第6話 六月

 雨の多い季節になった。

 庭に咲く紫陽花は彩り鮮やかに景色を奏でている。毎朝庭の手入れをするのが、この屋敷の主、白百合の日課であった。彼の手が及んでいない場所などこの庭にはなく、どの季節も季節に即した花が咲き誇っているのだ。

 鍛錬、家事、政治――そして庭仕事が、白百合の毎日を彩っているのである。

「見事だな」

 雨の中を傘もささずに草むしりをする白百合の背後で、そんな声がした。

「風邪をひくぞ、こんな雨の中で庭仕事なんて」

「おや、ニコルさん、朝が早いのですね。あなたこそ風邪をひかれますよ」

 白百合に声をかけたニコルもまた、傘をさしていなかった。

「いいんだよ、俺は。そういう土地柄で生まれたからな。傘をさす習慣がない」

「おや、そうでしたか。それは失礼な申し出でした」

「……その花は?」

 ニコルは白百合が手入れをしていた場所近くに咲いている花の群れを指さした。

 白く、小さく、なにより多くの花びらがひとところに咲いている花である。

 ニコルが花に近付いて葉を触ろうとすると、白百合が平手を向けて制した。

「いけません。この花は紫陽花と言いますが、葉には人に有害な毒性があります。むやみに触っては危険です」

「そうだったか。悪い……ふうん。この花は紫陽花というのか」

「ええ、愛らしいでしょう。この時期は雨も多く憂鬱になりがちですが、こうして綺麗な花が咲くことは喜ばしいですね」

「そうだな」とニコルが頷くと、白百合は立ち上がり、屋敷の入口へと足を向けた。

「戻ってお風呂でも浴びましょうか。このままではふたり揃って風邪をひいてしまいます」

「……そうだな」

 そのとき、くすりと白百合がわずかに微笑んだ。

「どうした?」

「いえ、主と出会ったときも、雨の日でしたことを思い出しまして……」

「ああ、あの胡散臭いラピスラズリか」

「む、主の悪口はたとえあなたでも許しませんよ」

「……悪かった」

「素直でよろしい」

 ニコルの言葉にさして気を悪くした様子もなく、しかし謝罪はちゃんと受け止めて、白百合は頷く。

 ――兄貴がいたら、こんな感じかもな。

 なんて、ニコルが思ったほど白百合の行動の一挙手一投足、言葉の端々には大人びた雰囲気が纏われていた。

 ニコルの生まれは長男なので、兄の存在に憧れがなかったわけではない。

 マリアーノはどこかニコルを年下のように扱っているが、あれはどちらかと言えば親目線だ。なんとも腹立たしいことに。

 ほかの蜜薔薇の海賊団の乗組員は家族のような存在だが、兄と言える立場の者はいない。

 だから少しばかり、白百合との会話を楽しんでいる。

 屋敷の廊下を白百合についていく形で歩きながら、ニコルは白百合の背を眺めていた。

 ――なあ白百合。

 ――本当に俺たちの仲間にならないか?

 喉のすぐそこまで出かかった言葉を、ニコルはぐっと飲み込む。

 もう終わった交渉だ。

 にべもなく、取りつく島もなく、断られたことは記憶に新しい。

 当然だろう。

 だって、彼は――。

「お風呂、お先に入ってしまってくださいな。わたしは朝餉の準備をしておきますので」

「お前は入らないのかよ」

「この程度、着替えて髪を拭いてしまえばいいんです。しかしニコルさんはお客様ですので、遠慮なさらずに」

「……ああ、そうさせてもらおうか」

 白百合の勧めにニコルは抵抗なく了承し、身体を温めることにした。


 ◇◇◇


 朝餉を全員で食べ終わり、おのおの好きなことをする時間になった。

 ニコルはいつもこの時間は白百合が家に置いている書籍に目を通すことにしている。文字はあまり読めないが、挿絵のある本なんかは目で愉しむことができるのだ。この日もそのつもりだった。

