第2話 二月
冷え込みが最後の足掻きとばかりに発揮され、吐く息は白く、道のそこかしこに白い雪が積もっている。
蜜薔薇の海賊団、その乗組員は、ほぼ全員、見つかった。
保護ではなく、発見、という形が約半数を占めていたのが、ニコルを始め、ほかの乗組員たちの気分を曇らせた。
仕方のないことだ。偉大な海を旅している以上、犠牲はつきものである。しかし、希望を持っていなかったと言えば嘘になる。
願わくば、全員生存して、再会したかった。
生体ならぬ死体と化した乗組員とは、再会しても嬉しくはなかった。
それでも弔いができると考えれば、前向きな気持ちになれるのだろうか。
――わからない。
これまで幾度もの死線をくぐり抜けて来た。それで失った仲間も相当数、存在する。
仲間を失うたびに弔いは行ってきた。しかし今回は失った数が多すぎる。五十人いた乗組員は、今や半数の二十五人だ。
発見されるたびに弔いの儀式を行った。この国で知り合った白百合という男も、何故か共に弔いの儀式に参加した。
無神論者のニコルが弔いなど矛盾していると考えられるかもしれないが、彼が祈っているのは神ではなく故人に対してである。ゆえに、彼の中で矛盾はない。
いもしない神になど、誰が祈るものか。
――あとひとり。あとひとりだけなんだ。
いまだ見つからぬ最後のひとり――オパールの瞳を持つ少年。
生きているのか、死んでいるのかもわからない。
ここまで不安になったのは久しぶりだ。
彼は船をなによりも愛していた。自らが船の修理を行ったり、舵を取ったりしていた。
だから、こうして難破してしまったことを、彼は悔やむだろう。悔やんで、悔しがって、手当たり次第に八つ当たりを繰り返すかもしれない。
生きているなら、その話を肴にまた酒を飲みたい。
浜辺近辺を歩きながら、ニコルは隣を歩む白百合に声をかけた。
「白百合」
「はい?」
「……いや、なんでもない」
出てきそうになった弱音を、ぐっと飲み込む。知り合ったばかりの人間に弱音を吐いて、付け込まれてはいけない。
白百合が他人の弱みに付け込むような人間でないことは知っているが、こればかりはニコルのプライドの問題だ。たった一ヶ月の付き合いしかない人間に弱みを見せることは、ニコル自身が許さない。
相手がたとえ、純粋という悪徳を持った正義の人だとしても。
「なんでもないことはないでしょう」
白百合はぴしゃりと言いきった。
「大切なお仲間が亡くなったこと、身を切られるほどの痛み以上であることお察しします。しかしニコルさん、それをなんでもないことだとご自分を欺くのはおやめください」
「………………」
自分を欺く――と、白百合は表現した。
欺いたつもりなどない。しかし結果的に、ニコルは自身を欺く行為によって、自身を慰めているのではないか。
仲間が死んだことはなんでもないと。
「ニコルさん、顔色が優れません。あまり無理をなさらずに――」
「うるせぇよ」
だが、その内心を看破されたからなんだというのだ。
「お前みたいな、平和な国でぬるま湯に浸かってる奴に心中察されたくなんかないね。なにも知らないくせに、分かったような顔をするなよ」
噛みつく勢いで、白百合に迫る。
「お前みたいに分かった顔をしてご機嫌を窺うような真似が俺は大嫌いなんだ。今お前を殺さないのは、あのレンとかいう、この国の王様と取り交わした約束があるからだ。いいな、二度と俺たちのことを分かったように言うんじゃない」
言われた白百合は、一瞬間ほど目を丸くしていたが、やがて俯き、項垂れたようになった。そしていよいよ、肩が震え始めた。
言い過ぎたか。
