第5話 五月

 白百合の住む家は立派な木造建築だった。

 旅籠と違い山の中腹に建っているので、海軍もここまで足を運ぼうとはそうそう思わないだろうというのが白百合の考えである。

 少ないとはいえ、相当の荷物を持っての登山はなかなか堪えた。彼らは山賊ではなく海賊だ。船酔いには強くとも登山の辛さには強くない。そもそも海上生活と登山では、使う筋肉が違うのだ。この登山を、白百合は毎日こなしているというのだから驚きである。ニコルは初めこちらの家で療養していたので驚かなかったが、ほかの蜜薔薇の海賊団の彼らの驚きは計り知れない。賑わう町から離れてしまって退屈しないかと白百合は訊ねたが、杞憂だったらしく山中などで銘々自由気ままに過ごしている。クラレンスなどは家の広さに興奮して家中を走り回って畳で滑って転んでしまったほど、この家が気に入ったらしい。

「ここは本来我が主の持ち物なのですが、家を持たないわたしを気遣って、主がわたしの自由にして良いと譲り受けたものなのです。みなさん、ご自分の家だと思っておくつろぎください」

 と白百合が言う前に、彼らはもう自由にしていた。

「流石に世話になってばかりは悪いから、ある程度の家事は俺たちがやろう」

 とニコルは申し出た。

 白百合は穏やかに微笑んで、「ではお願いしましょう」と答えた。

 洗濯や調理、掃除など、分担を決めて彼らは過ごした。もともと海上で生活するにあたってそういったことは当然だったので、大した苦もなく過ごせている。ときおり掃除の最中に見たことのない道具が見つかったりなんかもしたが、夜になれば白百合が帰ってくるので、その際、見つかった道具の逸話を聞いたりした。

 白百合の語りは優しく穏やかで、聞いている者の心を安らかにする力があった。

 国にまつわる昔話やおとぎ話、子供に語って聞かせるような冒険譚。

 彼の舌から唇に乗せられ語られる言葉は柔らかく、思わず幼少のころを思い出さずにはいられぬくらいだった。

 白百合もニコルたちの話を聞きたがった。

 ゆえに、彼らも語った。

 国にまつわる昔話やおとぎ話、子供に語って聞かせるような冒険譚。

 また、彼ら自身が体験した出来事も。

 白百合はそれらを聞くたびに喜んで嬉しげに破顔した。

 世界を知らぬ白百合に、世界中の物語は強く心に響いたことだろう。

 夜が深く更けるまで、蝋燭一本でそんな話をするのが日課になっていた。

 白百合も、ニコルも、マリアーノも。

 全員が、心地よさに耽溺していた。

「ニコル、俺と会ったときのこと覚えてる?」

「あ? いきなりなに言ってんだ。頭でも打ったか」

 ふたりで広い湯殿で熱い湯を浴びているとき、湯船に浸かるマリアーノがニコルへ問いかけた。

 ニコルは反射で悪態をつくが、少し考えてから「覚えてるよ、当然だろ」と答える。

「そっか、それは嬉しいなぁ」

「呪われた一族最後の生き残り、パイレーツ・オブ・ローズの副キャプテンとの出会いを、忘れるわけがないだろう」

「呪われた一族って言うのはやめてよ。やっと忘れかけてたのに」

「ああ、そりゃ悪いことしたな」

 少しも悪びれず、ニコルはへらへらと笑う。

 マリアーノの生まれは、肥沃な大地と温暖な土地で素晴らしい文化とともに栄えた国だ。彼はそこで、呪われた一族として生を受けた。

 一族はひとり残らず自由を奪われ、いつ誰かの享楽で命を奪われるかわからない生活を送っていた。

 最初に人の死を見たのはマリアーノが三つの夏である。幼いマリアーノを殴ろうとした軍人の前に立ちはだかった父が、あっさりと銃で撃たれて殺されてしまった。そうして死を意識し出すと、収容されている人間の数が次第に減っていくことに気付いた。

 彼らはどこに行ったのか?

