで驚いてたら、海賊のキャプテンなんざ務まらねえさ」
「そうか」
するりと、クリスが腰に提げた剣を抜く。
「国王陛下はボクたち世界海軍が保護した。その際、国王陛下から直々にボクたちがある依頼を承った」
「……ふうん?」
クリスの言葉を聞きながら、ニコルはマリアーノへ「白百合の刀を持ってこい」と命じた。もともとの彼の所有していた剣は、彼らの船が難破した際に海の底に沈んでいったのだ。なので、一応は誘拐した白百合の持ち物である剣――この国の言葉を使うなら、刀――を使うしかない。それは白百合を幽閉した際、誘拐の姿勢を崩さないために取り上げておいた。もちろん白百合も同意の上だ。
「……で、なんだよ、依頼って。俺たちを捕まえろってか?」
「いや。そんなことは、国王陛下は一度も口に出さなかった」
「じゃあなんだよ。もったいぶらずに教えてくれよ」
「『白百合さんを、わたしのもとへ連れてきてください』」
「へえ……」
どうやら白百合と違い、蓮は相当精神的に追い詰められているらしい。蓮にとって、白百合がいなくなることは孤独に等しいものであるということか。
「白百合さんが国王陛下の影武者ということはわかっている。そして、その影武者をお前たち蜜薔薇の海賊団がかどわかしていることもわかっている。ならばボクたちがすることはひとつ――お前たちを撃退し、白百合さんを救出する」
「ひとつじゃねえじゃん……」
マリアーノが持ってきた白百合の刀を受け取りつつ、呆れた声でニコルは頭をかいた。
「でもまあ事情はわかった。あの軍人が国王陛下の大切な人間であることもな。だったら俺たちはどうするのがいいだろうな……馬鹿正直にあの軍人を開放して今回は許してもらおうか――」
ニコルが思案に耽って言い終わらないうちに、クリスの斬撃がニコルの頬をかすめた。
「…………っ!」
「先手必勝――だろう?」
間合いを詰め、ニコルに迫ったクリスは静かに言う。
「よく知ってんじゃねえか、褒めてやるぜ、ミューアヘッド大佐殿!」
ニコルたちを包囲している白い軍服の軍人たちは手出しをしようとしない。もとよりクリスがニコルと一対一の勝負をすると打ち合わせているのだろう。数えられないくらいこうして対峙しているのだから、慣れたものだ。
今までそうして来たのだから、今回もそう来るはずだ。
それを承知している海軍たちも、そしてマリアーノも、どちらに転ぼうとも傍観に徹する。
ニコルは刀の鞘を投げ捨て――白百合が見たら絶叫しそうである――クリスに向かった。
「許してもらおうなどと思いあがるなよ――キャプテン・ニコル! ボクはお前をけして許さない! お前がこちらに戻って来るまで……絶対に!」
「おいおい、なにを甘えたこと言ってんだよ。俺がそっちに戻る? もとからお前らが追い出したんだろう!」
ニコルは叫ぶ。怒りを交えて、クリスをなじる。
刀と剣が激しくぶつかる。そのまま互いの身体も密着せんばかりに接近し、その瞬間を待ちわびていたクリスは、ニコルに囁いた。
「違うよ、ニコル――ボクはニコルを追い出してなんかいない。ねえ、父さんも母さんも心配してるから、だから早く家に帰っておいでよ――兄さん」
「……言ってろ」
ガチン。と、双方の刃物が音を立て、ふたりはとっさの判断で距離を取った。
「大丈夫、ニコル? 手を貸そうか」
まったく心配した様子もなく、マリアーノの声がかかる。彼がそう言うのは、決まってクリスがニコルにそういった言葉を言ったあとだ。
正直に言えば、マリアーノの手を借りたいくらい戦いにくい相手である。なにを隠そう血を分けた兄弟で実の弟なのだから――大切な、家族だったのだから。
金色の髪に緑の瞳。
顔の造形はあまり似ていないが、ニコル・ミューアヘッドとクリス・ミューアヘッドが兄弟であることは紛うことなき事実である。
あの日、夜が明けるまで一緒に眠っていた幼い弟。
あの日、夜が明けるまで手を握ってくれていた兄。
ある日突然犯罪者の烙印を押されて追い出された家。
ある日突然火を消してしまったように静かになった家。
初めて海の上で彼を見たとき、ニコルは自身の目を疑った。
きっとクリスも同様だったに違いない。
二十歳半ばで海軍大佐に昇りつめたクリス。その努力は計り知れない。本当ならめちゃくちゃに褒めてやりたいが、家を追い出され海賊になった兄がなにを言ったって届くはずもない。
クリスが執念を持ってニコルばかりを追うのは、ニコルが実の兄であることが大きいのだ。
自らの権力はキャプテン・ニコル、ひいては蜜薔薇の海賊団を捕らえるためにあると豪語して引かないクリス・ミューアヘッド。
マリアーノの言葉に言葉で返さず、首を振って返事をする。
――ああもう。本当に。
――憎いくらい、よくできた弟だ。
ニコルはじっとりと湿った手の平で刀を握りしめて、中段に構える。
それを見て、クリスは悲しげにエメラルドの瞳を伏せた。
「そうか……ボクの願いには、応えてくれないんだね」
そしてぎろりとニコルを睨む。
「だったら、手段を選ばずに捕らえるまでだ」
言って、右手を高く掲げた。
「やれ、ルーク」
タァン。
「…………っ!」
「ニコル!」
意識の端でマリアーノが叫ぶのが聞こえた。しかし今のニコルには、そんなことを考える余裕がない。ニコルの意識はほとんど、脇腹に走る痛みに集中していた。
――撃たれた? どこから?