いや、言い過ぎたということはない。俺は本当のことを白百合に伝えた。
この男は、あまりにも距離が近すぎる。
毎日毎日足しげく旅籠へ通い、海賊団の面々と交流を深めている。暇なのか、と訊ねれば、暇なのです、と返され、下手に追い出すこともできない。本来なら、ならず者である海賊たちと交流を深めるなど、あってはならないことのはずだ。そんなことをすれば、いずれ世界海軍の耳に届く。
世界海軍は厄介だ。海賊と懇意にしていたというだけで、一介の軍人である白百合の首など簡単に飛ぶだろう。
白百合自身も言っていた。
人命は人命。
失っていいものではない。
海賊と懇意にしていたから白百合の命が失われるなんて、寝覚めが悪い。
これ以上白百合と仲良くしても、別れが辛くなるだけだ。
どうせ船ができるまでの短い間だ。ここらが潮時だろう。
仲良くなって、親しくなって、利点があるとは思えない。
ならば嫌われて、さっさとこの国を離れよう。
そちらの方が、海賊としての性に合っている。
海賊は世界のはぐれ者。
一国の軍人が、親しくしていい相手じゃない。
「………………」
ニコルが決意を新たに彼の方を見ると、白百合は果たして――肩を震わせ、前のめりになり――声を殺して、笑っていた。
「はぁ?」
「ふふふ……ふ、ニコルさん、随分とお優しいのですね」
「優しいと思うのか――海賊が」
予想外の反応に面食らい、思わず問う。
「お優しいですよ、十分に」
オブシディアンの瞳でニコルを見据え、白百合はにこりと微笑む。
問いの答えは単純だった。
「ふん」
ニコルは釈然としないまま白百合から目を逸らす。
「ああそうだ。どうやらニコルさんはわたしたちの国の警備姿勢になにか文句がおありのようですので……どうです?」
「どうって……なにが」
「一戦交えてみませんか……とお誘いしているんです」
言って、浜辺に打ち上げられた木の棒を拾い上げ、剣法の姿勢を取った。
――この国独自の剣法か。
両手で棒を握り、先を真っ直ぐ相手に向ける。
「その誘い――乗った」
そしてニコルもまた手頃な棒を拾い上げ、白百合と向き合う。
静寂の後、ニコルが先手を取るように白百合へ接近した。
そしてそのまま、袈裟懸けに振り下ろす――!
しかし白百合とてむざむざやられるほど馬鹿ではないらしく、棒を横へと逸らし、ニコルの攻撃を防いだ。ニコルにとってその程度予測の範囲内。帯剣しておいてあの程度の攻撃を防ぐこともできないというのは、この国の戦力の浅さを物語るだけだ。返す刀で再び白百合を狙う。白百合は一歩後方へ退き、その攻撃を避けた。
さて、次は白百合の番。
退いた一歩を今度は前へ。ニコルに接近し、下段に構えた棒を力いっぱい振り上げる。ニコルは上半身を反らし、紙一重で白百合の攻撃をかわす。棒は、ニコルの鼻先を掠めていった。
「あ――ああ、っと、おっとっと……」
次なる攻撃を警戒したニコルだったが、白百合の身体は棒を振り上げたままうしろへとバランスを崩し、足は縺れ、そのまま無様に砂浜へしりもちをついてしまった。
「なにやってんだよ」
呆れた様子で構えた棒を放り捨て、しりもちをついた状態の白百合へ手を伸ばす。
「それがお前の全力か? 殺し合いだったら死んでるぞ」
白百合はふにゃりと笑んで、「ごもっともですね」とニコルの手を取った。
「いやぁ、しばらく稽古をしていないと、身体がなまってしまいますね。これでも軍の中では上位なのですが……」
「負け惜しみもそこまで来ると立派だな。お前本当に軍人か? それじゃ国なんか守れないだろう」
「ご高説痛み入ります。耳が痛いですね」
ニコルの手を借りて立ち上がった白百合は、服に付いた砂を払いながらそんな風に受ける。