 問いの答えはすぐに分かった。

 五つの春に仲の良かった子供が殺された。彼はマリアーノの従兄弟にあたる子供だった。暴力を受けた際に泣いたという、ただそれだけの理由で。

 歳を重ねて知恵を得て、経験を積んで軍人たちをやり過ごすことを覚え、マリアーノは生きた。

 生きて、最後は彼だけになってしまった。

 反抗せず、抵抗せず、心を殺して人形に徹してきたマリアーノに残ったものは――孤独。それだけだった。

 どれだけ絶望したことだろう。

 いっそ、先に逝ってしまった人たちを羨ましくさえ思ったほどに。

 その孤独と絶望から救ってくれたのは、同じ年くらいの金髪にペリドットの瞳を持つ少年だった。

 ――お前はそこでなにをしている?

「何年前だっけ」

 マリアーノが問う。

「十二年か、そのくらいだな」

 ニコルは答える。

 よく覚えている。

 赤茶の髪を短く刈られ、縞模様の服を着たアメジストの瞳の少年。

 鉄でできた柵の向こうで、所在なさげに座り込んでいた。

 ニコルの目に映ったその少年は、どんな財宝よりも自分の利になるものだと直感を与えた。

 ――ここから出してやる。

「あのときはなんて無茶を言う馬鹿かと思ったよ」

「悪かったな、馬鹿で」

「でも実行した。無茶なことを実現してくれた。感謝してるよ、ニコル」

「いきなりなにを言い出すんだお前は。あれか、帰りたいのか? あの柵の中に」

「そんなわけないでしょ。あそこに戻るくらいだったら、どこかの国で軍人やってたほうがマシだよ。それに……あの収容所はもうないんだから、帰りようがない。ニコルたちが完膚なきまでに壊しちゃったんだから」

「軍人やってたほうがマシか」

「マシだね」

「壊れちまって悲しい?」

「いや、嬉しい」

 マリアーノが即座にニコルの皮肉に答えていく。

 ニコルも乗り気になり、にやにやと笑いながら皮肉を並べていく。

「殺したいほど憎んだ軍人と同じものになってまで、あの柵の中には帰りたくないか」

「同じことを訊くなよ。帰りたくないに決まってるだろ」

「同じものになった自分を憎んだりしないか」

「さあね。なってみないとわからない」

「随分軽いな、お前の憎しみは」

「そうかな、けっこう根深いよ、ニコルが思ってるよりはね。……あ、でも、上司が可愛い女の子だったらその根深い憎しみも軽くなるかも」

「はん、軽薄な奴」

「そりゃどうも」

 マリアーノも答えながら冗談を交えて口元に笑みを浮かべる。

 ニコルとこうして話すことが楽しくて仕方がないという風に。

 実際、楽しくて仕方がないのだ。

 あの頃では考えもしなかった、自由な生活。

 追われはするものの、自らを束縛する柵もなく、自らを拘束する人間もいない。

 好きに生きていいのだと、隣に座るペリドットの男は言ってくれる。

「ニコルはどうなの。自分に罪を着せた犯人は憎い?」

「憎いに決まってるだろ」

 問いかけに即答するニコル。おまけに射殺すような視線も送られた。

「犯人吊るし上げて吐くまで殴って、最終的に殺してもまだ足りないくらいだ」

「だったら家には帰りたい?」

「それは――」

 少々躊躇って、呟く。

「どうだろうな」

「ふうん?」

「俺に罪を着せた犯人は憎い。だけど、犯人捕まえて無実を証明してまで、あの家に帰りたいと思っているかは別だ。俺の主張を無視して俺を追い出した父親を、許せるとは思えない」

「そっか」

「そうだ」

 許せるか許せないかで言えば、許せないだろう。

 子供の主張に耳を傾けることもせず、問答無用で家から追い出した父親。追い出されたあとは、あてもなく彷徨を続けて、近海をうろつく不当な集団――つまり海賊に取り入る形で仲間入りを果たした。