 しかし今日は、白百合ととりとめのない話をして過ごしていた。

「ニコルさんは花がお好きなのですか?」

「まあな。女々しい趣味だと思ってるだろ。仲間内でも散々冷やかされたもんだ」

「まさか。花を愛でることは悪いことではありません。わたしだってこうして花の世話を率先して行っているので、変り者だと言われるものですが」

「変り者なもんか。俺の生まれた国では庭いじりは立派な趣味だぜ。俺も母国にいたころは、家の庭で花を育てていた。薔薇っていう花なんだが、知っているか?」

「我が国にもモッコウバラという薔薇がありますが……それはニコルさんが言う薔薇と関係があるのでしょうかね?」

「どうだろうな」

 ニコルはククっと、喉を鳴らした。

 白百合との会話が愉快だとでも言うようだ。

「俺の生まれた国の代表的な花が薔薇なんだ。俺もこの花が特別好きでね、ついには自分の海賊団の名前にまでしちまった」

「パイレーツ・オブ・ローズ……蜜薔薇の海賊団、でしたっけ」

「そうだ」

「不思議ですね。わたしの主である国王陛下は、蓮という名前なのですが、蓮とはハスの花を意味する字が使われているのですよ。そしてニコルさんたちの薔薇……なんだか縁があるとは思いませんか?」

「花の名前だからってそれはこじつけじゃないか? それに、花の名前だと言うなら、お前だってそうだろ。なあ、白百合?」

 興奮した様子でニコルに迫る白百合をうやむやに躱し、ニコルはふと彼の瞳を見つめた。

 白百合の瞳に、ニコルの瞳が映る。

「――お前の瞳は、まるでオブシディアンだな」

「……おぶしでぃあん?」

 白百合は小首を傾げた。

「宝石だ。俺の瞳はよくペリドットに例えられる」

 例えているのは主にニコル自身だが、白百合はそんなこと知る由もない。

「ぺりどっと……」

「なんだ、お前、宝石を見たことがないのか?」

 恥ずかしいのかほんのり頬を上気させて、白百合は頷いた。

 それを見て、ニコルは自分の荷物の中から、小さな袋を取り出した。

 そして畳の上にハンカチを広げ、その上へ袋の中身をちりばめる。

 袋の中身は、きらきらと輝く石であった。

「わぁ……」

 あまりの美しさに、白百合は感嘆の吐息を漏らす。

「これがオブシディアン」

 手袋を両手にはめ、石のひとつをつまみあげる。

「黒いですね」

「まあな」

 お前の瞳と同じだ。

 と、ニコルは微笑んだ。

「こういうのは宝石っつってな、まあ石なんだが、限られた場所でしか採れない希少価値のあるものなんだ。ものと大きさによっては、国のひとつを買うこともできる。俺はこれを肌身離さず持っていたおかげで、船が難破しても失わずに済んだ。それくらい大切なものだ」

