第7話 七月

「ほら、飯持ってきたぜ」

 と、ニコルは持っていた盆を軍人の前に置く。

「ああ、ありがとう」

 白百合は目線を向けないまま、そんな風に応じた。

 洞窟の中である。

 先月まで衣食住を過ごしていた蓮の屋敷からほど遠い、海に面した洞窟で、彼ら――蜜薔薇の海賊団は生活をしていた。

 数ヶ月前、蜜薔薇の海賊団の乗組員のひとりであるクラレンスが一ヶ月近く過ごしていた洞窟である。

 そこにひとりだけ、場違いに隔離された者がいる。それが濃紺の軍服に身を包んだ軍人、ラピスラズリの瞳を持った白百合である。

 木の枝などで作った簡素な檻の中に、白百合は幽閉され、今日までを過ごしているのだ。幽閉のわりには海賊たちがそれなりの気遣いをしてくれるので、思うほどの劣悪さはない。今だって、海賊の誰かが差し入れてくれた本などを読んでのんびり過ごしている。

 こうして幽閉の形をとっているのは、もしも世界海軍に見つかった場合の言い逃れのための処置である。もしも海賊に誘拐されたとされる国王が海賊と懇意にしていたと暴かれれば、白百合の立場も命も危ういからだ。

 実際は白百合は国王ではなく一介の軍人で、蓮と立場と名前を交換していたというのが真相だ。しかし世界海軍側が白百合を国王だと思っている以上、白百合を攫うのがあの場での最適解だとふたりは考えている。

 ニコルは本から目を離さない白百合を眺めてから、盆の隣にどっかりと座った。

「……なんだ?」

 怪訝に整った眉をひそめ、ようやく白百合はニコルに視線を移した。

「……いや、よくその本が読めると思ってな。この国の公用語じゃないだろ?」

「ああ、そのことか」

 ページの間に木の葉を差し挟んで傍らに置き、白百合はニコルへと身体を向けた。

「王の側近なんていう立場でいると、それなりに海外と言葉を交わす機会が多いからな……僕のせいで主の顔に泥をぬることなどしたくないものだから、必死で勉強したのさ。そんなおかげで、今はある程度の言語は読み書きも話すこともできる」

「勤勉なんだな」

「そうでもないさ。必要になれば、人はそれなりにできるものだよ」

「謙遜するなよ」

「何故貴様相手に謙遜などしなければならない」

「うわ、可愛くねえ反応」

「僕のような軍人に可愛さなど求めるな」

「そりゃそうだな」

 はん、と、ニコルは鼻でせせら笑いを漏らす。

 およそ一ヶ月、白百合と毎日顔を合わせても、白百合はけしてニコルたちに心を開いた様子はなかったが、それでも口数は日に日に多くなってきた。

 出される食事はきっと普段と比べれば質素を越えて粗末なものだろうに、文句のひとつも言わないのは、こうして自分が海賊たちと行動することで主人を守っていると考える忠誠心ゆえか。

 誰かが声をかければきちんと返事はするし、礼も挨拶もする。きっと白百合は悪い人となりではないことが推し量れる。それとも育ちがいいのだろうか。

 思ったことをそのまま伝えると、

「育ちはよくない」

 と、ニコルの言葉が不愉快だと前面に押し出した顔をして、白百合は言った。

「むしろ悪い」

「へえ?」

「貴様に僕が育ちのいい人間に見えるのだとしたら、それは主のおかげだ」

「蓮のおかげ?」

「そうだ」

 目礼を頷きとして使い、白百合は訥々と語る。

「主の生まれがれっきとした国王の血統であることはもう知っているだろうが、それゆえ、苦悩の多い人生を歩まれてきた。主が僕に話してくれた限りで僕が知っていることは……主には、今ではもう、血縁関係を持った近しい人間が誰ひとりとしていないということだ」

 すでに知っている情報だったが、あえて言葉にはしない。

「……いいのかよ、俺にそんなこと話しちゃって」

「いいさ。貴様は――僕からしてみれば忌々しいことに――主の友人だからな」

「忌々しいって……」

 まあ、部下からしてみれば国王がならず者と懇意にしていれば面白くないのも当然か。

「僕が主と出会ったのは互いの歳が十にも満たないときでね、それからほとんど一緒にいたわけだが……主は常にひとりだった。普通はいるはずの両親もいなかった。兄弟や姉妹もいたが、みんな死んでしまったと聞いたよ」