 もう、自棄になっていたのだと思う。

 どうにでもなれ、と。

 自殺すら頭をよぎり、どうせ死ぬのなら父親と正反対のものになってしまおうと、後先も考えずに行動した。

 結果、彼は天職を見つけた。

 海賊が職業になるのか疑問なところではあるが、しかし、彼の生きる道はこれしかないのだと思えるほどに、彼は海の上での生活にしっくりと馴染んでいった。

 最初に犯した悪事は窃盗だった。

 奇しくも、己が被せられた罪と同様である。

 ――なんだ。

 まだ幼いニコルは呆然と盗んだ金品を並べて見て、思う。

 ――意外と簡単じゃないか、罪を犯すって。

 ニコルを殺人犯と窃盗犯に仕立て上げた犯人も、こんな風に簡単に罪を犯したことだろう。

 こうやって簡単に、ニコルに罪を、被せたのだろう。

 だとしたら許せない限りだ。

 罪を犯すのだったら、自らが罪に問われる覚悟を持つべきなのに。

 なのに。

 なのに!

「ニコル」

 突如として、マリアーノの声がニコルの思考を遮った。

「過去を振り返るのもいいけど、今にも目を向けてね」

 頭を乱暴に撫でられ、水滴がびちゃびちゃとニコルの顔にかかる。

「やめろよ、おい! やめろって!」

「やめない」

「マリアーノ!」

 腕を使ってマリアーノの手を払いのけ、ニコルはマリアーノから距離を取った。

 広い湯殿なので、相手から腕が届かないくらいの距離を取ることが可能なのだ。

 ニコルをからかうことに関しては並々ならぬ執念を燃やすマリアーノも、ニコルが本気で嫌がっていることを悟る。

「はいはい、やめるよ。ごめんねニコル」

「子供扱いしてるだろ」

「そんなことないよ」

 マリアーノは両手の平をニコルへ見せて、なにもしないと意思表示する。

 しばらく彼を睨みつけていたニコルも、ふっと視線を和らげ、もとの位置に戻った。マリアーノの隣である。

「お互い苦労の身の上だね」

「俺たちだけじゃないだろう」

 マリアーノの言葉に、否定を交えて返事をするニコル。

「クラレンスも壮絶なもんだし、ほかのやつらだって結構シビアな経験をしてきている。気付いたらそういうやつばっかりだったのが蜜薔薇の海賊団だ」

 誇らしげに言うニコルの言葉に嘘はない。

 彼らに手を差し伸べたニコルが、その判断を間違いだと思うことなど、刹那の時間さえあり得ないだろう。

「ねえ、ニコルはなんで最初にいた海賊団を抜けて新しい海賊団を創ったの? あのままもといた海賊団にいれば、それこそ懸賞金も今よりもっと高額になってたかもしれないよ?」

「あー? お前それを訊いちゃうか」

 ニコルがからかうように言う。ふたりで話すとき、何度も話題にあがったものだ。ゆえに、マリアーノもニコルがどうして独立して海賊を始めたのかを知っている。それはすべからく、右腕であるマリアーノのためであった。

「あの海賊団じゃ、お前を仲間に入れることはできなかったからな。『呪われた一族なんぞをこの海賊船に入れるなど許さん』『そんなにその男を助けたければ、お前が船長となる海賊船でも創るがいい』ってのが、キャプテンの主張だった……まあ、俺は言われた通りにして、宣言通り、お前をあの柵から出してやったわけだ」

 過去を語るニコルは誇らしげだった。

 海賊が語る冒険譚は、それだけで勲章のようなものなのだ。

「あの収容所を襲撃することだけは、あいつら手伝ってくれたからな。感謝はしてるぜ。じゃなきゃ、こんな腕の立つ副キャプテンは手に入らなかった」

「へえ、嬉しいこと言ってくれるね」

「わざわざ言わずにおいて、お前から不評を買うよりいいさ」

 ニコルは変なところで正直な男である。

 自覚はあるが、別に改めるべきことでもないので本人も放置気味にしている癖だ。

 だから、ふと思い出したように核心に触れることもある。

「ああそういえば、マリアーノ、お前、あの蓮っていうこの国の王様のこと、ひとりで探ってるだろ」

「え……っ」

 マリアーノは驚きに目を見張ってニコルを見つめて、それから目を逸らして、大きく溜息をついた。

「はぁ――あ。ニコルにはなんでもお見通しかよ」

 マリアーノはずぶずぶと口元が浸かるまで湯船に潜って、ぶくぶくと水中で息を吐く。それは隠れて行ってきたことがばれたことに気まずさを感じているのではなく、ただ単純に恥ずかしがっているだけのように見えた。