「い、いいのですか? そんな大層なものをこんなところで広げてしまって……」

「いいさ。これは俺の私物で、俺がお前に見せたいと思ったんだから」

「……ありがとうございます」

 恥ずかしがるように、はにかんで、白百合はニコルに笑いかけた。

 ――ああ、やっぱり。

 ――こいつ、俺の仲間になってくれないかな。

 願いは届きそうもないけれど、いつか来る別れのときを思うと、ニコルは胸が締め付けられる痛みを感じた。

「ニコルさん、これはなんという宝石ですか?」

 無垢な瞳を、それこそ宝石のようにきらきらと輝かせ、ニコルに説明をせがむ白百合。

 ニコルは「これか?」と宝石のひとつひとつをつまみあげて説明をする。手に入れる際に起こった事件や出来事も含めて。

 まるで幼い子供のように、白百合はニコルの話に一喜一憂の表情を示した。そのあまりの無邪気さに、ニコルの口もつい軽くなる。

「これがペリドットだ」

「これが……本当にニコルさんの瞳と同じ色ですね」

 言いながら、白百合はぐいとニコルに顔を寄せてニコルの瞳を覗き込む。

 同時に、オブシディアンの瞳がニコルの視界に無理矢理侵入してきた。しかし抵抗する気も起きず、白百合のなすがままでいる。

 少しばかり経ってから、白百合が「はっ」としてニコルから距離を取った。自分の大胆すぎる行動に気が付いたのだろう。

「す、すみません……なんだかとても失礼なことをしてしまったようですね……。わたしのような男に接近されても、嬉しくもなんともない……いやむしろ暑苦しかったのでは……」

