第29話 レクイエム
エリダヌスは豊かに、穏やかに流れ行く。さっき気付いた羽のような何かは、どうやらあの結晶と似たようなものらしく、岸辺に降りかかった飛沫の中から、ふわりと生まれては漂い、儚く溶けた。
レフが指差す、虹色の霧の行く先は、相変わらず濃い靄の中に沈んでいたが、あの、星雲を覗いた時のように、視野の隅にとらえるようにして眺めてみると、うっすらと影があるのが分かった。
「……見えるかい? ポー、フルカだよ」
レフがそう言った瞬間だった。
どくん、と大きな音がしたと感じた。身体が何重にもぶれていく。あまりにも一気に、大量の音や映像が流れ込んできて、意識はその渦に飲まれてしまった。
「ポ=アルテッサですか……両極端で有名ですからね。果たしてこの子はどちらの極となるのやら」
声のする方に目をやると、柵の向こうに何人か居て、揃いの仮面のような顔で自分を見下ろしていた。
「税金を注いで育てるのですから、賭けをするような真似は出来ません。私は反対ですね。他の……ナト=ハザリエや、エ=サリあたりから選ぶべきでは」
ファイルを捲る音がひどく耳障りだ。
「しかし、天才の側だった場合、世界を変える可能性がありますよ」
「前回もその理由で育成をして、結局、数年で意志疎通不可能判定になりましたよね。記録によると、ここしばらく、天才の側だった、ということは無いようですが? 」
「……では、こうしましょう。この子供にダラムホーンの原書を与え、既に教育を始めている50名と解読を競わせましょう。同程度と認められれば、機関に入れても良いのでは? 」
「それは……確かにそれならば、異存はありませんが、あの古代文字の解読を、まだ目覚めて間もない子供に課すとは、少々……」
「ポ=アルテッサに生まれた以上、この子供に期待されるものは、この先もずっと無茶なものであり続けるのです。もう一度だけ、賭けをしましょう。税金を使わずに、なら文句はないでしょう? 」
新品の、美しい衣装が手渡された。上から見下ろしていた仮面達が、床に膝をついて貼り付いたような笑みを自分に向ける。気持ちが悪い、と感じた。
「少し大きいかもしれませんね。何しろあなたほど小さな子供が、入学したことはないんですものね。支度を手伝いますか? ポ=アルテッサ·ポウ」
自分で出来る、と答えると、別の手が伸びてくる。
「教授達の驚いた顔といったら、なかったんですよ。誰よりも早く、解読してしまったのですから」
自分の為に、したまでだ。誉められるようなことではない、と思った。それよりも、どうすればそっとしておいてもらえるのか。その方が難問だった。
英才教育機関など、何も楽しくはなかった。周囲の大人は煩わしく、子供は失敗させようと馬鹿馬鹿しい悪戯をするか、矢鱈にすり寄ってくるか、どちらかだった。新しく知識を得る喜びも、一瞬だけのものだったし、そこにいる意味など、見出だせなかった。早く抜け出したかったが、抜け出したところで、やりたいことなど何もなかった。もしかしたら、アルテッサの一族は、両極端などではなく、こうして皆病んでいくのではないかと思った。暗い目をした子供は、既に自分の末路まで知ってしまっていた。
上のクラスを飛ばして、入れられた研究員コースで、フルカに出会った。
「はじめまして、ポウ。私はフルカです。皆を代表して、歓迎します」
仮面ではない微笑みを向けられて、戸惑った。
エ=サリ·フルカは優秀な家系の中でも、特に秀でていると、評判だった。学術的な能力にも恵まれていたが、加えて努力を惜しまない才能を、天から与えられている、と。それまでは他の人間と同様に、さほど興味をひかれる対象ではなかったが、会ってみると明らかに他とは違う何かを持っている人物だと感じた。
「あなたは何が好きですか? 」
挨拶以外、話すこともなく、目をあげることもない自分に、気を遣ってくれたのだろう。フルカは優しい声で語りかけてくる。
好きなもの……あるいは楽しいと感じること……探してはみるものの、思い当たらない。つくづく空っぽだった。答えられないでいると、フルカが手を差し伸べる。