「死んだのか」

「……国外から来た貴様は知らないだろうが、十数年前にこの国を統治していたのは王族ではなかったんだ。だが、統治者の立場が王族に還ってきたとき、王族のほとんどは暗殺の手にかかってしまった――らしい。生き残ったのは最も幼かった主だけだ」

「幼い蓮を使って、自分が国を支配しようってことか」

 摂政政治という言葉がある。幼い、もしくは立場の低い君主に成り代わって政治を行うことだ。上手く利用すれば、君主以上の地位を得ることもできるだろう。歴史を鑑みればさして珍しいことではない。その珍しくないことを、蓮を使って行おうとした連中がいた。それだけのこと。

「おそらくは」

 首肯して、岩の壁にもたれて腕を組む白百合。

 主である蓮の前では度が過ぎるくらい殊勝で従順な態度なのに、主でない人間に対してはかなり横柄な態度だ。

 ――なるほど。確かに育ちはよくないだろう。

 ニコルも一ヶ月という、人間関係を構成するには十分な時間を白百合と過ごして、それなりに白百合を理解してきた。

 白百合はなにもない場所を睨みつけながら続ける。その場に、憎むべき存在がいるかのように。

「王族が全員死んでは本末転倒――しかし変に知恵のついた年齢では使い勝手がよくない。ならば幼い子供を傀儡として使おう――といった感じかな。しかし彼らに予期せぬ敵が現れた」

「それがお前か」

「そうだ」

 白百合はゆるりと首を振って、いやな記憶を振り払うような仕種をした。

「まさか傷だらけで記憶もない道端で生活をしているような子供が、悪事を次々と暴いて自分たちを解雇に追い込むとは思わなかっただろう。そんな学があるようには見えなかったし、僕自身も驚きを禁じ得ない。今の僕だったら、彼らを解雇になんてできないだろうね」

「じゃあ今のお前だったらどうしてたんだ? 悪事を暴くことくらいお前には朝飯前だろう」

「悪事を暴くのなら今でもできる。けれど解雇だけは無理だ。……殺してしまう」

「は」

 呆気にとられ、開いた口が塞がらないでいるニコルを一瞥して、白百合は肩を竦める。

「当然だ。我が主の大切な人たちを奪い、主さえ傀儡にしようと企むなど言語道断。万死に値する。奴らは僕が子供だったことを幸運に思うべきだ。主の家族の命を奪っておきながら、自らの命は無事なのだからな」

 涼しい表情のわりに熱弁を振るう白百合を見て、ニコルは顔を引きつらせた。

 ――こいつ、そこらの海賊よりも残虐な性格なんじゃないのか?