「いや、いいよ。お前のその世間ずれしてないところはちょっとした長所だ」

「え? いやではなかったのですか?」

「まあ、そうだな」

「まさか……稚児趣味がおありで?」

「稚児趣味?」

「その……男色と言いますか……」

「それは断じて違うと主張しよう」

 ニコルだって寄り添うのならば女性がいい。

 しかしなんというのか、白百合は大人というより大人びた子供のようだから、拒否反応がしにくいといった感覚があるのだ。

「昔は男色は高尚な趣味としてお偉方に浸透していたのですよ。遊郭には男娼宿もありますし、今度行ってみます?」

「行かない。……行かない」

「二回言わなくても……」

 しょんぼりとうなだれる白百合。そこまで男娼を推す意味はわからないが、白百合にとって未知のものは等しく興味の対象なのかもしれない。

 ニコルは逸れた話題を戻すために、宝石のひとつをまたつまみあげた。

「これがラピスラズリ。お前の主の瞳の色だ」

「ラピスラズリ……瑠璃、ですね」

「ん? この国ではそういう名前で呼ばれているのか」

「ええ、はい。なんとなく……確かに、主の瞳によく似た色ですね。綺麗です」

「こいつは岩絵の具なんかにも使われていて、海の色はだいたいこいつを使ってるんだ――群青色って言うんだけどな――それで描かれる海はそれはそれは美しいもんだぜ」

「海、ですか?」

「ああ、海だ。お前、海の向こうを知っているか?」

「いえ……わたしは……」

 白百合はオブシディアンの瞳を物憂げに伏せてしまった。

 失言だったか。

 出会ってしばらく経った、クラレンスを保護した日の夜、白百合は自ら語っていた。


『わたしにはこの国がある。わたしはこの国から離れられないのです』


「………………」

 白百合はこの国に囚われている。

 そう思ってしまうのは、偽善だろうか。

 白百合が望めば、彼だって海の向こうに行くことができるはずなのに。

 それができないのは、きっと彼が――。


「悪かった。意地悪い質問だったな、許してくれ――なあ、国王陛下」


「はい、ニコルさん」

 頷いた彼は、自らの失敗に気付いてみるみる表情を変化させた。

 焦燥と当惑。

 彼のオブシディアンの瞳に映ったのは、そんな感情だった。

「いきなり呼ばれて、つい返事をしちゃったって感じか。なあ? お前だろ、この国の国王って」

「!」

 ニコルの手が、彼の顔へのびる。

 指先が彼の顔に触れようとしたその瞬間、部屋の襖がすべて吹き飛んだ。

 どおん。と、大きな音をたてて。

「無礼者!」

 二十人ほどの軍人が部屋を包囲しており、その先頭に立つはラピスラズリの瞳だった。

 刀剣の切っ先をニコルへ向けて、鋭く睨み据えている。

「し――白百合さん!」

 オブシディアンの彼が叫ぶ。驚きのあまり、気が動転して自らの名を呼んでしまった――というわけではない。

「刀を納めてください!」

 ニコルを庇う姿勢を取り、オブシディアンはラピスラズリを宥める。しかしラピスラズリは強硬だった。

「何故です、主。その男は不躾にも我が国王陛下へ下賤な手を触れようとしたのですよ」

「わたしはそんなこと構いませんから!」

「主が許しても僕が許すことはできません」

「いい加減になさい!」

 途端、彼は立ち上がり、ラピスラズリの頬を強かに打った。

 クラレンスのときの一件もそうだったが、意外と手が先に出るタイプの人間らしい。

「あなたの主は誰ですか! その口で言ってごらんなさい!」

「………………」

 そしてラピスラズリは――白百合という軍人は、オブシディアン――蓮という国王の足元へ跪いた。

「もちろんあなたさまでございます。我が主、蓮様」


 ◇◇◇


「……つまり、白百合と蓮は立場と名前を入れ替えて過ごしてたってわけか」

「そうなります」

 ニコルの要約に、蓮は面目なさげに頷いた。

 蓮の傍らには白百合が傅いている。二十人はいた軍人たちは、別室で待機をさせられている。近くに置くのは白百合だけでいいということか。

 ニコルの隣にはマリアーノが控えている。蓮と白百合に合わせてとりあえず同行させているといった感じだ。

「わたしは国王でありますが、いかんせん世間を知らない箱入り息子でして、しかし世間を知ろうと屋敷の外に出ることは危険であると禁じられておりました。そんなあるとき、この白百合さんと出会いまして――そのときはもう、ちょっとした無理は通る立場でしたから――どちらともなく、この入れ替わりの案が出ていたのです」

「ふうん」

 ニコルは白百合の――否、蓮の説明に曖昧に返事をした。

 別に騙されていて悔しいとか悲しいとか、そういう感情ではなく、まあそういう事情もあるだろう、と、納得した感覚だった。

 そして、蓮の大胆な発案に乗る白百合にも、ニコルは興味を示し始めた。

「じゃあ、これから俺はお前たちのことをなんて呼べばいい?」

 と、話の流れとは関係ない質問を向ける。

 こうして腹を割って話すような間柄なのだから、もう国王陛下だの敬語だのは必要ないだろうが、名を呼ぶ場合の問題だけは解決せねばなるまい。

 国王を呼ぶつもりで蓮と呼んだら、軍人の白百合が返事をする。軍人の白百合を呼ぶつもりで白百合と呼んだら、国王の蓮が返事をする、などという滑稽話のような事態は避けたいところだ。

「そうですね……」

 と、蓮は唇に手を当てた。

「確かにいままでと同じ風に名を呼びあったら混乱してしまいますからね。それは決めておくとあとあと役に立つでしょう――」

 そして嬉しそうににんまりと笑むと、ぱちんと両の手を打ち鳴らした。

「それでは、わたしのことは蓮と、白百合さんのことは白百合と呼んでください。ああでも、ほかの部下や国民がいる場合は以前のように呼んでくださると嬉しいですね。わたしと白百合さんの関係を知っているのは、ごく一部の部下だけですので」

「……わかった。俺たちは浅学なものだからしばらくは慣れないと思うが、できる限りの努力は尽くそう。約束する」

「ありがとうございます。もう、わたしたちは本当の名前を呼びあえるのがお互いしかいないものですから、少し寂しかったのです」

 そう言うと、蓮は照れ隠しのようにはにかんだ。

「……しかし、よく思いついたな、お互いの名前と立場を入れ替えて生活するなんて。なあ、白百合?」

 突然自分に水を向けられた白百合は「ん」と鋭くニコルを見据えてから、

「別に……僕は主に、いままで見ることができなかった世界を見てほしかっただけだ」

 と言った。

「お前、色々と演技してたんだな」

 ニコルは皮肉を白百合に向ける。

「口調と態度と、あと一人称まで変わってやがる。なかなかの名優ぶりじゃないか」

「ふん。国王陛下の影武者を演じるんだ。これくらいこなせなきゃ主の従者は務まらない」

 白百合はラピスラズリの瞳でじろりとニコルを睨んだ。なかなか凄みの利いた睨みではあるが、海の覇者たる海賊には通用しない。それは白百合も承知の上のはずだ。

「演じる必要がないとわかった時点で笑うのをやめたな。普段はあまり笑わないたちらしい。そしてなんだ……口調か。重々しい物言いは相変わらずだが、なかなか軽佻浮薄な喋り方だな。それがお前の本当の姿か」