白百合が持っていた木の棒を捨てたところで、濃紺の軍服に身を纏った青年が白百合に駆け寄ってきた。
「白百合上官! 蜜薔薇のみなさんの最後のひとりと思われる少年が――」
◇◇◇
蜜薔薇の海賊団、最後のひとり、オパールの瞳を持つ少年は、海岸付近の洞窟で発見された。
発見とは言っても、死体ではなかった。
生きていたのだ。
彼はすぐに保護され、海賊団の乗組員が逗留している旅籠へと運ばれた。
ニコルと同じ金色の髪は長く、ひとくくりにまとめられ左側へ流されている。ぼろぼろの衣服は汚れていて、過酷な環境に身を置いていたことが窺える。固く閉じられた瞳に生える睫毛は長く、愛らしさを残している。そして――左肩の先がなかった。
「左腕が欠損していますね……これは以前から?」
白百合が問う。
毎日旅籠へと通うことで、当初は警戒していた海賊たちも、回を重ねるごとにひとり、またひとりと白百合に心を開いていった。今こうして、保護されたオパールの少年の看病を彼に任せていることも、彼と彼らが打ち解けていることの裏付けであった。
「そうだ」
白百合の隣に座り、オパールの少年が深く眠る布団の傍らで腕を組んでいるニコルが頷いた。
「俺と出会ったときにはもう、左腕はなかった」
「……では目立つ外傷はなさそうですね。安心しました。しかし……」
少年の額にあてている手拭いを代えながら、心配を含んだ声音で白百合は呟く。
「ひと月も洞窟で生活していたのでは、まともに食事もできなかったでしょう」
「みたいだな」
ニコルも白百合の言葉に同意した。
「発見された洞窟には魚の骨なんかも転がっていたらしいが……栄養が十分に摂れていたとは言えない――ってのは、お前が手配してくれた医者が言った通りだ」
「栄養失調で子供が死んでしまうことは痛ましい限りです。しかし、この子は生き延びた。なんと立派なのでしょう」
「まあ赤ん坊のころから海の上で生活していたからな……しぶとさは折り紙付きだ……と、んん?」
「え?」
ニコルが、少年を見て声を上げた。
自然と、白百合も少年を見る。
すると、少年のまつげがふるふると震え、瞳が動いた。
きらめく瞳が、ぼんやりと、光を宿らせた。
「よかった。目を覚ましたのです――」
ね。と白百合が言い終える前に、白百合の姿を認めた少年が布団をはねのけ、白百合を突き飛ばした。
その衝撃によって白百合の細い身体は容易くバランスを崩し、強かに肩を襖へと打ちつけた。
「――ぐ……っ」
「誰だお前は!」
呻く白百合に構わず、少年は叫ぶ。
「おいクラレンス!」
「ん? あぁなんだよキャプテン、いたのか」
「いたのかってお前……目が覚めた直後くらい大人しくしてろ馬鹿! 見境なく人を突き飛ばすんじゃねえ!」
「見境なく? ちゃんとキャプテンは狙わなかったんだから、見境なくはないだろ。オレは知らない奴を先手を取ってやっつけただけだぜ」
「そのやっつけた奴は俺たち蜜薔薇の海賊団の恩人だ!」
「恩人?」
オパールの瞳の少年――クラレンスは、露骨に嘲りを顔に滲ませた。
「海賊の頭目がなにひ弱なこと言ってんだ! 見たとこそいつ軍人だろ? 国家権力に助けられるなんて海賊の恥だ! だったら助けられずに野垂れ死んだほうがマシだ!」
クラレンスがそう叫ぶと、俊敏な動きで白百合が立ち上がり、クラレンスへと接近し、その頬をはたいた。
それは、先ほどニコルとチャンバラをした際に見せたおどけた人間とは思えないほど――そして、クラレンスに容易く突き飛ばされたとは思えないほど――熟練された戦士の動きだった。
――こいつ、まさか、相当強い?