 それが忠誠心というものだと言われればその通りなのかもしれないが。

 主人のためなら他人の命を奪っても構わないと。

 主人のためなら自分の死さえ厭わないと。

「なんかいいな、お前らの関係」

「………………」

 白百合は露骨にいやな顔をした。

 眉をひそめ唇を歪め、ラピスラズリの瞳には「なにを言い出すんだこの馬鹿は」という心象を雄弁に語っている。

「随分失礼な顔してくれるじゃねえか軍人さんよ」

 ニコルは海賊だ。売られた喧嘩を買わなかったことはない。

「そんなに俺に褒められるのが気に食わねえか」

「気に食わないね」

 白百合も負けじと応じる。軍人ゆえに喧嘩を買うことはあまりないが、今は囚われのお姫様状態だ。少しくらい反抗しても許されるだろう。

「気に食わない。気に食わない。大いに気に食わない。本来なら主が貴様らと行動を共にし、寝食を共にしていた時点で気に食わないどころか癪に障るほどだ」

「ほーう? そんな海賊に今、お前は幽閉されているんだがな? そんな大層な口を叩けるんなら、海賊の拷問を受けてみるか?」

「海賊の拷問とはなんだろうな? 身ぐるみ剥がれてしまうのだろうか? それは怖いな、僕はこの軍服を人前で脱ぐのが一番の苦痛なんだ」

「………………」

「………………」

 ふたりとも口元に笑みは浮かんでいるが、ペリドットとラピスラズリの瞳にはけしてそんな悠長なものは映っていなかった。

 険悪を絵に描いたような地獄絵図だ。

 そしてそこに無神経な声がかかるのは、なにかの定石としか思えない。

「おーい、白百合さん。もう何日もお風呂入ってなくて気持ちが悪いでしょ。そこの川で良さそうな場所があるから、水浴びでもしておいでよ」

 見れば、マリアーノが洞窟の入口に立って手を振っている。

 緩みきった彼の顔を見て、ニコルと白百合は毒気を抜かれる。

 ニコルは飽きずに手を振っているマリアーノを親指で示して、「行ってこいよ」と促した。

「軍服を脱ぐのが苦痛なんだろ? これが俺たちの拷問だ。さっさと行ってこい」

「……いいのか? 僕は一応、貴様らの捕虜だろう」

「捕虜をどうしようが俺たちの勝手だ」

 ニコルは簡素な牢屋を外して、白百合を開放する。

 戸惑いを見せる白百合も、何日も身体を洗っていないことが気がかりだったのだろう。

「じゃあ、遠慮なく拷問の魔手にかかるとするか」

「そうしとけ」

 白百合が思いのほか素直に応じたことを見て、ニコルは若干の引っかかりを感じた。

 ――まあ何日も閉じ込められてちゃ、精神も疲弊はするよな。

 精神と、身体。

 おそらくは両方、疲弊しているだろう。

 それによって錯乱してもおかしくはない。

 なにもない、なにもできない時間というのは、人を狂わせるには十分だ。しかし白百合にはそういった様子が微塵もない。

 強靭な精神の持ち主なのだろうか。

「ほら、こっちこっち」

「ありがとう、マリアーノさん。僕もそろそろ汗を流したいと思っていたところなんだ」

「なら丁度よかったね。本を読んでるだけじゃ退屈だったでしょ?」

「いや、興味深い書物ばかりで楽しめた」

 穏やかな会話をしながら洞窟から出ていく白百合とマリアーノを見て、ニコルも満足げに頷いた。

 いや。

 なんで俺以外にはそんなに友好的なんだよ。


 ◇◇◇


 洞窟から出ると、眩しい太陽の光が白百合を照らす。蝉のけたたましい鳴き声が一気に襲ってくる。空は近く、どこまでも青い。肌を焼く熱気に包まれた白百合は、思わず目を細めて、手で目元に影を作った。

「そうか、もう季節は夏になるんだな」

 呟くと、隣のマリアーノがふんわりと微笑んだ。

「そうだね。夏は美味しい野菜とかがたくさん採れるから、俺は好きだな」

「僕も夏は好きだ。主の育てている花が、庭一面に咲き誇るから」

 蓮の庭は、毎年夏になると向日葵や百日紅が咲く。白百合は蓮の育てた花を見るのが大好きだ。今年は見られそうにないけれど。

「――そういえば、白百合さんも花の名前だね」

「……まあ、そうだ」

 朗らかに言うマリアーノを尻目に、白百合は誇らしげに胸を張って答える。

「主が僕に与えてくださった御名だ。僕の大切なものだよ」

「へえ……名前を与える、かぁ」

「ほかにも主はたくさんのものを僕に与えてくださったが、やはり名前が一番嬉しかったな」

「名前はいいよね。俺の名前も、両親がくれた大切なものだよ」

 ふたりは森林を歩きながら、マリアーノが言う川を目指す。

「マリアーノ、だったか。なにか由来でも?」

「由来とかは知らないなぁ。そもそも俺たちの国の文化じゃあ、あんまり名前に意味を込めるってことは少ないよ」

「そうなのか」

 意外だと、白百合はラピスラズリの瞳を見開いた。

「じゃあ、白百合さんの名前の由来は?」

「……さあね。主が下さった名だが、由来を聞いたことはない」

「ふうん?」

 白百合の言葉にどこかひっかかりを覚えながら、マリアーノは曖昧に相槌を打った。

「そういえば……主は今、どうしているだろうか」

「白百合――じゃなかった、蓮さん?」

「ああ。世界海軍が保護しているらしいというのは、あなたがたが集めてくれた情報だが……きちんと食事を摂ってらっしゃるだろうか。しっかり眠れているだろうか。寂しくは、ないだろうか――」