「貴様に――」

 ニコルが発した最後の台詞に、白百合が激昂するのがふつふつと伝わってくる。

 白百合は左腰に提げていた刀に手をかけ、叫んだ。

「貴様に僕のなにがわかる! わかったふりなんてするな、虫唾が走る!」

「白百合さん!」

 今にもニコルに斬りかからんとする白百合に、身体を呈して彼を抑制する蓮。

「落ち着いてください。今ここで戦闘を始めてもなににもなりませんよ」

「………………」

 主人に窘められて決まりが悪そうに、白百合は再び座布団の上に座った。

「随分凶暴な番犬だな」

 ニコルが嘲笑う。

「これでも頼りになるのですよ。一度白百合さんと打ち合いでもしてみたらいかがでしょう?」

「……やだね」

「それは残念です」

 さして残念がる様子もなく、蓮は頷いた――そのときだった。

 周囲がにわかにざわついた。

 ニコルの背筋が冷たい手で撫でられた感覚がした。

 ニコルは反射で立ち上がり、「おい!」と声を張る。

「大声出さなくても聞こえてるよ、ニコル」

 ずっとだんまりを決めていたマリアーノが冷静な声で諭す。

 ニコル、マリアーノ、蓮、白百合がいる部屋の襖が、勢いよく開かれた。白百合の部下だ。

 彼はすぐに跪いて、声を張り上げる。

「ご報告します! この屋敷近辺に世界海軍が踏み入っている模様です! どうやら町の住民からこの家を探り当てたとのこと! 世界海軍の行進の先頭は、クリス・ミューアヘッド大佐殿です!」

 こういった感覚は、ニコルにとってはよくあることだった。いままでこの感覚を頼って海賊として世界海軍を欺いてきた節もある。

「……なあ白百合」

「なんだ、海賊」

 ニコルと白百合は、互いに視線を交わし合う。

「お前、クリスと会ったときも王として謁見したか?」

「……貴様と意見が合うと考えると自殺したくなるな――だが、今はその意見に従うしかないだろう。おい」白百合は冷静に、部下に指示を飛ばす。「お前たちはこの山を迂回して下山しろ。間違っても世界海軍の方々と鉢合わせることがないよう細心の注意を払え」

 軍人がこんなところに集まっていては怪しまれる。正しい判断だ。

「白百合、覚悟はいいか」

「ああ、いつでもどうぞ」

「それじゃ、失礼」

 言うが早いか、ニコルは白百合の身体を軽々と担ぎ上げた。

「…………っ!」

 白百合を担ぎ上げたまま、ニコルは蓮へ振り返る。

「じゃあな、王様。短い間だったが、俺たちに雨風凌げる場所を提供してくれてありがとよ」

「な……なにをするつもりですか!」

「この国の国王陛下を誘拐する。一国の王を誘拐されたとなりゃ、あいつらだって簡単に手出しはできないはずだ」

 ニコルは蓮に顔を近づけて、唇に指を当てた。

「お前はただの軍人だ。だからお前も俺たちを憎め。騙されたと憤慨しろ。わかったか? ――いい子だ」

「………………」

 蓮が震える唇で呟く。

「……白百合さん」

 呼ばれた白百合は悲痛に表情を歪ませ、痛々しく瞑目してからただ一言、「お許しください……」と彼から顔を背けた。

 声を発することもできないでいる蓮を残して、ニコルたちは早々に屋敷を出て行ってしまった。白百合もニコルに担がれたまま、抗うことなく、蓮に顔を向けることもなく、蓮の前から去っていった。残された蓮のオブシディアンの瞳には、溢れんばかりの涙が次々と溜まって零れ、流れていく。

