第7話 帰宅
航平が見たものは、螺旋だった。沈んでいく体を追うように、静かに延びてきた。巻き込まれる、と思った瞬間、それは額のあたりから入り込んできた。思わず身を縮めたが、体内に取り込まれた回転は緩やかで、恐ろしくはなかった。それでももし、レフの話を聞いていなかったら、パニックを起こしていたと思う。航平はあの感覚を確かめるように、ぎゅっと指先を握りしめた。
「あ……」
水色の、透明な飴玉を、歯の間に半ば覗かせて、青谷が言った。
「あっへぇ⁉ 」
「え、何? 」
「あっ……すまん……ちょっとびっくりして。アホヤこそ何? 」
「いや、俺はただ、今のシーン、なんや覚えがあるっておもて……」
(うわ、ほんまに継ぎ目なくつながったんやな……それに俺もちゃんと見えてるみたいやし。)とりあえずは、ほっとした。
「そやな」
気楽に頷いてから、あれ、と気付く。(ーーで、ええんやっけ? 前はどう答えたか忘れてもた……)もしかして、こういうちょっとした違いが、歴史を変えてしまうことになりはしないか、と。もしそうだったら、責任重大だ。(俺のせいで世界が崩壊に向かったら、どないしよ)
継ぎ目がないのは、周りから見ても不自然じゃないし、自分も対処しやすいから良いのだが、あまり戻りすぎても危険だ。そのあたりのことを、もっと訊いておくべきだった。
「え、お前もか?ほんまか?二人同時にデジャブか⁉ 」
ーー何か違う。早いうちに修正しなければならない。しかしそんな細かいことまで覚えているはずもない。
「あ、いや、えっとな……俺もそういうこと、良くあるわっちゅうことや」
何となくこんな感じだった気がする。そうだ、飴がベタベタしていたのが、重要だった。
「あ、飴、ベタベタやな。ありがとうな」
何やら意味不明になってしまった。しかし青谷は気に止めない。そこがええとこやな、と航平は思う。
「おう。持ち物検査があったらイッパツやったわ。あぶな。……何の話してたんやっけ? 」
「忘れたな」
「お前もか。俺ら、二人ともアホでどないすんねん。さて帰るか。また明日な」
青谷が自転車を漕ぎ出した。その足の動き、背後の山影の濃さ、傾きかけた陽が染め上げる空気の色合い、どれもが鮮やかで、今の航平にはよほど現実離れして見えた。大地から立ち上るこの香り。彼方から響いてくる烏の声。この世界は、なんて豊かなのだろう。
「……帰ってきたんやなあ……」
ゆっくりと自転車をこぎながら、深く呼吸した。自分の居場所はやはりここだ、と実感する。アケルナルなんて、訳のわからない所に、帰りたくなるわけがない。少なくとも、とうぶんは。
「……アイツ、『やらかした』んちゃうかなあ……」
独り言が出る。胸の奥が、ほんの僅か、ちりっとした。
「……いやいや、行かへんよ」
でも、と、会話を反芻してみる。2回、戻った、と言っていた。多分、いや間違いなく、こっちに帰って来る度に、今と同じ気持ちになるはずで、アケルナルに戻るなんて考えられなかったはずだ。なのに、帰った?
「なんでやろ……ちゅうか、どうやって帰ったんやろ? 」
船から帰った時のように、何かの板みたいなもので吊り上げられたんだろうか? 一番考えられるのはそれだが、レフの口調だと、『レフはなにもしていないのに戻ってきた』と受け取れた。ーーもしかしたら、何かのきっかけで、意図せず、アケルナルに戻ってしまうのではーー
「うわ。それはかなわんわ……」
こうなると、記憶がないのが悔やまれる。
気がつくと、家の前だった。甲高い音をたてて自転車を止めると、カレーの匂いに思考を絡めとられてしまった。急に腹が真空状態になってしまった気がする。航平は目眩を覚えて、玄関に飛び込んだ。
「ただいまー! カレー! 」
「うわ臭っ! さき、足洗ってんか! 」
何でもない日常に、これほどの幸福を感じたのは、覚えている限り初めてだった。その夜、航平は満ち足りて眠りについたのだった。
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