「私は、『わからないもの』が好きです」
意味がよく分からなくて、目を上げる。
「『わからないもの』を解っていくのが好きなんです。とてもわくわくして、楽しくなります」
それは少しだけわかる。
「そう、あなたはきっと、既にたくさんのことを知ってしまっているから、私より『わからないもの』は少ないのでしょうね。でも、ポウ、それでもまだまだ、『わからないもの』はありますよ。ほら、数えてみましょう? 誰もまだ見つけていない星、伝説の銀のユリは本当にあるのか、鳥達は何をあんなに話し合っているのか、この世界の外側はどんな世界なのか、ポウは何が好きなのか」
子供じみた話だ。けれど、フルカが言いたいことは分かった。そして確かに、自分の知識は既存のもので、それが全てではないことは知っている。ただ興味がなかっただけだ。
それに、自分にとっては、フルカだって充分に謎だ。こんな人間は、今まで周りに居なかった。苦痛を感じずに関われる、不思議な存在。
「これから一緒に、その答えを探しましょう」
その言葉に頷いた時から、世界は少しずつ変わっていった。
研究を一緒に行うようになると、より一層、教えられることが多かった。結果が見えてしまう自分は、そこに行き着かなければ、実験は失敗だったと結論付けしようとする。でも、フルカはその過程も全て記録し、何通りもの結果を地道に検証する。効率は悪くても、1%の可能性を捨てないその姿勢の中に、多くの尊いものを見つけることが出来た。
価値観が変わると、自然と、仲間も増えていき、そしてようやく、楽しいと感じられるようになった。
「おめでとうございます、ポウ。晴れて正式な研究員ですね。結局追い付いて行けませんでした」
フルカは少しだけ残念そうに、そう言った。でも、自分事のように喜んでくれていることも、分かっていた。時空嵐の研究は、フルカに影響を受けて希望するようになった。昔の自分なら、人を助けるということに、なんの興味も持てなかったと思う。でも今は、『人は変われる』ことを知っている。生きている限り、可能性を残さない者など、一人としていない。だから、消滅から救いたい。
「あなたと友人で居られることを、心から誇りに思います。私も必ず、あなたと同じフィールドに行き、あなたの手伝いをします。どれだけかかろうと」
約束が果たされるまで、それほど長くはかからなかった。互いに尊敬し、互いに感謝し、同じ目標を掲げて一緒に進む道は、輝きに満ちていた。いずれどこかで、それぞれに別れた道を選ぶことになろうと、想いは決して変わらないと、信じていられた。
たとえ、もう二度とその姿を見ることができなくなっても、問いかければフルカの答えは聞こえてきた。ただまっすぐに生きたひとだからこそ、そういう力を残せたのだと思う。迷い、立ち止まり、その度に助けられた。
この空間が生まれ、時空嵐が発生し、それが収まった頃、まだ空中に残っていたアルマカルナスとフルカアルマの結合体に、時間の河から漂ってきた虹の粒子が取り込まれて、どの時空にも属さない、特殊な座標軸を持つ生命体が生じてしまった。だから急いで、実験所に持ち込んでいたアルマカルナスを全部使って、虹の粒子を導く塔を建てた。フルカの姿を写したのは、彼女への、そして還り逝く生命たちへの、自分なりのレクイエムだったのかもしれない。
生じた生命体はたったひとつ。金色の光を放つそれは、自ら河の中へ戻って行ったが、流れながらも紛れることはなく、その成長を岸にいながら観ることが出来た。河の中の世界で、レフと名付けられーー
「……へ……コヘ!! おい! 大丈夫か! 」
激しく揺さぶられて、ようやく意識を取り戻した。途端、酷い頭痛に襲われる。航平は体を丸めながら、弱々しく言った。
「……おま……肝心のとこで……ちょ……やめ……ヤメテ! 」
半泣き状態のレフが今まさに振りかざしていたのは、あの巨大な釣竿の柄だった。
アケルナル やもりれん @yamore002
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