クラレンスは赤ん坊のときから、海賊として海の上で生活してきた。ゆえに若干の世間知らずなところがあるが、その戦闘技術は十把一絡げの軍人では相手にならない。物心がつく前から、戦闘を間近で見て、参加しているからだ。警戒心は動物並と言ってもいいだろう。
そんなクラレンスを、万全の状態ではないとはいえ、頬を張る。
言葉だけなら簡単だが、実際は野生の獣を蹴り飛ばすくらいに難しいはずだ。
ニコルの思惑など意にも介さず、白百合ははたいた姿勢のまま、ニコルが彼と出会って初めて、声を荒げた。
「死んだほうがマシなどと、おいそれと口にするんじゃありません! それもあなたのような若造が、あたら命を散らす必要などないのです!」
白百合の顔は――必死の形相だった。
「洞窟で空腹に耐えながら生きていたのでしょう! ならば何故軍人に助けられた程度で命を捨てようなどと言えるのです! 命の前では、軍人も海賊も関係ありません!」
怒りと苦痛と、溢れ出る感情を死に物狂いで我慢しているかのような表情をしていた。
「生きたかったのでしょう! 死にたくなかったのでしょう! それなのに、どうして……っ!」
肩で息をしながら、白百合はついに、堪えていた涙を流した。
「えぇ――はぁ?」
一方クラレンスは、はたかれた頬に手を添えながら、呆然とするほかなかった。
「なにこいつ……」
「なにを考えているかわからないという点では、俺もお前に同意するよ」
ニコルはようやく立ち上がり、クラレンスの肩に手を置いた。
「――だが、死んだほうがマシ云々についてはそっちの男……白百合に完全同意だ」
肩に置いた手に、自然と力がこもる。
今ここに、仲間がいる。死体ではなく、生きた肉体が、ここにある。
「生きててよかった。ありがとう」
クラレンスはしばらく俯いて唇を噛んでいたが、やがて絞り出した声で、
「……うん、キャプテン、オレも生きててよかった……」
と、そう言った。
◇◇◇
くつくつと、囲炉裏の上で鍋が音を立てる。
ふんわりと香るそのスープに、海賊たちはどんな料理だろうと期待を膨らませる。
「クラレンスさんはまともに食事を摂っていないそうですので、まずは汁物で慣らしましょうね。さあ、器を」
「あ……うん」
差し出された白百合の右手に、クラレンスは素直に自分の椀を渡した。
白百合は微笑んで、椀にスープを注いでゆく。
「これは豚汁といいまして味噌汁の一種なのですが、ほかの味噌汁と違い、具が多いことと豚の肉を使っていることが特徴的な汁物です。具が多いのでとても味わい深い料理となるのですよ」
「とんじる……そのスープがか?」
ニコルが白百合に訊ねる。
「すーぷ……西洋の言葉で汁物を指す単語ですね。ええっと……はい、その通りですよ、ニコルさん。寒い時期によく食べられる料理なんです。海賊ですから、菜食主義ではありませんよね?」
白百合は海賊たちの器に順番に豚汁をよそいながら、ニコルの質問に応じる。
「ああ、海賊が菜食主義じゃやってられないからな……ふうん、豚汁か」
漆塗りの器によそわれた豚汁という食べ物は、茶色のスープにたくさんの野菜や肉が入っていた。鼻孔をくすぐる柔らかな香りで、唾液がどんどん口の中を満たしていく。
うん、うまそうだ。
「それではみなさん、手を合わせてください」
全員の器に豚汁を盛り、白米の米飯を配り終えたところで、白百合はそんな風に言った。
これはニコルが白百合の屋敷で養生していたときも同様で、食事は必ず全員で食べ、食事の前には食前の挨拶をすることが義務付けられている。
義務付けたのは白百合だ。
海賊たちは全員で食事をすることはあれど、食前の挨拶をするほど育ちの良い者たちばかりではない。むしろ無作法者のほうが多い。
白百合が食前の挨拶をさせようとしただけで彼を邪険に扱っていた海賊たちだったが、いつの間にか彼に懐柔され、「白百合の言うことなら」と素直に言うことを聞くようになった。