だくだくと溢れる血液は夕日よりも赤く、ニコルの身体を彩る。
手にしていた刀を落とし、膝から崩れ落ちる。
「……本当はこんなことしたくないんだ。でもこうしなくちゃ、ニコルは戻って来てくれないでしょ? 大丈夫、急所は外すように言ってあるから、死なないよ」
ぶつぶつと独り言のように繰り返すクリス。
「でも逃げられないように、脚の腱だけでも切っておくね」
懐から小さなナイフを取り出し、ゆっくりとニコルに近付いてくる。
「……こんな卑怯なことして、恥ずかしくないのかよ、ミューアヘッド大佐殿……」
今のニコルには皮肉を言うことでしか反抗するすべがない。
「恥ずかしくない。だって、こうすることで大切な家族が帰ってくるのだから」
そう。クリスはまだ信じているのだ。
ニコルが戻ってくることを。
ニコルと家族に戻れることを。
馬鹿みたいに、信じている。
なにも知らない、哀れで可愛い弟――。
クリスの足音が徐々に近付いてくる。痛みで満足に動くことができないニコルはマリアーノの様子を窺ったが、蹲っている状態では目視することができなかった。
そして、クリスの持つナイフがニコルに振り下ろされんとするその瞬間――
クリスのナイフは何者かによって弾き飛ばされた。
――誰……マリアーノ?
否。
「困るんだ、この男を連れて行かれてしまうと――我が主が悲しむ」
濃紺の軍服。右肩で揺れる白いマント。そしてどんな晴天さえも霞ませるラピスラズリの瞳。鉄扇でクリスのナイフを受けながら、この国の国王陛下の直属の部下――白百合は、そんな風に言った。
「お前――国王陛下の影武者……!」
「そんな呼び方はやめてほしいね。僕の名前は白百合。我が主から賜った名だ」
鉄扇をばんっ! と勢いよく開き、白百合は大仰に名乗った。
突如として登場した白百合に面食らい、ニコルはかすれた声で問う。
「お前……檻はどうした……」
「あんなの、蹴り飛ばせば一発で外せる。軍人なめるなよ、海賊」
「はっ……」
ニコルが落とした刀を拾い上げ、丁寧に鞘へ納める白百合。その様子を見て、クリスが叫ぶ。
「ふざけるな……ふざけるなよ、貴様! あと少しだったのに!」
そのままクリスは剣を構え、白百合に突進する。
彼が狙うのは人体における最も重要な臓器――心臓の位置。
「無理矢理は女に嫌われますよ、ミューアヘッド大佐殿」
クリスの斬撃を、白百合は鉄扇で受け止めた。
受け止め、そして左へ受け流す。
鉄と鉄とが触れ合う、耳障りな音が響く。
ぎゃりぎゃりぎゃり。と。
「くっ……き――貴様!」
クリスは呻き、怒号を張る。
「何故海賊に味方する!」
「何故か?」
白百合はクリスの剣を弾き、一歩距離を取って目を細めた。
「決まっている。この男が我が主のご友人だからだ」
言うが速いか、白百合は鉄扇を懐に納め、ニコルの身体を担ぐ。そして後方に「マリアーノさん、着衣水泳の趣味はある?」なんて軽口を叩く。マリアーノは余裕な表情で「海賊だからね」と嘯いた。そして白百合は再びニコルに向かい「気を引き締めろ、海賊。ここで死んだら殺してやるから」と言った。
ここは岩でできた洞窟と接する海岸である。つまりニコルたちは四方を完璧に包囲されているわけではなく、背水の陣のような形で取り囲まれている。一見逃げ場はないように見えるが、覚悟さえあれば、逃げ道は用意されている。
つまり――
「では、ミューアヘッド大佐殿、御機嫌よう」
白百合はニコルを担いだまま、ぴょん、と海に飛び込んだ。続いてマリアーノも一拍置いて海に飛び込む。
「まっ……」
待て。とクリスが言う前に、白百合も、ニコルも、そしてマリアーノの姿も海の中へ消えていった。
残されたのは、呆気にとられた世界海軍の軍人たちと、捕らえられた数人の海賊だけである。
◇◇◇
「っぷはぁっ!」
「げほ……げほっ……」
ようやく砂浜に辿り着いた――泳ぎ着いた――白百合と白百合に担がれたニコルと、そしてマリアーノは、砂まみれになりながら荒い呼吸を繰り返していた。
夕焼けに染まっていた空はいつの間にか星の輝く夜空になっていたので、彼らがどれほどの時間海中にいたのか推し量ろうというものだ。
海軍ができるだけ目を向けない場所を選んで泳いだつもりだったが、果たしてそれが功を奏したと言えるだろうか。ただでさえ怪我人を連れて海水へ飛び込んだのだ。手負いのニコルが海水に浸かったことで死んでいたということになっていないかという心配がある。