 息を吐き切り、再び湯船から口を出したマリアーノは、アメジストの視線をちらりとニコルへやった。

「いつから気付いてた?」

「先月の中頃かな。どうもお前の様子がおかしいんで、オズワルドに探らせただけだ」

「あーあ、なんだよ。結構最初のほうで気付いてるんじゃん。しかもオズワルドに探らせるとか、容赦なしかよ」

 オズワルドとはローズクォーツの瞳を持つ、蜜薔薇の海賊団の乗組員だ。

 可愛らしい瞳の色とは打って変わって、鍛えられた身体に暗い茶髪のなかなかの益荒男である。そんな外見をしているせいで誤解されがちだが、彼は戦闘員というより暗号解読や諜報員としての活動を得意としている。彼にかかれば解けぬ暗号はこの世にないのではないかと言わしめるほどだ。

「別に探偵することを悪いことだとは言わないさ。海賊だからな。だが、探偵した結果は教えてくれなきゃ、不公平だよ。なあ?」

 意地悪く、ニコルのペリドットの瞳が怪しくきらめく。マリアーノの狼狽するさまを見ることができて満足だとでも言うように。

「はいはい、わかったよ」

 マリアーノも観念したのか、素直にニコルの問いかけに答えた。

「あの蓮って人、青い――お前に言わせれば、ラピスラズリの目をしてるだろ? そこがちょっと引っかかって……」

「そういやそんなこと、前にも言ってたな。あいつの家で飯食ったときだったか」

「まあね。それで、ちょっと白百合さんに探りを入れてみたり、直球で訊いてみたりもしたんだけど、少しばかり疑問が残る結果でね」

「ふうん?」

「彼……いや、彼なのかな?」

「なんでそこが疑問形なんだよ。そこから疑問持っちゃなんも始まらないだろ」

「ああ、ごめん。……で、彼なんだけど、まず、王様だよね」

「そうだな」

「王様なんだけどさ、家族がいないんだ」

「へえ?」

 家族がいない?

 ニコルの知る限りでは、王族貴族と言えば、両親に兄弟、また祖父母や召し使いたちも家族として認識されるはずだ。王様の周辺はそんな家族でいっぱいで、溢れているイメージが強い。

 そういえば、蓮の住む屋敷には、使用人と呼べる人間を見たことがあったか?


 ――ない。


 初めて蓮と会い、話したときも。

 次に白百合の計らいで会食を共にしたときも。

 一度たりとも、あの屋敷で、蓮と白百合以外の人間を見ていない。

 不用心ではないか? 仮にも一国の王だぞ?