 今は姿を見ることもできない蓮を心配する白百合は、ひどく儚げだった。物憂げに視線を伏せ、薄い桜色の唇を震わせる。

 マリアーノはううむと唸った。

「俺からはなにも気の利いたことは言えないけど、白百合さんが元気なら、蓮さんも喜ぶと思うよ」

「ならいいが……」

「……あ、着いたよ。ここが水浴びに丁度いいんだ。いい具合に居住地と離れてるし、なにより自然が豊かで周囲の目を気にしなくていい」

 マリアーノの言ったとおり、そこは確かに水浴びに最適な場所だった。

 裸になっても、近くにいなければ自然と植物で身体を遮ることができる。

「なるほど、こんな場所があるなんて知らなかった」

「結構歩くもんね。俺たちもつい最近見つけたばっかり」

「普段は国王の振りをしているから、外には出られないんだ。なんでもっと早くに知らなかったんだろう。きっと主も来たがるのに」

「そういえば、どうして白百合さんは蓮さんと入れ替わってたりしたの?」

 率直な疑問を白百合に訊ねる。

 これは誰もが疑問に思っていたことだ。

 ニコルだって、訊きたくて仕方ないことだろう。

「……入れ替わりが露見したときに言ったとおりだ。僕は主に世界を見てほしかった」

「主である国王の立場で、自由に政治を行おうとは思わなかったの?」

「思わない。そもそも僕は学がないものでね、政治などとんとわからないよ」

 両手を上げてお手上げのポーズを取る白百合。茶化すように言っているが本心だろう。

 それとも謙遜しているのか。

 そんなことを言えば、ニコルが言ったときと同様に「何故謙遜などしなければならない」と一蹴されるだろうが。

「……それではお言葉に甘えて水浴びをするが、マリアーノさん、あなたは席を外してくれるかな? 僕の身体には大きな傷があってね――見られると少なからず恥ずかしいのだよ」

「ん、そうなんだ。察しが悪くて申し訳ないね。じゃあ、俺は行くよ。ほかの奴らにもここに近付かないように言っておくから」

「ありがとう、恩に着る」

 言うと、靴と靴下を脱いでズボンの裾をまくり、水の中へ真っ白な素足を浸す白百合。

 マリアーノは思わずその素足の美しさに見惚れてしまった。桜の花びらを散らしたような爪に、繊細な彫刻のように長い指。内に秘められた紅い血潮でほのかに上気している肌。ふっくらとした肉付きのいい踵。

 ――って、なに考えているんだ、俺は。

 ――そりゃあ、女性的な造形してるけど……。

「……まだなにか」

 いつまでも立ち去らないマリアーノを見越して、白百合がじろりと睨む。

「ああ、ごめん。すぐ行くよ」

 よこしまな目で白百合を見てしまったことの罪悪感も伴って、マリアーノはぎくしゃくと白百合から目を逸らした。

 そしてそのまま歩いてその場を離れる。

「ううん、俺は女の子が好きなんだけどなあ……。それとも……いや、まさかね」

 ちらちらと脳裏に白百合の脚が映る。

 快晴の空を見上げながら、マリアーノは悩ましげに呻いた。


 ◇◇◇


 夜。白百合は珍しく檻の外に出て、ニコルら蜜薔薇の海賊団と夕食を共にしていた。

 献立は野草と魚のスープ。調味料は少ないが、それなりに充実した夕食である。

「海軍の奴らがいなければ、町まで買いに行ったのによ――」

 と、ニコルは木を彫って作った椀を傾けながらぼやく。

 一度世界海軍の前に現れてから、この国に海賊がいることが露呈してしまった。もちろんそれはニコルの計算の内だが、行動範囲が狭まってしまったことの不便さに文句がないわけではない。