情けないと思いつつも、ニコル自身も懐柔されている海賊のひとりであることに変わりはない。気付いたときは少しだけショックだった。
「いただきます」
白百合に倣い、海賊たちも手を合わせ「いただきます」と言う。
そして、賑やかな食事が始まった。
「………………」
「どうした、クラレンス」
皆と同じように「いただきます」と控えめに食前の挨拶をしたクラレンスは、豚汁の盛られた器をしげしげと眺めていた。
ニコルは訝しく思い、クラレンスに声をかける。クラレンスは生返事をした。
「いや……」
「腹減ってんだろ? 食べとけ。白百合のことをまだ気にしてるんなら、もう気にする必要はないぜ」
「なんで?」
「俺もな、最初は白百合に反発しまくってたんだ。暴言も散々吐いた。だけどな、あいつは一度たりとも、俺を見捨てたりしなかったんだぜ。どこの誰かもわからない、なにをしでかすかもわからない奴をだ。お人好しなんだよ」
「お人好し……」
クラレンスはニコルの言葉を反復する。
「そんで、俺たちはそんなお人好しに命以外にも衣食住、すべての面倒を見てもらっている……これ以上反発なんかしたら、白百合は許すだろうが、罰が当たるぜ」
「キャプテン、無神論者の癖に、罰が当たるなんて考えるんだ」
困ったように呟くクラレンス。
そしてやっと、朱塗りの器に盛られた豚汁に口をつけた。
「…………美味しい」
クラレンスの頬がぽっと赤らみ、オパールの瞳がきらきらと輝いた。
「だろう。白百合の料理の腕はかなりのものだ」
蜜薔薇の海賊団にも専属コックがいるが、ここまで繊細な味は出せないだろう。もちろん専属コックの料理が不味いというわけではなく、専属コックの料理にも良さがあるのだが、いかんせん海の男で海賊だ。さらに言うなら大所帯である。質より量となってしまうのはいたし方ない。
対する白百合の料理は、大人数を相手にしているというのに、下ごしらえから盛り付けまで、ひとりでこなしているとは思えないほどに丁寧だ。まるで人柄がそのまま料理に表れている。それで味のほうも完璧となれば、粗野な海賊たちの胃袋を掴むのは当然だった。
「キャプテン、オレ、白百合にひどいことしたな。突き飛ばしたり、暴言吐いたり……」
「おや、わたしがどうかしましたか」
気付けば、白百合がクラレンスのすぐそばで佇んでいた。
そつのない動きで畳の上に正座をし、空になったニコルの器を取ると、そこに豚汁をよそっていく。
「あ……いや……」
どぎまぎと言葉に詰まるクラレンス。
ひどいことをしたと自覚して反省することはできても、すんなりと謝罪ができるほど素直になれない。
「片腕で食事はしにくかったでしょうか。せめて匙をお渡しするべきでしたね」
そしてクラレンスに小振りの匙を渡す。どこまでも気配りの出来る人間だ。
「気が付かず申し訳ありません」
白百合は大人の対応である。謝罪だってすんなり口から出る。
そういった、白百合と自分の差異が、クラレンスに居心地の悪さを覚えさせるのだろう。
居心地の良さゆえの、居心地の悪さ。
相手の良心に触れるたびに、自分の愚かさを思い知らされる。
ニコルにも覚えがあることだった。
白百合の屋敷で匿われていた時のことだ。
一度は強い反発を覚えた相手に、過保護なくらいに世話を焼かれるというのは、ニコルのプライドを大いに傷つけた。
瀕死の重傷だったニコルを、部下の反対を押し切ってまで保護し、見返りさえ求めず献身的に世話をした白百合。
――なにが目的だ。
――こんなことをして、お前になんの得がある。
目が覚めてそうそうに、ニコルは怒鳴った。
心配げに伸ばされた手を払いのけた。
――触るな。
無理矢理起きようとするが、身体は鉛のように動かない。
――安静に。
――どうぞ休んでください。
初めて口を開いた白百合は、静かだが厳粛な声でニコルを制した。
オブシディアンの瞳が、まっすぐニコルへと注がれた。
――わたしは白百合と申します。この国に従属する一介の軍人です。
オブシディアンの男は厳かに名乗った。
――軍人?