「部下も一握りの人間しか近くに置かないみたい――というより、直属の部下と呼べるのはひとりだけみたいだよ」

「それが……」

「そう。白百合さん」

 ふむ、と。

 ニコルは思案顔をした。

 どうやらそこが蓮と白百合に関する根幹部分になりそうだ。

「で、調べたら、どうやら蓮さんはご両親も兄弟も、いたみたいだよ。昔は」

「昔『は』か」

「そう。みんな、病気や事故で死んじゃったみたい。それで幼いながらも、蓮さんが王様としてこの国の上に君臨したらしいね。こうなってくると、疑わざるを得ないよね」

「なにをだ?」

「わかってて訊いてるでしょ。意地悪いなぁ――蓮さんが、王になるために家族を暗殺したんじゃないかってことだよ」

「暗殺か……あの馬鹿真面目な白百合の直属の上司とは思えない行動だな」

「んー、白百合さんは、そのことを知らないのかもしれないよ」

 顎に手を添え、思案の動作をするマリアーノに、ニコルは怪訝な表情を向けた。

「はあ?」

「どうやら白百合さんは、蓮さんが王として君臨したあとに蓮さんの部下になったから、もしかしたら、蓮さんが暗殺したこと、知らないんじゃないかな」

「なんだそれ。三文小説じゃあるまいし、知らぬ存ぜぬの一点張りで通るもんかよ」

「さあね、そこまで詳しくは調べてない。……でも、気になるのが、蓮さんの家族も、みんな、目が黒かったってことかな」

「はあ? じゃあどうして、あいつの目はラピスラズリなんだよ」

「それが疑問の残る結果なんだって」

 そう言ったきり、マリアーノは黙ってしまった。

 言うだけのことは言ってしまったらしい。

 アメジストの瞳が「ほら、言っただろ?」と問いかけている。

 その通りだ。疑問が残っている。

 しかしなんの収穫もなかったわけではない。

 家族や使用人がいないということは、なにかを隠す場所にはもってこいだ。

 そして蓮の屋敷に自由に出入りをしているのはたったひとり、白百合。彼に問えば、なにか反応が返ってくるはずだ。そこにこの謎の糸口があるかもしれない。

 ――いや。違うな。

 ニコルは唇に手を当てて考える。

 ――蓮と白百合の間には、もっと違う『なにか』がある。

 そこまで考えたところで、ニコルの頭にふらりと靄がかかった。

 そのまま隣のマリアーノへと身体がふらりふらりともたれさせてしまう。

「え、なに、どうしたのニコル?」

「なん、か、頭がふらふら、する……」

 舌は回るが頭は回らない。こんな現象は初めてだ。

「ああ、こんな長風呂は初めてだもんな、お前」

 マリアーノはさっさとニコルを湯船から出して、介抱を始めた。

 そのときがらりと戸が開いて、先ほどまで話の中心だった白百合が入って来る。

「ど、どうしたのですか、おふたりとも!」

 湯殿の床で目を回しているニコルとそれに付き添っているマリアーノを見て、白百合は悲鳴をあげた。

「ああ、白百合さん。ニコルったら、長風呂でのぼせちゃったみたいで……冷たい水とかあるかな?」

 風呂に入るなどという文化はニコルの生まれ育った国にはなく、基本的にシャワーで過ごしてきた。この国に来て初めてニコルは湯船に浸かるという体験をしたのだ。それが存外気分のいいもので、いつもならばさっさと出てしまうものを、今回はマリアーノとの会話でついいつもの数倍の時間熱い湯の中だった。

 結果、慣れていないニコルはのぼせてしまったのだ。

「のぼせてしまったのですか? 湯を熱くしすぎてしまったのでしょうか……申し訳ありません、すぐに持っていきますね!」

 そう言うが早いか、白百合は脱衣所から上に一枚着物を羽織って、走って行ってしまった。

「あのさあ、ニコル」

「なんだよ、マリアーノ」

「白百合って、普通男につける名前じゃないよね」

「……知るかよ」

「どうもその辺も引っかかるんだよなぁ……」

「引っかかっとけ。どうせ時間が解決するだろ」

 ぐらぐらしていた視界も幾分か回復していたニコルは、睨みつけるように天井を眺めていた。


 ◇◇◇


 初めて人を殺したのはいつだったか。

 呆気なく殺せたのを覚えている。

 相手の胸を刺したナイフは生温かい血をぬらぬらと滴らせ、俺の手に伝う。

 ――なんだ。

 もう動かない人間の体を眺めて、ニコルは思った。

 ――こんなに簡単なのか、人殺しって。

 ――そんなに気分のいいものじゃないな。

 俺は善人でも、正義の味方でもない。

 どこにでもいる、海賊だ。

 だから物を盗むのは当たり前で、誰かを騙すのは当たり前で。

 人を殺すのは当たり前だった。

 けれど、どんなに盗んでも、どんなに騙しても、どんなに殺しても、心が休まることはなかった。

 心のどこかが悲鳴をあげているのが聞こえる。

 だから、耳を塞いだ。

 塞いだ世界で俺は、俺と同じ立場に立ってくれる人間を捜した。

 根こそぎ奪うのも、民衆を殺すのも、女を犯すのも、どれもつまらない。

 ただ自由でありたい。

 罪人は自由を望む。

 この広い大海原で、求めるものは自由と仲間。

 それだけだった。

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