白百合は急いでニコルの呼吸と心拍を確認した。
とくん――とくん――とくん――。
「……よかった、生きてる」
はっきり言ってしまえば、ニコルが存命でいられるかは賭けだった。そして白百合自身がちゃんと泳げるかも賭けだった。ニコルの場合はできたばかりの怪我で海に飛び込むという荒業に心臓が止まりはしないかという不安があったし、白百合の場合は長期間まともに鍛錬をしていない状態で潜水することに一抹の不安があった。
幸運なことに、不安は払拭されたが。
「とりあえず、ありあわせの包帯で応急処置を取っておく」
「……なにからなにまでありがとね、白百合さん。あのとき白百合さんがいなかったら、ニコルは今頃海軍の奴らに捕まってた」
暗闇で白百合がニコルに包帯を巻いている様子を感じ取りながら、マリアーノは白百合に礼を述べた。
「いいさ。僕が勝手にやったことだ……それに、僕がなにかしなくても、きっとあなたがなにか手を打っただろうさ」
「……バレてた?」
「もちろん」
マリアーノの手の平には、この国で言うところの匕首が握られていた。これはまだ彼らが町で生活していたころ、刃物を売る店でマリアーノが購入していたものだ。海賊が武器武具をひとつも所有していないというのは、心許ないから、という判断だった。洞窟で生活していたときも、包丁代わりとして活躍していた。
包帯できつく傷を締め上げたらしく、ニコルが「ぐ……」と呻いて、目を覚ました。
「おはよう……と、まあ今は夜なわけだけど」
ニコルに向かってそんな風に言うマリアーノ。ニコルはぐったりとしたまま「ああ……」と応じる。
しばらくしてから、ニコルは起き上がった。
「悪かったな、助けてもらっちまって……」
「気にするな」
「それにしても、よく包帯なんかあったな? そんなもの持ってる様子は――」
ニコルは目を剥いた。
暗闇に目が慣れて、月明かりに照らされた互いの姿形もはっきりと見えるようになってようやく気付いた。
暗くともわかる、瑞々しい張りのある白い肌。濃紺の軍服ははだけて、へそまで見えている。そこにあるのは、柔らかな双丘。水で貼りついた服は白百合の身体の線を生々しく浮き出していて――白百合が男でなく女であると、ささやかながらもはっきりと主張していた。
ニコルに巻かれた包帯は、彼女が女性の象徴である胸の膨らみを隠すために着用していたサラシであった。
◇◇◇
クリス・ミューアヘッドは兄を取り戻すために世界海軍に入った。
口調は乱雑だが、優しく、頭脳明晰な兄、ニコル・ミューアヘッド。
彼がどうして海賊の身に堕ちたのか、クリスは詳しくを知らない。
いつの間にかいなくなっていた彼の噂は、随所で手を変え品を変え、尾ひれがついて巡り巡った。
曰く、許されない恋に落ちて誰かと駆け落ちをした。と。
曰く、父を逆恨みする人間の手によって誘拐された。と。
曰く、厳しい家柄に嫌気がさして家を捨てて逃げた。と。
どれもこれも信憑性のない噂話であったが、クリスは覚えていた。
家からいなくなる前の晩、ニコルはクリスを強く抱きしめてくれていたことを。
あの温かさだけは、本物だった。
その夜は、何故か家が騒がしくて眠れなくて、ニコルは自分を連れて一緒に寝てもらっていた。
翌日、彼はいなくなっていた。
母は嘆き悲しみ、多くを語ってはくれなかった。
父は静かに怒り、兄の話題を挙げることさえ許してくれなかった。
火を消したように静かになったミューアヘッド家は、とても居心地が悪かった。
――そうか。
――兄さんが帰ってくれば、この家はきっと元通りになる。
クリスは静かに決心した。
兄を取り戻せばいいのだと。
そのための世界海軍入隊だった。
父が世界海軍の上層部の人間であることと――クリスの潜在能力が高かったことが相まって、彼はみるみるうちに大佐の地位まで昇りつめた。
そして海上でやっと見つけた。
兄の姿を。
しかし兄は、捕らえ屠るべき海賊船の上に立っていた。
――どうして?
――兄さん、そっちは違うよ?
悲嘆に暮れるクリスをよそに、ニコルは彼に剣を向けた。
それからずっと、クリスはニコルを追っている。
弟は兄を求めている。
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