「どうしてそんなことを言うのですか……わたしたちは友人ではなかったのですか……」

 伸ばした腕は空を掴み、ただただ虚しい。

「白百合さんを連れて行かないでください……わたしの友人なんです……お願いですから、わたしをひとりに、しないでください……」

 拭っても拭っても、涙は止まらない。底なしに溢れてくる。蓮はそれが憎くて憎くてたまらなかった。

 ひとりぼっちは、大嫌いだ。


 ◇◇◇


「ミューアヘッド大佐、本当にこんな山奥に家屋などがあるのでしょうか」

 プレナイトの瞳を持つ青年、ルークが、額に汗を浮かべながらクリスへ問いかける。クリスもルークと同様に汗を浮かべながら彼の言葉に応じる。

「周辺住民の話では、この山に居を構える軍人がいる。最近ではその軍人が相当数の渡来人をその居住地に招き入れているらしい。相当数の渡来人。調べないわけにはいかないだろう」

「こんな辺鄙なところに住んだり、大人数の渡来人を招くなんて、随分変わった軍人ですね」

「そこが問題だ。その渡来人、もしやと思うが――杞憂であればいいが――蜜薔薇の海賊団という可能性もあるからな」

「本当に杞憂であってほしいです……」

 ルークは眉をひそめ、情けない声を絞り出す。

「ああ、ボクもお前には海賊と遭遇してほしくないと思っているよ」

 危険だから。

 クリスはそれだけ言うと、訝しげに口を閉ざし、周囲を窺った。

 そしていきなり雨上がりの地面に這いつくばり、耳を地面に接する。ぬかるんだ地面に躊躇もなく。

 ルークはその様子を見てすぐさまあとに続く軍人たちへ指示を飛ばした。

「全員その場で動くな! 声をあげるな!」

 するとみな口を閉ざし、歩みを止めた。木々のざわめきさえも、彼らに加担するように静けさを得た。

 初歩的な戦術である。耳を直に地面と接することで、音を感じ取り、気配を窺う。

 しかしその必要はなかったようだ。

「そんなことしないでも、俺たちはここにいるぜ」

「!」

 瞬間、弾かれたようにクリスが顔をあげる。

 クリスのエメラルドの瞳には、憎き仇敵である海賊が目の前にいる。

「パイレーツ・オブ・ローズ……キャプテン・ニコル!」

 ルークの差し出すタオルを受け取りもせず、クリスはニコルの姿を逃すまいと凝視した。

「……そんなに見つめるなよ、照れるじゃねえか」

 対するニコルはどこ吹く風で、いつもながらに皮肉を嗜む。彼の肩には、濃紺の軍服を纏った人物が担がれている。

 右肩にかかる白いマント、猿轡を噛まされているうりざね顔、そしてこの国では珍しいラピスラズリの瞳――。

 見覚えのあるその顔は、この国の王――!