――軍人が俺を助けてどうするつもりだ。
――世界海軍に売るつもりか。
動けない代わりに、ニコルはできる限りの悪態をついた。
情けない負け犬の遠吠えだったが、虚勢を張っていないとやりきれなかった。
――我が国は世界海軍の連合には所属しておりません。
――貴方がどんな人であろうと、弱っている人間を見捨てることはできません。
――さあ、安静に。
――あまり激されるとお身体に障ります。
「………………」
ニコルは短い回想を終え、再び白百合に視線を戻した。
白百合は正しい。
きっと、正義の人だ。
こんな悪人どもの世話を進んで買うような、お人好しだ。
「なあ、白百合」
「はい、なんでしょう?」
ニコルの呼びかけに、素直に応じる白百合。
なんて穏やかなオブシディアンだろう。
なんて美しいオブシディアンだろう。
少しだけ躊躇ったすえ、とある提案を白百合に開示した。
「お前、俺たちの仲間にならないか」
「――――え?」
しん、と。
今まで騒がしかった場が静まり返る。
ニコルの言葉に、クラレンスも、マリアーノも、ほかの乗組員たちも、そして白百合も、虚を突かれたのだ。
「な……」
震える声がした。
「なにを言ってんだよ、ニコル?」
マリアーノの声だった。
アメジストの瞳を丸くして、ニコルを凝視している。
「冗談はやめようよ。ほら、みんな白けちゃったじゃないか」
「俺が冗談を言うと思うか?」
「……そりゃ、お前が冗談を言うとこなんて見たことないけど……でも、一国の軍人さんを仲間に引き入れるなんて、馬鹿みたいなこと、冗談としか……」
「軍人あがりの海賊なんて珍しくもないだろう」
「そうだけど、でも――」
「ニコルさん」
マリアーノの言葉を遮って、白百合の凛とした声が響いた。
見ると、畳の上に正座をした白百合が、オブシディアンの瞳でこちらを見つめていた。
「そのお誘い、身に余る光栄です。……けれど、わたしにはこの国がある。わたしはこの国から離れられないのです。大変嬉しいお誘いですが、辞退させていただきます」
畳に額をこすりつけながら、やはり落ち着いた声音で、そう言った。
再び顔をあげた白百合は、笑顔で「さあ皆さん、豚汁はまだまだたくさんありますから、どんどん食べてくださいね!」と、固唾を呑んで見守っていた海賊団の乗組員に向かって溌剌と言ったのだった。
こうして、その日の食事は多少の気まずさを残しながら、夜が更けるまで続いた。
◇◇◇
「なあ、白百合」
食事を終え、後片付けも終えて、旅籠から自分の屋敷へと帰ろうとする白百合の背中に、声がかかった。
振り返ると、身なりが小綺麗にされたクラレンスが立っている。
何故、身なりが小綺麗になっているかと言うと、食事の最中にマリアーノがいきなり立ち上がり、クラレンスを抱えて部屋から姿を消した。しばらく戻ってこなかったが、四半刻ばかり経ったころ、風呂に入れられ、借り物の浴衣に袖を通したクラレンスと、達成感を滲ませた表情のマリアーノが戻ってきたのだ。
どうやらクラレンスのあまり綺麗ではない身なりに我慢が利かなかったらしい。マリアーノは海賊として珍しく、綺麗好きなのだ。
「おや、クラレンス君、どうしましたか? わたし、なにか忘れ物でもしましたっけ」
「いや、忘れ物はしてない……けど、オレが忘れ物をしてて……」
クラレンスはなにかを言いかけてはやめ、恥ずかしがるようにふるふると首を振り、その一連の行為を幾度か繰り返したあと、最後にびしっ、と白百合を指さした。