「まあ、毎日新鮮な魚が食べられるし、俺はニコルほど不満はないな」

「たまに一匹も魚が捕れなくて野草だけで過ごしたの忘れたか」

「覚えてるけど」

 マリアーノの受け答えに時折訪れる不運を突っ込むニコル。彼らの食事が賑やかでなかったときはないのだ。

「白百合はどうだ、いつも食べてる食事とかよりうまいだろ?」

 否定されることを前提としてニコルが意地悪い質問をする。しかし白百合は肯定の弁を述べた。

「うん、いつも食べている食事より美味だ」

「え、嘘、マジ?」

 ニコルが少々狼狽えた様子で聞き返したことに、白百合は若干不快な顔を浮かべた。

「貴様はほんとに失礼な奴だな。普段は自分で食事を作っているから、他人が作ってくれる食事に文句などないさ」

「へえ、自炊してんだ。家事は部下とかにやらせねえの?」

「貴様と一緒にするな、海賊。僕は家に部下を入れたことはない。もともとあの家は主のものだからな」

 冷やかすニコルにぴしゃりと言い返す白百合。

「ふうん……ん? じゃあ、三月にお前の屋敷で出てきた食事は? あれはどう用意したんだよ」

「あれは僕が作ったものだ」

「へえ?」

 何ということもなく発された白百合の言葉に、ニコルは舌を巻く。

 二十八人前の膳をひとりで用意する。

 言葉にするだけなら簡単だが、実際はかなりの労力を要するはずだ。ただ食事を用意するだけならば、まだできないことはない。しかし白百合が用意した膳は、味付けから盛り付けまで完璧に行われていた。

「よくもそんな手間のかかることを……」

「家の中にいても、やることと言えば掃除と家事くらい。政治も僕が首を突っ込むのはお門違い。会食の準備など、いい退屈しのぎだよ」

 心を開いているわけではないが、それなりに腹を割って話すようにはなったらしい。

 蜜薔薇の海賊団の各位にも、白百合と蓮が入れ替わっていることはもう明かしてある。そうでなければ、誰もが混乱するだろう。白百合が蓮の部下であることも、国王のふりをして振舞っていたことも。

「ふうん。国王の影武者でも、苦労はあるんだ」

「むしろ苦労だらけだな。暗殺者なんてしょっちゅうだ」

「そんな普通の顔して言うなよ」

「まあ、僕が国王として振舞うだけで、主に危害が及ばないのならいくらでも国王のふりをするさ」

 そう言って、白百合はろ過した水で喉を潤す。

 主である蓮が無事ならば自分の身などどうでもいいとでも言いたげだ。

 それはどこまでも尊く、そしてどこまでも危険な発想だが。

「それだけ想われて、蓮さんは幸せ者だね」

 スープをあおり、マリアーノがにっこりと笑いかける。

 平和ボケした環境にいたわけではないマリアーノがこれほど楽天家に見えるのは、むしろ幼少期が過酷だった反動だろう。

「……主は、蓮様は、いま、心穏やかにしておられるだろうか……」

 口に含んでいたスープを飲み下し、一息ついたところで白百合が溜息を洩らした。

 ひとり残して来てしまった主人を心配しているのだ。

 昼間も同じことを、マリアーノの前で憂いていた。

 きっとこの心配は、誰がどれだけどれほどの慰めを言っても、収まらないものだろう。

「国の政治のことなら心配はいらないんだ。主や僕になにかがあったら管理してくれる者は前もって言ってある。けれど、主だけはだめだ。主のことは、心配で心配でたまらない」

 瞳を固く閉じ、祈るような仕種をする。

「………………」

 ニコルもマリアーノも、かける言葉を探したが、見つからない。三人は揃って沈黙してしまう。

 そんなとき。

「キャプテン! マリアーノ! スープおかわり!」

 と、遠くの席に座っていたクラレンスが駆けてきた。

 しかしここは狭い洞窟のなかである。ニコルとマリアーノよりも手前に座っていた白百合に躓いて、そのままクラレンスは白百合を巻き込んで転倒してしまった。食器類が派手な音を鳴らす。

白百合は仰向けに倒れ、クラレンスがその上に被さるといった姿勢だ。

「いっつつ……」

「うう……」

 床は当然ながら岩だ。少年とはいえクラレンスの下敷きになった白百合は、当然ながら頭や身体を強かに打った。

 クラレンスが慌てて白百合の上で謝罪をする。

「ごめん、白百合! 大丈夫か?」

「そんなことより……重い……どいて」

「うわっ! そうだった。ごめん」

 白百合に言われてクラレンスは忙しなく移動する。

 そして、右手を見つめてなにか考えてから、マリアーノに助け起こされる白百合に向かって言った。

「白百合さぁ――細く見えるわりに太ってんな。なんか柔らかいものに触ったぞ、オレ!」

 白百合の怒りの拳が、クラレンスの脳天に炸裂した。

 ラピスラズリがここまではっきりと怒りを表したのは、これが初めてのことである。

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