「ニコル、貴様! 国王陛下殿に手を出したか!」

「あん? 海賊なんだから誘拐くらい普通にするだろう。その程度で目くじら立てんなよ、器が知れるぜ」

 国王は目一杯抵抗しているようだが、猿轡で声をあげることもできず、両手首と両足首を封じられていてニコルには効いていない。

 軍人のひとりが銃を構えるが、クリスはそれを手で制した。

 発砲してもし国王に当たれば、国際問題に発展する。

 しかし、このままニコルたち蜜薔薇の海賊団を逃せば、国王を誘拐させたとして責任問題になるだろう。

「今姿を見せたのはサービスだぜ、ミューアヘッド大佐殿。俺たちはしばらくこの国に滞在する。だから、俺たちを捕まえてみせろ、世界海軍」

「待っ……」

 言い終わったときには、すでにニコルたち蜜薔薇の海賊団の姿はなかった。

 安い挑発に乗ったものだ。彼らの言葉に惑わされ、興奮状態に持ち込まれた。冷静な判断が下せないよう誘導された。

「………………」

 後悔していても仕方がない。

 ようやくルークの差し出していたタオルを受け取り、顔や服に付着した泥を拭いながら、クリスはニコルたちが立っていた場所を睨みつけてから、部下の軍人たちを窺った。

「海賊が国王を誘拐するなんて……」「なんてふてぶてしいやつなんだ」「しかしこんな山の中では捜索が困難だ」

「………………」

 クリスは彼らを、上官として導かなければならない。

 拳を痛くなるほど握りしめて、クリスは声を張った。

「まずはこの先に居を構えている軍人の保護! そのあと、蜜薔薇の海賊団の捜索に当たる! 各自素早く行動せよ!」

 真っ白な軍服を纏った軍人たちは、気を付けの姿勢を取り、指先を揃えた手の平を額へ当てがった。

「はっ!」


 その後、山奥にある荘厳な屋敷でひとりの軍人が保護された。

 オブシディアンの瞳を持つ、ひどく幼く見える軍人であった。


 ◇◇◇


 気付けば母がいなくなっていた。

 あるときを境に、家族が次々と死んでいった。

 場合によっては事故で。

 場合によっては病気で。

 場合によっては凶刃で。

 幾人かいたはずの兄弟も、姉妹も、誰ひとりの例外もなく。

 みんな死んだ。

 みんな殺された。

 生まれたときから面倒を見てくれた乳母も。

 身の周りの世話をしてくれた世話係も。

 あらゆる勉学を教えてくれた家庭教師も。

 わたしがものを考えるに足る年頃に達したときには、もう、誰もいなかった。

 けれども孤独ではなかった。

 わたしにおべっかを使って摺り寄ってくる者がいた。

 わたしの立場を使って好き勝手したい者がいた。

 わたしを使ってこの国を掌握してしまおうとする者がいた。

 わたしもわたしで、それに縋った。

 閉じられた大きな箱庭の中で、そんな絶望よりも重い関係が、わたしのすべてだった。

 けれどもあるとき、屋敷に侵入者が現れた。

 弱って汚れて、見るも忍びないほど悲惨な有様の子供だった。

 わたしよりもいくらか年上に見えたが、痩せ細っていて正確にはわからない。

 雨の中、大きな傷を負った子供は、姿が虚ろになって、いまにも消えてなくなってしまいそうで。

 わたしは、傘を持って子供に近付いた。

「大丈夫ですか?」

 子供はぼんやりとわたしを眺めて、「哀れみか」と血を吐きながら呟いた。

 わたしは「いいえ」と答えた。

 傘をさしながら、わたしは自然とその言葉を口にした。

「一緒に帰りましょう」

 わたしが差し出した手を、子供はわずかに躊躇いながら取った。

 その瞬間のなんと素晴らしかったことか!

 わたしを、わたし自身を、ひとりの人間として認められたかのような恍惚。

 次期国王であり、その権力しか見られていなかったわたしが、初めて、ひとりの人間として。

 蝶咲蓮として認められた、幸福。

 あのときほどの幸せを、わたしはいまだ知らない。

 しかしそう簡単に物事は運ばない。

 わたしが今まで縋ってきた者たちが、あの子の介入を拒んだのだ。

 だからわたしは初めて自分の意志で言葉を使った。

 自分のために。

 そしてあの子のために。

「わたしが王です」

 縋るのをやめ、自立し、立派な国王となろうと誓った。

 それにはあの子が必要だった。

「この者の処遇、わたしが決めます。いずれはわたしの腹心となるでしょう」

 大人たちの反対を押し切って、わたしはあの子を引き取った。

 傷を癒し、身体を清め、あらゆる生きるすべを、わたしはあの子に与えた。

あの子はわたしの無二の友人。

 この世で最も信頼の置ける部下。

 あの子のいない世界など、もう、なにもない。

 わたしはあの子がいなければ、孤独なひとりぼっちのおさなごと同じなのだ。

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