「きょ、今日はありがとう! 豚汁、美味しかった! あと、その、突き飛ばしたり悪口言ったりして、ごめん、な……さい…………」
最後はだんだんと元気がなくなり、消え入りそうな声だったが、確かにクラレンスは、白百合に感謝と謝罪の言葉を伝えた。
恥ずかしさで顔を真っ赤にして、俯いて小刻みに震えるクラレンスの肩に、白百合は着ていた外套を羽織らせた。
「え……?」
「この季節に浴衣は寒いでしょう。本来なら、浴衣は夏に着るものですからね。マリアーノさんも間違ってしまったのでしょう」
腰をかがめて、クラレンスと目線を合わせる。
オブシディアンの瞳と、オパールの瞳が、互いの瞳を映し出す。
「わたしも叩いてしまってごめんなさい。痛かったでしょう」
「べ、別に痛くない。オレは海賊だからな!」
「ふふ、お強くて頼もしい限りです」
「あのさ……」
オパールの瞳を伏せ、クラレンスは言う。表情の翳りは、年不相応に大人びて見えた。
「はい?」
「キャプテンがいきなりあんなこと言ってごめんな。きっと、白百合がいい奴だから、仲間にしたかったんだと思う。オレだって白百合が仲間になってくれたら嬉しいけど、無理矢理はいけないよな。白百合にだって、この国に家族がいるんだろ?」
「…………いいえ。家族はいませんよ」
白百合の声が、悲哀の色を見せた。
「家族はみんな、死にました。わたしに残っているのは、主と、部下だけです」
「そんな……ごめん」
クラレンスの声に戸惑いが見える。そんな彼の様子を見て、白百合は再び穏やかな微笑を浮かべた。
「いえ。謝ることではありませんよ。それよりも、クラレンス君、夜は冷えるので、お気をつけて」
「うん。白百合も、風邪なんか引くなよ」
「ええ、もちろん」
互いに手を振り合って別れて、白百合の姿が見えなくなるまで、クラレンスは彼の背中を見送った。
ぴゅう、と冷たい風が、クラレンスの頬を撫でた。
蜜薔薇の海賊団と軍人白百合の親交はたった二ヶ月の間に海ほどに深くなっていた。
しかし同時に、悪逆非道、残虐無比の代名詞とも言える蜜薔薇の海賊団が海に姿を見せなくなって二ヶ月経った。
訝しむのは同業者の海賊たちか、それとも彼らに目をつけている世界海軍か。
数ヶ月後にこの島国にやってくるのは鬼か蛇か。
それがどんな結果をもたらすのか、彼らはまだ知らない。
◇◇◇
ああ。
痛い。痛い。
憎い。憎い。
痛い。痛い。痛い。
憎い。憎い。憎い。
どうして身体がこんなにも痛むのだろう。
どうして心がこんなにも痛むのだろう。
降り注ぐ雨はわたしの血液を洗い流すが、それでもなお、血液は溢れ続ける。
わたしはこのまま死ぬのだろうか。
血まみれで倒れている子供になど一瞥もくれず、人間たちは過ぎ去っていく。
わたしは人間ではないのだ。
だから、人間である彼らにとっては取るに足らない存在なのだ。
ああ、痛い。
ああ、憎い。
わたしとはなにか。
知らずに死ぬことになりそうだ。
家族もなく、親もなく、兄弟もなく、知人もなく、記憶もなく――ここで野垂れ死んでしまうのだ。
雨にうたれて、身体の芯から冷えきって。
痛い。憎い。痛い。憎い。痛い。憎い。
「大丈夫ですか?」
雨が、やんだ。
わたしをうつ雨は、彼の傘で遮られた。
「一緒に帰りましょう」
わたしは、差し伸べられた手を取った。
雨しか知らないわたしの世界が、ほんの少しだけ、日の光を見せた。
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